転生記 1978年3月

目次:
3(金) 5(日) 10(金) 16(木) ×× 25(土) 29(水) 30(木)

3月3日(金)

 女の児の桃の節句である。沢山の原稿──『女人藝術』の古い原稿でおちおち眠れない。全く相京君の熱意に押され、その希望と八木秋子著作集の校正と執筆と校正の為に何もかも消し去って夢中の日を送っている。

  おひな様をきれいに飾り、午後2時からみんなのためにお節句のお祝いをして下さるとのことで、食堂は浮き立っている。こういう収容生活のことだ、あられ、 草餅、じぶんのおはし、お茶わんなど持ちよりで集まる。職員の音頭で余興になる、因みにごちそうといえば、お昼は鳥肉のそぼろのごはん。さっきはまぐろのおさしみ、など。それぞれにさっぱりとした若がえりの姿、髪もどうやら整えた姿である。先日相京さんと行った写真屋の写真。できてきて見たらやっぱり幻滅。老衰そのままの顔、姿だ。

 お節句の余興になって、司会者が私に何かやれと迫ってくる。木曾節をうたう、どうも一つっきりののど自慢、お国自慢。

  よそ行きに飾った老女たちを交えた余興には、7つボタンやここはお国を何百里などが、そして女の側では従軍のうた(看護婦のうた)などが得意そうに──。 環境も時代も思想もきれいに無視している。口のよくわからないおばあさんが、箱根の山は──のあの明治調を歌い出す。あの漢文調の唄はむつかしい。同室のMがいそいそとしてやっている。おもしろい。配給のあられをさっそく平げて心細い顔をしているM老のためにわけてあげた。

 お隣りの中国では2月末から北京で全国代表者会議を開き、新役員の顔触れ、憲法制定を討議した結果、今後8年間に農、経、重工業をはじめ一挙に経済及び諸組織の近代化を一致して議決し、いよいよ新経済組織の大々的発足に踏み切ることを決議した。石油、石炭、電気、鉄鋼など、全部日本へ輸出せんとし、日中友好平和条約を締結せんとしている日本資本主義に極めて大なる希望を与えた。

 この注目すべき中日経済交流はまた福田内閣でもたもたしていて、ソ連の覇権問題などもからみ、一方自民の対共産主義との問題もからんでどう発展するかわからないが、面白いことに中国では中日友好条約の締結には、長い歴史の、日本が中国に与えた損害、戦争責任を問わないと言明していることである。

 戦争責任、日本が中国に与えた損害に対し、その賠償──少なく見ても30兆円に昇るとみられる損害はふれないと言明しているところはなかなか面白い。日本がこの条約をどう踏まえどう扱うかということは、中国と日本のみならず世界の問題として大いに注目されるところであろう。これに対し、世界の富を独占して、独り列強の赤字国の中にあって、日本の出方が大きな注目を集めるものと思われる。

 中国とは何と面白い国であろうか、この面白い国に対して日本がどういう意図に出るか、世界の興味はひたすら中・日の二国に集まろう。私達もこの状態にある中・日のあいだに身をおいて、あれこれ思うことは多い。我若し若かかりしならば──。

 しかし、中国を軽く見ることは許されない。

3月5日(日)

 苦心惨憺だった原稿(八木著作集のはしがき)、八木父、の校正など、校正をのぞいて最も苦心したはしがきの原稿を書きあげ、夜着いた相京君に渡して結果はともかくほっとした。八木著作集は通信『あるはなく』にひき続いて私の生んだ子供である。子供といってもこれは主として相京君の意志と熱意によって生まれるものだ、その第Ⅰ集が出版されようとしている。私の著作の著作集が──。

 私はそれらの校正、正誤、その他の用務でまるで1日中夢中でおろおろと過している。

  三たびゆるすまじ原爆を〜と声高く歌って行進したいくたびかのデモを憶い出す。茨城から「今日のデモに参加してこい」と母から言われて、わざわざ行列にとび入り、ともに原爆ゆるすまじといっぱいの声で歌いつつ行進した、あの子らも大人びてきたことだろう。その子等の母は憶うに広島あたりでその夫を原爆で失い、寡婦となった人であろう。国家的、あるいは国際的な示威行進はやはり意義がある。だが一人一人行進にとび入り、声を張り上げて大きく歌う子供ら、青年男女のとび入りの姿に私達はひかれる。身近な、わが生活、自分のこととして。

 さて、年老いて、最後の終焉も近づいてきた私は、いま何を為すべきか、わがこととして、わが周囲のこととして、悦びも悲しみもともに感じ、ともに生きる、その生きることをいまここで掴み、いまこの時点で生きる出発点としなければならない。生物として、足りないものの一応ない、生きる条件の整って、別に不足のない今の境遇に安住していいのか、と思う。物足れて何か想う。与えられるものを感謝してうけ、感謝の祈りを捧げつつその日その時を生きよ、と。衣食住、欲っするものは与えられ、たとえその質が問われたとしても、別に不満を洩らすことは許されるのであろうか。最低として許されたとしても、それを当然の恩恵として甘受していいのであろうか。

 いずれの社会も、福祉はこの経済危機を迎えて行き詰り、予算を最大限に削られて民衆は生活に行き詰り、その苦難からはいあがろうとして最大の苦心である。国民の最低生活を削りとって一般民衆の生活の生活費を補充しようという運動も起りつつある。

3月10日(金)

 八木秋子著作集が、通信『あるはなく』に出版予告され、通信第5号が発行。その出版予告されてから、私はこの住居にあって心も生活もそれにつれて変わるべき運命というか我が子が生まれるよろこびを感ずる。

3月16日(木)

 秋月玉子来訪、予告してくれたとおり旅行用のトランク(小バック)をわざわざ持ってきてくれた。彼女は誰れにもそうだが、実にこの寮に来ても、誰れにも好感を持たれ、賞讚の的となる。女らしい優しさ、あふれる微笑み。女として実に。彼女の話しによるとこの6月1日は亡き久姉の一周忌で、また子孫等一族、松代へ参集する模様。むろん豊福みどりも。そして相京君が私の著作集を出版してくれることへの感動を喜び述べてくれる。まず第一に反応を示してくれた人。この人が面会に来てくれると、事務所も利用者たちも私に対する見方、感触がちがってくるから妙だ。

3月×日

 きのう保阪〔正康〕兄が初めてここを訪ねてくれた。清瀬の時代幾度か訪ねてきて『死なう団事件』(草思社, 1972)など寄贈してくれたり、『市民』に農青時代を書いてくれたこともあった。もの書きとして頑張っている。その文に私は不満で再読する気もなかった。私はもっと鋭敏な感覚を自分に課せなければならない。

 大道寺房子さんが5日ほど前に突然訪ねてくれた。彼女は通信『あるはなく』で私の著作集の予告をみて、その喜びを告げに来たのだ。出版したら1冊寄贈すると語ったら、買う、そしてぜひ私にサインして欲しい、送ってくれなくとも頂きにくるからといって5000円置いて帰った。何と早い行動か。

 私の日記はまるで手がつかない。日常を日記として再現する意欲が湧かないのだ。

  大道寺さんが『高群逸枝』朝日評伝選、鹿野政直、堀場清子著をもってきてくれた。こうしたことも何かあるかも知れない。高群の一生は(書く)ということであった。高群逸枝の年譜をみると実に詳細を極めている。相京君が私の年譜を追求したのもわかった。書くこと、この他に何がある。ただ書くより外ない。

 相京君と会う、岡山出発の日決定

  ──相京君が打ち合わせ通り、21日(春分の日)の午前来てくれて、喫茶店で会う。東京──岡山の乗車券と座席券(新幹線)とを買って来てくれる。確定。彼は岡山へ私を送り、みどりの家へ。寛の工房に寄り一緒に窯を見て作品を見、姫路の友人の結婚式に出席し、そのあと瀬戸内海の島、尾道などを廻わり、29日に帰る予定とか。

 夕方、事務所の松野寮母に金を引き出したい話しをもち出してみたら、同意して判コ、預金帳などをも了解をとりつけ、 岡山の行先、帰寮予定日などを書いて出したら、やがておどろくべし、松野寮母は乗車券の割引券、(私、引率者)2人分、証明証を渡してくれる。乗車賃は払い戻してくれるのでしょうか、と聞いててみたら、さあそれはわかりません、という。相京君が付添人だから、割引券のことを早く話したいと気をもんでみたが、漠然としてわからない。

 事務所の寮母佐藤女史が来て、私の留守中にIという女の人がこの部屋に移ってくることに決った、と話した。すると、私が帰ってくると計4人住いとなる。この前、MとOとの衣類の紛失事件が収拾がつかなくなり、もめたとき松野寮母、斎坂寮母に、今度移動のあるときは、私の部屋を解体の形で、私かMかどちらかを他に移してほしい、もうこれ以上Mと同室生活はできない旨言って了解して貰ってあったはず。それをそのままにしてMを動かさず私をそのままにして新顔を入れるとは、とよほど抗議しようと思ったが、私は明朝立つ身、帰ってからよく協議させて貰うことにした。

 夜遅くまで荷物ごしらえ、整理の才能ゼロ。ねむられず。強くなれ、目覚まし時計見出す。自身をつよく、勝て。

  岡山行につき、無断で行っては悪い人たちには一応あいさつの必要あり。みやげは何一つ買って帰らぬこと。帰ってから。ここの生活最大の欠点は事物の一つ一つに品物を買って送り物にすることだと思う。その金銭のやりとりは、全然ソロバン出入りだ。正油ぬりのあられが袋のままで岡山へのおみやげにと持ち込まれる。二流のタバコ「わかば」が手みやげにと2コ、3コと渡される。お礼の言葉もない。そうした人達の厚意を、あつくお礼をのべて、いただいて、さてむこうで袋の荷物から取り出すのも手の込んで、大変である。

 そして帰りのおみやげを頭において、あれこれ工夫したりする。私の保護のために岡山に行って下さる相京さんは至極淡白で、袋の中をのぞいてみて、いかにも呆れかえったという顔付だ。ところがこういう贈り物こそ大切なりである。

3月25日(土)

 出発。東京駅12時20分発。岡山行、同行相京君、及びその友人(姫路行)。午後5時すぎ岡山着。豊福みどり駅に出迎え、タクシーにて東長岡のみどり宅へ。

 簡素なアパート住い。寛君来り、その車にて寛の新築住宅に向う、ひろい田圃の向う、柿の木のある庭をめぐらせて新築の家、備前焼の工房をみせてもらう。窯、薪の置場、土、粘土の囲い。広い窯場の中に素焼きの素材が幾段にも形を整え、驚くほど大きな壷から首のほそい花瓶、花器の優雅さなど、それぞれの形で静示し並んでいる。火を入れ、木材を焚いて釜の火入れの壮観さがしのばれる。この2階建の新築住宅は弟の潔が設計、監督で建てたもの。2階への階段などそのままだが、新しい我家を窯場と並んで新築した寛と潔の満足感がしのばれる。寛君の妻君、美しい。坊やと女の子、どれも天より恵まれたる家族、よき家族、家庭である。大きな犬がいた。長男はまだ1年生にも達っしない位の坊やだが、明敏さの思われる子だ。周囲の田圃に蛍が飛ぶ頃を想像する。

 創業ということは人生の満足だが、窯業のように製作の終わるときまで結果にたいする不安、愉しみ、期待などに想像と期待が胸を打つものは少なかろう。いい仕事、しかしたいへんな製作だと思う。今までこの道に志ざして以来、寛君の一つひとつの苦心を想像する。

3月29日(水)

 みどりは2人の息子が現に創業まもなくとはいえ、その息子たちの腕を頼らずに自力で相当なレベルの生活を維持し、70歳に手の届く生活を堅持している。私のかっての老後感、老後の設計とはことなり、何という堅実で緻密な老後の生き方だろう。その70歳に近い年齢でいまだに女の趣味を生かして稽古ごとをし、内職もやってたのしみながら働いている。

 わたしのいまの養育院の生活とは何という相違だろう。さ、はやく帰ろう。朝電話があって、岡山の駅に京都から西川祐子氏が出むいて下さる。岡山よさようなら、相京君はどのへんにいることか。京都の駅前のタワー、そして市内のトンネルなど西川さんが説明して下さる。関西の山は東京近辺の山並とはずいぶんちがって、あまり高からず、ふくらみのあるやさしさだ。西川さんとはあまり記憶に残る話しもせず。東京駅につくと、彼女は秋月玉子に電話して東京駅まで私を送り届けた報告をする。

 午後5時を過ぎている。西川さんは東京の旅館に約束しているのがあるからそこへ行こう。一夜を東京ですごそうと熱心にすすめて駅前からタクシーに乗る。着いたのは駿河台の山の上ホテル、ほんとうに驚いた。新館の一室に導かれ、清楚な静かな寝室に。

 彼女について、新館のバーの装置のカウンターに席をとって、天ぷら、赤だし、さしみ、その他ごちそうを注文して高級な食事。岡山で彼女が買った駅弁が残っていたのを2人で食べたあとなので満腹。バスルームで快い入浴。幻の国にいる感じ。シーツといい、室内の装飾といい、お伽の国のようだ。

 枕をならべ語りあったが、疲労で何かおぼつかない返事ばかりで、彼女はきっと不満であったことと思う。わたしは相さんに電話してこのいきさつを伝え、明日の予定など相談することを思ったが、彼女はきっぱりと拒み、レンラクをとろうとしない。私と2人の時間を持とうとしたことがやっと解った。相さんの勤め先に電話すれば、後楽園だから帰りにすぐ寄ってくれるのだから、明日の行動もとれ易いと思うのだが、彼女はきかない。私と2人の場を持とうとしたのだ。

 家庭の妻君として、嫁として、(姑)、2人の子の母として、なかなかに彼女は有能であることが察っしられる。スローにみえて、テキパキと動く、よく細心の注意が届く。

3月30日(木)

 朝の光がさしてもゆっくり寝ていた。洗顔着がえ。彼女はもう一軒旅館の予約がしてあり、あなたを養育院に送り届けて私はそれから単独の行動をとるのだ、という。

 山の上ホテルから明大の方へ行けば、お茶の水は近いし簡単だと思っていたが、あの人駿河台の坂をさっさと降りる。私も何となくいっしょに下って、下の通りにある食堂により朝食をとった。たいへんな経費であったことであろう。

 東京堂のある例の商店街を歩き出す、ここまで来たからには──と、神保町をつっきり、日大前に──。だいぶ疲れ、ようやく水道橋まで来た。駿河台まで歩く(お茶の水)のは大変、相さんの勤め先に電話して来て貰って相談しましょう、というと、つよく、つよく拒み、水道橋からタクシーでのろのろと時間をかけて走る。気がつくと大山銀座という看板だ。周章てて降りる。そしてこの家へ。明々(寮)の玄関で別れる。

大山銀座

 駿河台下から水道橋まで歩き続けたのでぐったり疲れた。ほんとうに何か茫として、謎めいて、たいへん西川さんには悪かった、申し訳ない思いだった。

 要するに西川さんはもっぱら八木秋子と二人で話しあい、『あるはなく』からはみだした、若しくはそれに満されない八木の本性を掴みたかったのではないか。私はあちこち疲れてあの人の求めるものにはほど遠いことしか表現できなかった。このことを始めから認識すればよかったと。西川さんはさぞ不満でもあり、物足りなかったと痛感した。年齢のせい、誤認──どんな言葉も間に合わない。たいへんな誠実をつくして下さったのに。申し訳ない。

 私の不在中に新しい人がわが部屋に引っ越してくるはずだったが、都合がつかずまだ。相変わらず、Mは半ノイローゼ。帰ってくるやいなや思考錯乱の人間と同居。

 金がない、ということで、最後のつもりで150円を貸した、20日もたたないうちにもう200円貸せという。金がないということで断った。

 この近所の部屋ばかりでなく、どこまでも出かけて「金貸せ」と平気で押しまくっている。もう、ここまでくれば──とわれわれは悲劇を思い最後を思うが、そんなことはない、平気でさわいでいる。事務所はこういう人間をどう扱うのか──。洞喝したり、なだめたり、事勿れ主義で目立たない処置をとっているらしいが、一人一人の心理的問題として精神上の治療を心がけ、心理的な世界に導かないかぎり、改革は難かしいと思う。

 岡山から帰り、早速、友の加藤祐子氏来寮。婦人週間の話しをする。あの人、やはり協力員として労働省の仕事をしているらしい、あの男と女との実に呼吸のながい、悠久さを思わせる、しかも親しい友に細心の注意で何かと吉報をもたらせてくれる友。八木秋子著作集2冊、2600円置いていって下さる。「入金」として相京君に渡した。そしてNHKの募集、花の思い出の原稿(ハガキ1枚)を勧めて下さる。4月5日頃しめきり。原稿料の代わりにタオル2・3枚とのこと、書いて出すこと。

 そして、加藤さんの現在までの歩みを聞いた。私とは両極端の違いである。この人もみどりと同じく2人の子をもち、2人とも大学を出し、1人は建築設計家と、1人は教職の人と結婚し、母に孝心をよせているし、たいしたものだ。この部屋でゆっくり語って帰った。よき友だ。

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