八木秋子個人通信「あるはなく」発行の動機となった出来事について、当時の日記風メモをもとに再現したいと思います。初めて八木秋子が住む東京清瀬の4畳半の独居を訪ねたのは、この出来事より1年と4ヶ月前の75年9月でした。その出会ってからの16ヶ月の間、わたしは80余歳の八木秋子との対話を通して「思索を継続する」人間の在り方を見ていたように思えます。
翌76年7月長女李枝誕生。11月子どもにとって初めての遠出となる場所を彼女のアパートとしたのも、いま思えば、新しい生命に「思索する精神」のリレーを託したかったからだと思います。
一方その当時、八木秋子には「身寄りがないならそろそろ老人ホームへ入るべきだ」という、福祉事務所などからのプレッシャーが強くなっていました。これまでの生活保護下の4畳半生活は、貧しいとはいえ、「読書と書くこと、そして孤独の静寂」が保証された空間でした。しかし、ついに心ならずも12月に都立板橋養育院に入ることになりました。
老人ホームに入るに際し、私物は最低限のものしか許されません。読み込んだ書籍、推敲を重ねた未完成の原稿、日記ノートの類などは一切持ち込むことができないのです。わたしは引っ越し直前の八木秋子をたずね、その憔悴しきった姿を見て即断しました。
相京の責任においてできる限りのことをしよう。そのことが「この時代に生を受けているわたしの、先輩へのお礼だ」、そう思ってすぐさま実行に移しました。その直前に仕事の関係で出会ったばかりの友人石井誠(その後、著作集の出版印刷などの一切に関わってくれた)の助けを借りて荷物の一部を移動し、老人ホーム入りする八木秋子とつき合いを続けようと決めたのです。
1977年1月30日。
■八木秋子(満81歳)相京(満27歳)妻:哥代(満25歳)長女:李枝(6ヶ月)
【相京の日記風メモより】
★1977年1月30日(日)
10時、八木さんより電話。西武池袋線保谷駅にて12時会う。都立板橋養育院を脱走してきたそうである。個性を殺す平均的福祉にたまらなくなったそうである。無理もないだろう。だが、そうでしかないのも現実。それを打ち破る関係、人生を積んできたか。家に泊まる。ゴッホ、高群逸枝を必死に読む。
☆最大の出来事が起きた。おそらく僕らの人生にとっても大きな意味を持つだろう。いや、いまはまだ整理されていないし、毎日の生活を消化していく中で次から次へと風化していくのかも知れない。だが、80余歳になる八木あき氏が現代社会の、いや未来社会を先取りするかのごとき、衣食住の完備している養育院より逃亡して我が家に電話をしてきたのは日曜の寒い朝だった。2~3日前に手紙を出していたので、それを見て訪ねてきたのかもと思って保谷駅で待っていたら、突っかけをはいた八木氏が待っており、駅前の喫茶店であなたに話したいことがあるという。実は逃げ出してきました、と言った時、別に驚きも何もしなかったが、とにかく思い詰めている様子だし、疲れているようなので家に泊まるようにすすめた。
李枝がまだ病み上がりで興奮しているような状態だったので、正直なところどうなるかと思っていたが、互いに楽しそうだった。高群逸枝に関しての八木さんたちが書いた本を貸したらそれを何度も繰り返し読んでいたようで、そのうちラジオを枕に寝てしまった。たいへん疲れているんだなと思った。2時間ぐらい寝たようだった。ムツの鍋料理を作ったら、うまい美味いと言って食べた。夜はゴッホ等の画集を貸したら、夜遅くまで読んでいたようだった。朝方ふと目覚めたら、線香の匂いがしたのであわてて起きて部屋を見に行った。八木さんは敷いた布団に入らず、コタツで本を読みながら寝入ってしまった。哥代に言って起こさせて寝かせた。
★1月31日
八木氏泊まる。くれぐれもどこへも行かず、家にいるように言っておいた。疲れたような、そして安息しているような。その中で卑屈にもならず、また自己を主張している。その距離感の取り方に深く感じ入った。
早退して、T君と駅前の喫茶店で待ち合わせて連れ立って帰り、引き合わせた。満鉄のことなど楽しげに話した。時々どこか遠いところを見る眼が印象的だ。彼女は正真正銘のナロードニキで、人民には深い愛情を持ち、そして農村へ。知性を持ち得た自立した知識人の姿を感じざるを得なかった。行動と感性、そして宗教。
★2月1日
身元引受人である甥の息子で、当時女子大学教授のC氏宅に行き、身の振り方を相談することにした八木氏を保谷の駅まで送り、池袋をまわって出社。人間の決意する時の美しさと荘厳さを知る。決死的な行動をする人間と緊張関係の空間を共有できたことをうれしく思う。哥代も感激した面持ち。
★2月2日
夜9時半、T君を誘い1時間ほど呑む。彼も興奮した面持ち。そして老いるということに何か深い感銘を得たようだ。互いに整理できていないので主張するだけだったが、次回が楽しみ。
★2月3日
競馬経理の整理。夕方白井新平社長を訪ねて玉川信明氏が来社。宮崎資夫を探るという。一杯付き合う。竹内好が癌に冒されているそうで、何とも感慨。村上一郎、武田泰淳、竹内と。信じられる、また破格なスケールを持った人たちが去っていく。おそらく埴谷雄高もみな去りゆくのだろう。軟体動物的社会に対する硬骨漢的姿勢がいよいよ要求される。
吉本隆明の『最後の親鸞』を読了。
★2月4日
昼、八木さんが行ったC氏宅に電話して安否を尋ねたところ、八木氏は一晩だけ氏のところに泊まり、養育院へ戻ったことを知る。急いで板橋区大山の養育院へ行き、面会をしてくる。会った感じは一つの生命の燃焼が終わったということ。再度の革命のエネルギーは継承するか? 高田馬場の古書店で竹内好関係を漁る。
★2月8日
八木氏がクロンシュタットを扱った小説『1921年の婦人労働祭』のコピー完了。
★2月20日
1時、八木さんに会うため養育院に行く。会って元気そうだった、ずいぶん会うのを待っていたようで若干恐縮。
★2月28日
村上一郎の『振りさけ見れば』を読む。自己を律する日常から人の道を歩む。
★3月4日
竹内好が昨日死去。一人のナショナリストであり、だからこそアナーキストである人物がまた一人死んだ。
★3月10日
信濃町千日会堂での竹内好の告別式に行く。埴谷の孤高さが印象的。風格とはああいうものを言うのか。存在自体がものを語っているように思えた。精神の密度の濃さが形に表れるのか。
★3月15日
午後2時、八木さんを訪ねる。元気。通信的なものを発行することを提案。おおいに乗る。何とかやっていくつもり。
(相京の日記風メモより)
こうして、八木秋子個人通信の準備が始まりました。
八木秋子は後にこう書いています。
あるときは見とおしの樹立の下で、あるときは廊下の隅で、言葉を選びながら語り、あるときは情熱の赴くままに涙を押さえながら語った。
通信「あるはなく」は私が書物や原稿のはしきれまで失って屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない。
老人の幸せとは何であろうか、私はそれをおもいつづけている。
1978年3月
八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』あとがきより
81歳の八木秋子の脱走をきっかけにして、通信「あるはなく」は7月に第1号として結実しましたが、紙上での八木秋子の筆力には驚かされました。そして、彼女の話すことをもとにして資料にあたっていくと、いろんな人物と出会っていたことが証明されるという、八木秋子は「ものがたり」を持っていたのでした。