転生記 1978年6月

 2(金) 3(土) 8(木)

6月2日(金)

 朝の体操、そのあと学課もあったが欠席。午前寮母の斎坂さんがきて、近く着工予定の新館の建築について話し、一階は現在の2室をつぶし一室とし、ベッドは4台とする、という。平間には畳を敷くという。今日、私が箱の上においたこの日記をいつのまにかTが読んでいた、”まあ、こんなことが──。書いたのを見られても差支えないの”という。真底腹がたって怒ってやった。日記を見るとは──。

 一昨日、電話で訪問の時間を照会した堀場清子氏、昨日訪問するとのことだったが、来なかった。氏に電話しようとしたが要領を得なかったうちに堀場さんがきた。朝日に書評を書く、とか。随分開放的だ。よく気のつく、頭の回転の早い人。農青運動の年譜だとか、宮崎とのことなど随分年譜をこまかく追求する。何か事務所で食堂を使っているふうで人の出入りもあり落ちつかない。

 そこへ加納さんが豊かな黒髪をなびかせて登場。やむを得ない事情とはいえ気の毒な思いをあの女史にかけてしまった。私が日を誤解したのだ。不備を謝して玄関から帰って頂いた。あの人の帰られた後、ざわめいている中で高群逸枝の本などにより聞かれるままに話す。談話の応答にも汗が出てきて想がまとまらない。アナーキズム運動の中で満たされないもの、不満なもの、現在女性は何を求めているか、しまらない結末だった。如才のないジャーナリストのテスト中。

 夕食後、事務所へ電話、婦人民主新聞の本多氏から。6月6日正午すぎ、話を聞きにいくという。櫛田ふき氏と代がかわり委員長は佐多稲子氏。

 私が現金4万円が行方不明になって悩んでいたら、近所の店屋の人でもあろうか、内を改めたうえで届けてくれたそうだ。

6月3日(土)

 朝、相京氏に電話。昨日のインタビュ──、朝日新聞関係の堀場清子氏と「天皇制」の加納女史の2人が相前後して来寮。前者は一昨日(1日)に来るとの電話だったので正午過ぎまで待っていたが、昨日はまず堀場氏が来着、その最中おくれて加納女史来着。すまなかったが理由をのべて帰って貰った。私の頭はだいぶ呆けている。そのあと女史は相京氏と会い、今日のいきさつを話したそうだ。相京氏は私の異常な疲れをよく知っている。堀場氏の質問は鋭く、言葉は速く、あまりに職業に慣れている感じ、すっかりジャーナリストになっている。

6月8日(木)

 日時もぼんやりして私の頭脳は捉えがたい。昨日、共同通信の婦人記者中村輝子さん、写真班を連れて来訪。どの部屋も使用中なので運動場を望む庭に案内。ベンチにかけて話す。中村輝子さんはある程度仕事で苦労し、もまれて来た人らしい。広い事情に通じ、しかも私の本質をみているらしいので話は簡明だった。気持よく話が流れて『あるはなく』の質問など当を射ている。写真班が私のまわりをウロつき、何度も何度も撮り直すところをみると、この2人は私のかお、からだつきなど勝手に興味をもって撮しているようだ。この中村女史は、『あるはなく』ばかりでなく、何か背負ったところがある気配で、私もこの人に何かひかれた。この人など、私の変種ぶりなどをこまかく捉えようとするのではなく、普通の記者であるらしい。

 私のまわりには新聞記者だのが訪ねて面倒だ。はやく健康をとり戻すことが肝要。

 今朝、相京君から電話で『あるはなく』の6号が刷り上ったからそれをもって午前中来るとのこと。楽しみだ。私は静養に事よせて怠けてばかり。どきんとした。ああ、早く正常に戻らねば。頭脳を正常に回復せよ。早く来ればよい。

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