転生記 1978年1月

目次:
1(休・日) 2(休・月) 3(火) 4(水) 5(木) 6(金) 7(土) 8(日) 9(月) 10(火) 11(水) 12(木) 13(金) 14(土) 15(日) 16(休・月) 18(水) 19(木) 20(金) 21(土) 22(日) 23(月) 24(火) 25(水) 29(日)

1月1日(休・日)

 年賀状が沢山来た。85枚ほど。配達してくれた寮母がおどろいている。年賀状は書くのが苦痛だ、きまりきった型どおりの文句なのだ。

 テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った。ポーランドに居住しているとき世界大戦。ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、そのまえパリに行き、労働、ただ絵画にたいするおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」──農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた──。

1月2日(休・月)

 年賀状がちっとも書けない、短い文章を──と思っても思い浮ばない。

 同室のMばあさんは待てども弟からの送金が届かないのでめちゃくちゃの興奮とヒス、おしゃべりで手がつけられない。おひる少しまえ3階の沢田さんが年賀にくる。干柿とキャンディを出してごちそうする。1時間ほどして帰る。彼女は私が新入寮のとき同室だった人で、ヒス気のないおとなしい何でも手まめに出来る柔和な人だ。日医大教授で兄弟で病院を経営していた病院に20年勤め、15人ほどの入院患者の食事から一切世話をして働き通した。中途で脊椎になり、1年間下谷病院に入院加療、その末が院長たちの勧めでここへ来た。

 テレビで野村万蔵・万之助などが花折りの狂言をやった。子猿がよくやって愛らしい。日本の能と謡に狂言があるのはおもしろい。Mが、つまらないとヒスを起しテレビをまわす、私がおこって直す。とうとう私は(つんぼの強情っぱりばばあ)にされて、おこりながら終わった。あの人達の好むものはつまらなくて──。久木田さん、新聞のおばさんと廊下の小林君に信州リンゴを2つづつあげた。

1月3日(火)

 おもち、おぞうに、のごちそうだ。おひるすぎお風呂から上がってきたら、息子─娘の家に帰ったIさんが娘と息子に送られて帰ってきた。せめて3が日はあそんでくるだろうと思っていたのに。息子は日大の夜学を出て警視庁に勤めている。母の自慢の種だ。

 「どうも、おっかさんがたいそうお世話様になります。なにしろ、ごらんのとおりの強情っぱりで言うことを絶対にきかない年寄ですから」「ほんとうに困ります、この通りですよ」とこもごもいう。みかん、そして羊カンなど3個づつのおみやげ。その場でお茶のおかしとしていただく。いくら待っても弟から送金のないMばあさんはしきりに2人にとり入ってお世辞を言っている。こんなよいところにきて何もかもけっこうで、私たちは年寄りのうちでも一番しあわせ。息子と娘は、ああいうばあさんですからどうぞがまんして面倒みて下さい、とくり返して夕飯少し前に帰って行った。

 賀状を書く手がだんだんふるえて字が下手になった。何がしあわせか。ああいう人たちの集団生活の中で何が──。

 言語障害の人がある。その人と私は食堂で隣り合わせだ。その人はやかましい人で、忘れものでお風呂でうんと怒鳴られたことがある。その人は病気でほとんど御飯をたべない。そのことで話し合って、気の毒とは思ったが他の人のように過食よりどれだけましか──。帰ったらMに非常な激しさで、あんな女と決っして話しをするなと食ってかかられた、他の部屋にいたときひどく怒られたことがあるのだろう。そんなことに干渉される必要はない。ひとりで怒っている。愛もなければ喜びもない。テレビをみてげらげら笑ってやまない。

1月4日(水)

 終日年賀状を書き50枚を越す。

 相京君から来信、

 ──帰郷し5日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は〈父・八木定義と養育院における今の日記〉〈読者よりの手紙〉〈古いノート〉をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、『女人藝術』、農村青年社──満州、母子寮の自伝と、これから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は5日に帰ってきます。15日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月30日)

 私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。

 ようやく雑煮からごはんへ切り換え。やはり我々は米と味噌汁へと辿りゆく民族だ。わたしも希望棟(養育院内の文化的施設、図書室がある)行きを中止して久しい。いまはダンボールの箱を使っている。

 

 相京君から電話で、田舎から昨日帰京した、ついてはこんどの4号をすぐにも出したいので、未決での父親との対面の校正ができているか、との問いにイエスという。きょう4時すぎにとりに行くからいつもの喫茶店で落ち合おうとのこと。諾と返答。IはきのうMに頼まれて50円金を貸した、返すでしょうか、とバカみたいな心配をしている。

 夕食が遅くなるので、Iにごはんをとっておくことを頼んで例の喫茶店にでかける。

 相京君は私の仕事のことしか頭にない。実に若々しい、記憶がいい。私がしっかり書けばあとはスムーズにいくばかりだ。

 銀行事件──、崩壊の発端、新聞。村有林売却の7万円の件。町のさわぎ、銀行の取付事件。町の発狂者、家出人。ついに父の言葉により30冊の日記が下の小舎から出る。長野妾宅における悲劇、大沢の拘引、××病院長の声明。八木父の召喚状──長野行、汽車は闇の中を光りの尾をひいていく。

 諸々方々へ電報で──。見舞客、福島祭の夕。長野から大沢茂、杉本純平など到着。弁護士の件、長野の大沢の容態、馬市の馬。教会の青年教師。木曾川の洗濯。保証人各家のさわぎ。初秋、大正4年秋半ば。

 その他、独房での父との対面。大正4年秋半ば──その前夜、長野の父より電話、・朗々たる声。明夜帰る。手分けして道々に迎えに出る。電球、いろり。父・母・姉達、兄、父の眼。父は独房で差入れあり、三河屋のコック面会。

 私の書いた父との監房での対面、対話の原稿が出てきたおかげで随分助かる。これのおかげで4号は早々と出そうだ。相京君によると星野君は、『あるはなく』について好意ある批評と援助を送ってくれた。山田よし子さんの不幸の時は一言もふれず冷たい態度と思っていたがやはりそうではなかった。沈黙の間に見守り、声援を送ってくれたのだ。うれしかった。

1月5日(木)

 Iさんはどうやら50円の貸しを取り戻し元気回復。西川さんのおばさん、都城市に住む真田亀久代さんの詩集を読む。逝きて帰らぬ過去の染みている幻影をふりかえりみ、その色、匂いをかいでいま身をおいている錯漠たる過去よ──。詩は最上、最後の洗礼されたる感覚と言葉の表現。

1月6日(金)

 私はMと同室になってから、この生活に絶望し、書くというたった一つの生き甲斐にさえ絶望しかけている。3分毎にくるくると人間が全く豹変する人間のおそろしさ。これはもう人間ではない。人を一瞬時も安定させることのない変幻極わまりない獣の感覚である。感応するとか、受応するしないの区別ではない。Mは私が動くと小便くさい、便所のにおいがすると攻撃の手をゆるめない。私は洗濯はしている。腰ぶとん、真綿で作ったぼかぼかするのを巻いて温い思いをしているのだ。いやだ。

 あすは7日、七草、七草で餅やきの5つの火鉢はとり払われるとのことで、どれも名残りの餅の人と手でいっぱいだ。時計屋にゆき時計の修繕、見てくれて、故障はありませんといってタダですんだが、帰宅して少したつとまたしても止まるようになった。

1月7日(土)

 時計がとまり、朝起床のチャイムがなかなか鳴らぬ、Mは4時まえから起きて寝具をたたみ、たたみの上に座わっていた。私はねむくて、ひとりでグウグウねむっていた。先日阿部浪子さんが買ってきてくれた円地文子の『傷ある翼』を読む。ねむい。円地女史の破婚が肌理こまかく描かれている。こうした不幸な結婚によくも耐えられる。生活の安定、そして夫への肯定的な抱容など。私の革命の要素とはたいへんな差だ。

1月8日(日)

 午前カレンダーを何気なくみると1月12日になっている。Mがたくさん日付をちぎることをして、本当は8日であったから、日記を見て安心した。『傷ある翼』を読む。こういう平板な感じの文体は私はそのまま真似ようとは思わない。

 私信をみる。西川・渡辺・宮木氏からの来信はなかなか良い。

 ことに渡辺映子氏の『あるはなく』の中に彼女が八木に対して求めているアナキズムの概要──そして何より民衆の求める福祉の分野の実現についてアナキズムは別種のごとき、むしろ大衆から離れた英雄的個性を強調しているかに思われる。現にあなたが長く運動に参加し苦労したにもかかわらず、同志達はあなたのために何をしたか、その点だけでも──という抗議など。これは特筆すべきではないか。

 こんどの『あるはなく』の中にでも、そう思って相京君に電話しようかと思ったが、のばした。なぜなら君は今日おそらく印刷所で忙しいに違いない、と思い印刷を持って来るか電話があるまで待つことにした。きのう、相京君には古い関係の人に通信を送付するようたのんだ。注目のうちに帰る。異性の訪問者ということだ。

1月9日(月)

 3日数えすぎて3日間もうけた。あまり臭いと言われるので下着、下ばきの洗濯をする。清掃の小林青年にリンゴの空き箱を高い押し入れにあげて貰おうと頼んだら、下の押し入れに入れることを主張する、その女のすすめでそうした。

 洗濯機での洗濯は不慣れなので最後の仕上げのところは島原さんに教わる。手洗いより落ちが悪いが、考え考えどうにか仕上げた。きれいにした。よし。

 一号北側の佐藤さんがきて、あなたが昨年のおせち料理をあんまりほめたから、また欲しいんじゃないかと思ってウチにおいてある、取りに来なさい、と言ってきた。私が欲しくてねだったという意味なのだ。あの人の部屋まで行って貰ってきてMと半々にしてたべた。あなたがあんまりほめたという、私の催促でやむを得ずという意味だ。

 今夜、Iさんが7時前に起きだして布団をたたんで押入れにしまう。朝だと感違いしたのだ。彼女は毎日のお風呂を失敬して内職に通うのだ。ところが今日は行ってきたので進行が狂ったのだ。毎日の折紙ふうの内職は一包約200円だという、1日の収入だ。そして貯金をしっかり抱えている。錯覚を起すのもムリないのかもしれない。

1月10日(火)

 朝、MとIが押し入れを物色して騒わいでいる。聞けばIの金を入れた袋がないと騒わいでいるのだ。まもなく、あら、こんな手近かなところにあった、あったという袋というのはハンドバックでもあるらしい。それを厚地の風呂敷に幾重にも包んで一番奥の隙間に入れ、上に厚手の着物をたたんだものの中にしっかり入れておいた中の金は、年金の証書に現金がかなりあるらしい。その包みが今見ればほんの上っ面の口もとから出てきたのはどうしたのでしょう、と言う。それは疑いもなくMなのだ。常習の手だ。

 そのことで寮母がきた。そして現に出てきたというIの金も確実ではない。そして私に希望棟へ行きたいなら構まわず行くがよい。部屋を替わりたければ隣室の松尾の部屋しかない。それはこの室と松尾の部屋が私の担当だから。ただし、あなた方この室の人達は私の担当でないから、まずその担当に相談せよ、それでだめなら係長に持ち込め、という。みな担当があり、受持があって、文字通り監房の囚人扱いだ。担当がきた。このMの責任をとるのはいやだ。私がものを書くということ、風変わりな人として正しく見られないと攻撃する。

1月11日(水)

 元、紀元節で休みかと思ったらまちがい、2月11日ではないか。今日から希望棟へ行く決心を固め、9時ごろ一人で出かける。そしたら今日10時頃から希望棟で書き初めがあるというので図書室には早くも5〜6名がいる。勧められるままに、2階講堂へ。新聞紙を敷き、布を布き、硯に筆の用意をする。私はどうも書道という、ああした余所ゆきの化粧を施した、むしろ小手先の習字を好まないらしい。第一、ろくに書いたこともなければ、どうも恰好がつかない。ただあるがままの私で書くほかはない。はじめは不。これがなかなか手ごわい。

 わたしは初心者として何の飾りもなく、一線々々をただ筆に渾身の力をこめて大字を(真中はのの一字)5字を書き、3枚書いて出した。素人らしく、ただ不器用な渾身の力をもって。夕方帰ったら何の変りもなく、第1日は無事に終った。あすはなお書道がありそうだ。

 来信の中に三鷹の小谷秀三氏の手紙あり、前便に(美しく老いることを願っている)と書いてあったので、あの人にとって私の老い方など何の関心もあるものか、と思いながら読んでいくと、『あるはなく』に記された私のひたむきな生き方に大きい同意を示し、自分の生き方、一家の平凡な生き方は──

小谷秀三氏の手紙

 ──美しく老いることの難しさを乗り越えて、わが道をとことん追求してゆかれるお姿に心からの敬意を捧げます。小平の相京さんから貴女の人生記録と思想の通信3部を頂きまして拝読。お若い頃からご自分の人生を探究されて、その道をひたむきに歩まれた80年の人生のあり方に圧倒されました。私も私なりに若い頃色々な思いに迷いましたが、迷いをそのままにして、安易な人生を歩いてきてしまいました。──何か生活にコクがないようにも思います。比島での苦しみは、安易な人生で終始してきたことが本当の真実であったかどうかと疑問を持つことも。『あるはなく』を拝読し、一筋の道を歩く貴女の姿に心をうたれます。

 角間広助との会談など。数年前の拙宅での郷土を偲ぶ集いは──やはり古稀をすぎてくると、回想を喜ぶことが中心となります。孫と遊んでいてつくづく、無事に過ぎる子供達はこれでよいのだろうかとさえ思います。平和すぎて回想さえもない老後になりはしないかとさえ思います。失礼な言い方かもしれませんが、貴女にとって理解されない良人をもたれたことは却ってよかったことではないでしょうか。麦踏みのように、逆境こそが人間を成長させるとか。何だかそんな感じがします。

 相京さんはよくああいう事をされました。幾分の御協力をさせていただきました。またつづいて4号〜5号を出版されることを待ちます。筆をとり、人生を考え、老いることなきお心に、重ねて敬意を捧げます。

 乱筆失礼 小谷秀三

 今朝、大野さんから年賀はがき10枚を借りてそのまま忘れていたら、返してほしい、と催促。私ものんきなのだ。11枚をかえす。その中に秋月先生が作った上品な手づくりの花の版画を2枚、入れた。少々もったいないと思うが。M、風をひいて少し喋言ることがおとなしくなった。

1月12日(木)

 日取りがよくわからない。相京君から電話で、いま4号の仕上げで大忙がし、とのこと。明日は土曜日、明後日は祝日(成人式)、だから、土、日と僕の家へ泊るつもりで出かけてきてほしい。14〜15日と泊る予定で──という。それで明日の14日に私宅へ来る予定で出て、ひばりが丘で降り、駅で待っているように。妻か、ディン・ダン・ドンの一人が迎えに行くから、という。いつまでたっても道順が不安な私を羞じる。

 午后1時頃から講堂でお笑い大会をやる。漫才、落語、その他で大いに笑わせる、という。たまには馬鹿な笑いもよい、とおもい一人で出かける。漫才の2人があまり笑わせるテクニックを心得すぎているのに嫌な気がしたが、落語を少し聞きかけたところでぐっすり、一人で体を乱して眠ったまま中途で帰る。この寮の佐藤に何か上げなければ、との義務感で店屋に行き、お赤飯3、寿司1、とりもも2、計1150円。帰ったら不在、夜に渡す。バカげた話。夜、いつものように、Mで。日記もつけずに寝てしまう。

 たださっき、事務所で寮母松野が私に長電話のあとで、(あんたは病院へも行かずに、どこが悪い。去年の秋頃から服薬をやめている)と言ったので、耳が遠くなっているので、耳鼻科で受診、うんとヴィタミンが不足している、とて2週間づつ服薬していたが、格別悪い所もないと思うから年末から服薬をやめている、と答えた。話はそれだけ。事務所から病気で訊かれたのは初めて。ふいに、さては? と転寮、退寮のことで思いまどう。これがチャンスになれば──と。

1月13日(金)

 カレンダーの先千断りでよく日付がわからない。今日は13日だ、14は土曜日、15日は祝日(成人の日)で日曜日。だから16日は休日で連休なのだ。カレンダーが判らないので事務所へ日付を聞きに行ったら、1ケ月先まで千断ったことの理由を聞かれて、話した。くだらないことだ。我ながら。

 相京氏宅へ行く支度を考える。ズボン、セーターなど、よそゆきのもので一つもろくなのがない。ズボン二つのうち、茶よりも黒い方にしよう。セーターは、末明さんの御三女、岡上夫人からいただいたものにしよう。お菓子の残り三箱。

 午前希望棟へ。私の稚拙な(不断の努力)はみるも情けない。しばらくいるうちに、一昨日佐藤へ贈る赤飯、寿司、とりのももなどを買ったとき財布を店へ置き忘れたと気がついて、区民館通りの文房具屋、そして、赤飯、お寿司、とり肉などを買った店にいちいち聞いて見たがどこにもなかった。思い起してみると、まちがっていた。財布はそのあと、押入のタンスに入れたのだ。1200円ほどの買物をすませ、タバコのわか葉を三つ買った。ああ、今からこう呆けては処置なしだ。頭脳の訓練をせよ。

 午后、事務所の男の職員が手紙を届けに来てくれた。ハンコを、という。書留だという。名前を聞くと井上あやさんだった。あや夫人だ。どういう関係の人? と聞く。この人の姉さんと私が子供のときからの親しい友達です。というと、うなずいて去った。あやさんも私の変化を初めて知ったのだ。そして哀れな晩年の、あの死を迎えたことに泪ともに書いています、と。

 本多ちゑさん、忘らりょうか。ともに険しい道を歩いて、報われぬ母のあの悲惨な晩年。すべて──ちゑさん逝いて10年を数えるという。あの人の生涯は最後に酬いられた。あやさんは相京さんから『あるはなく』を送られ、そちらの御様子を想像します。と書いて、私の年齢で学力も少しも衰えないと書き、『あるはなく』(2000円)、と私に3000円現金書留で送って下さった。ああ、わたしは実に内面の幸福者だ。美しい夢、大げさな、実りのある夢を見ることを慎しもう。

 佐藤さんが夜来て、きのうあげたお赤飯やお寿司、鳥肉などのお返しなのだろう。おせんべいだのピーナツなどを持ってきた。3人でたべる。こういうものには彼女もきげんが良い。私の××には困る。一度内科へ行ってみよう。

1月14日(土)

 14日午前9時頃、Iさんの片脚痛、病身の人を残して、相京君宅へ向い出発。

 ひばりが丘下車。ディン・ダン・ドンメンバー林さんの自家用車で出迎えを受け、共同保育所に行く。まだ相京夫人は出勤せず。2階に上り、相京君が買って下さった有島著『惜しみなく愛は奪ふ』を読む。私の目ざす有島の言葉はこれにはなさそうだ。李枝ちゃん成長しており、おどろく。当番のママがおひるにうどんの温くおいしいのを作って出して下さる。あとで聞いたら香代子夫人の手料理とのこと。××の気しきり。心地悪く老衰を感ず。3時近く2人の若いママ来り、2階で話す。

 私の結婚上京頃の伊藤野枝、などの人物像など聞かれる。親疎さまざまの肌理で感想を語る。そのうち、私の記者時代の話になり、入社試験のこと、神近女史の記者像。断髪洋装の実行へ。

その認識から木村博士のサンスクリットの質問、芥川氏の訪問など。記者時代の明暗を語る。インタビューの感触など。

 あと、林夫人の車にのせて貰って相京家に回る。林夫人は現在日劇に出演中の有名無名の俳優を相手にさまざまの面で接触しつつ、2人の幼児の母としてたいへんな活動だ。

 相京君は帰宅していて、さっそく通信の第4号をみせてもらう。こんどの号は(独房)という題名で、未決の独房の装置を描き、そこで15年ほど前の父・定義と再会する。その父と私との対話を16ページに載せている。父と娘が父と女児らを語り、母ときを語り、宮崎を語り、そしてアナキズム運動を批判、運動の思い出を、私自身の情緒過多、そのあとの運動者としての自己批判、再生への道などの考察について語っている。最後は尻り切れだが、そのあとに私の唯一の詩(薪の火を焚く)が附加されて16ページ、厚みがあり付記として「ダンボールの空箱を机がわりに一字一字刻むように書き綴っている姿を想像されたい」と記してある。

 長すぎた感もあるが父と娘の気楽な対話の中に語られる思想、思想運動、そして夫婦、愛人、社会愛など語ってのん気な中にも面白い感情がある。

 全部を通してみると決っして感傷に溺れた訳でもなく貧弱の中にも真実があり、私もうれしい。

1月15日(日)

 午后(赤松)という中学の女教諭が私に会いに来られる、理性的な冷徹ともいえる教育者だ。いろいろ語るのを聞き質問、説明など現代の教員の性格をみる。この女性が周囲の友人・知己に『あるはなく』を話し、購読に力を貸して下さっているときいた。すじ道を立て組織的に考え、語る。現代の教育者の考えのキメ細かさを感じる。

 夜、コタツで相京君と(通信)の今後のことについて相談する。私はこれを機会に少しジャーナリストの間に持ち込んだらどうか、と言ってみた。(農青運動史刊行のとき、私は新聞社の書評係へ出かけ、毎日を除く3社へ掲載して貰った。)だが相君は反対、個人の結びつきを主張する。

1月16日(休・月)

 午前、ざっと室の掃除などをしていくらか気持よくなる。同家で借りた身障児収容施設の実態と収容児が綴った本を読む。

 朝から李枝君が風邪気味。その子をおんぶして私をひばりが丘まで送ってくれる。ママは今日休日だが、おんぶして出かける。池袋で降りて西武の地下でパンケーキをコーヒーで食べる。そしてのりかえ、午後4時近くに帰寮、何ごともなし、平和、平凡。

 実際、こういう広い施設の建物から見るとまず民家の暖房のない建物の寒さ、狭さが今更のようにピンとくる。日本人の住宅に改革の眼をむけよ。

1月18日(水)

 今日は希望棟へも行かず、1日通信への執筆を考える。4号の独房での八木の父上と私との会話も寓話みたいで思想の核心をぼやかしてしまった感じはあるにはあるが、結局ああ書かずには行き場所がなかったのだと思う。次の号に予定されている彼と私との対話というか、最後の決裂への自我の独立を宣言、宮崎がよこした通信を発表しようか、それを出発点としなければなるまい。

 相京さん宅でいただいた菓子折をあけたらおせんべいで美味しかった。開けて2人に分けてあげたら、あまり貰っていて悪いわね、何かお返しをしなければ──と言った。Iさんの右脚ははれて痛む。それでも病院に行かず内職に通っている。平田しげさん、石橋桂さんの手紙あり。しげさんの手紙で木曾福島の長福寺御老師が92歳でつい先日永眠、20日にお葬儀とか。御老師に弔辞を送ろうか。

1月19日(木)

 林藤さんから来信。スターリンがどうとか今でも問題として書いている。あの林藤さんんはずっと福島小学校の同級生として資本論、弁証法がどうだとか手紙で聞いてよこしたので、その内実に私も困り近年はあまり文通もせずご無沙汰に過していたら、手紙によると緑内障でほとんど失明、盲人になりましたと書いてある。おそらく代筆であろうが気の毒だ。石橋さんともう一人を新年に林さんは招待して、心から語り合ったと喜んでよこした。その石橋さんは先日賀状を下さって、若かりし日、太田水穂先生を迎えて福島の上の山で歌会を催したときの思い出をなつかしく回想したと知らせてきた。

 『あるはなく』の第5号に書くべきことを考えながら文庫本を読み、雪のあとの春日でつい居眠りをする。私達と左隣りの部屋にかかっているボロカーテン。それがいつも気になっていたので2人に話し、隣室の人々に話してみたらみな同感だった。それで事務所の斎坂女史に話し、新しい布を見立てて買って、その実費を皆で分担すればよいということで諒解した。

1月20日(金)

 1ケ月先までカレンダーをちぎったので日もわからないし、曜日もわからない。すべてがぼやけ半分居眠りの状態、何度も4号の独房を読む。16頁で随分長い、あれには私の本心が含まれている。同志は憤り軽蔑し、私の本態をみて呆れるだろう。知らない人はここまで恥をさらすとは──と嘆息するだろう。かまわないのだ。もっともっと暴け、もっと書け、秋子よ。

1月21日(土)

 次号に書くべき原稿に、この生活の中の日記がある。

 ここの利用者で早大出の人で風変わりな人がいる。このまえいろんな話を聞かせてくれた人だ。その人に『あるはなく』の1号を見せたら、じっと読んで何か書き込んでいる。その書きこみ、ボーダーラインをみたが、別にピンとこない。話しをするために講堂──会議室へ連れていかれたが、自分の経歴ばかり果てしなく喋言るので呆れ返り、私は何の発言もしなかった。ただ、こういうものを書いたという事実が、この中の生活から生まれたというのは、これは驚くべきことだ、といって占師みたいなことを言っていた。私の文章にはおどろいたらしい。

1月22日(日)

 朝食の時、食堂で小林さんが話しがあるという気配なので行ったら、先ごろの防空頭巾はいらないのかときくので、ああそうかと思い、あの頭巾のことは一歩ゆずろうと思い注文しておいた。

 きのう木曾福島町の原ドクターの夫人文子さんから部厚い手紙がきた。私からの葉書でずいぶん大きなショックだったらしく、前日相京さんから『あるはなく』 1〜3号送って下さって読んだ、ということで彼女のうけたショックがどんなに大きかったかを書いてあった。たとい昔のことであっても、私の歩いた道は特殊なものでなかったのだから人をあまり刺激しないように書くべしと泌々思った。

1月23日(月)

 先日バプテスト教会の夫人、小笠原さんともう一人、金丸さんを呼んできて、讚美歌──あの人、夕日はかくれて、道ははるけし、をうたった。そして夫人、それぞれ私も祈った。しいて信仰に色わけして黒白を判然としなければと、むつかしく考えないで、この半分茫然とした状態でいいではないかと考え、これからもこの態度で歩もうと思った。お菓子、その他おみやげを下さる。この信仰の生ぬるさで、これで歩もう。

1月24日(火)

 相京君から速達がきて、私の年譜などで月日など不明なところを探せよ、というので調べて氏に電話したら、仕事で箱根へ行かれた模様、近く訪問して下さるのを待つことにする。

 原四郎兄より立派な筆跡でお手紙が来た。通信4号の感想だ。八木の父上のことで、あの独房での父と私との問答はよかったと称賛し、私の純真さで両親に対する感情を飾らずに書ききったことは良かったとほめて、私の親孝行を挙げていた。あの独房というああいう環境でのびのびと淡々と語ったことがよかった、あんた方の理想が全体として窺えてよかったとほめてあった。

 次号の八木父上の事件について書き始めようとしても、どうしてもペンが進まな い、滑り出さない。あの4号は、ある人がみればふざけているみたいで腹もたつだろうし、情緒の人々はうなづけても理性には根が浅くて物足りない。しかし、あの文章にはたぶんに戯画化しているところもあるが、飾らず偽わらぬ私を出し、語り、踊らせているところに、人のよい私の真骨頂が出て面白いと思う。

1月25日(水)

 どうしても「独房」の続きが書けない。書けなければ強いて書かなくてもいいじゃあないかと思う。その下から、ここまで歩みつづけてきてここで挫折するのかと思えば口惜しい。これからどんどん書き続けて、いくつもの障害をのりこえて歩むとしたらどんなことになるか。私のペンは、思いがけぬ変化によって、自分で思いもよらぬ境地に自分を引きずってしまうので、手が出せない気持になるのだが、まさにそれだからこそ、書き続け、書き続けよと自分に叫びたい。どんなものがいつどんな所から生まれるか、まるでわからないのだ。

1月29日(日)

 日曜だ。日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている。いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。

 3度の食事を知らされ、卓について食べるということは一体何であるか、スチームがどこにも通って寒さ知らず、感冒の非を知ったら床をとって寝る。わたしなど年中お菓子だの果物などほとんど買わない。行住坐臥、ボリボリ、モグモグ口を動かし通しに動かしている人も相当ある。お茶は配給でただ。熱湯は時間によって汲んで来られる。

 この生活の子ども同士のような、単純な言葉のやりとりからくる争い、それさえなければここの生活は規則の中の自由、束縛の中の自由意志、などの微妙な兼ね合いでどうにでも加減できるみたいだ。規則を、束縛を感ずるときは感じ、用のないときは横を向けばそれで時の動きとともに流される。危機をのり越えるということもなく、環境慣れからずいぶん鈍化してゆくのだろう。おそろしいといえばおそろしいが、何よりも生理的に当然来る老化現象と解すれば──。とにかく私は老化に抵抗を、鈍化に抵抗する鋭化を──。意識してなるべく規則的に積極的にやらねばならない。とにかく近いうちに病院の眼科へ行く必要がある。老眼鏡の度があわなくなって活字に骨が折れる。

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