第2夜の「毎日新聞などが伝えた訃報」に続けて、第3夜は「脱走から通信発行へ」と八木秋子個人通信「あるはなく」発行の契機となった出来事について触れました。今宵はこの欄をお読みになっている阿夜さんから「訃報」の内容に関して問い合わせがありましたので、お応えしたいと思います。八木秋子の周辺をもう少しトレースする意味も含めて、「訃報」に注釈を加えます。
◆阿夜:八木秋子が亡くなった夜に八重桜が散ったと書かれていましたが、なぜ一重でなく八重桜なのですか。また、「貸間あり」という映画のセリフ引用には何か意味があったのではないのでしょうか。そんなことを以前うかがったような気がします。
★実は、上州のソメイヨシノが咲くのは4月上旬で、5月の連休あたりは新緑と同時に八重桜が咲いています。ですから、夜半のメイストリームで、5月1日の朝は八重桜の花びらが道路一面に散り積もりました。しかし、八木秋子は可憐な桜ではありませんね。やっぱり、八重桜なんです。「生ききりましたね、八木さん」というには、やはり八重桜の重量感・存在感が似合いました。
それから「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生」という映画のセリフを引用したのはなぜかとのこと。たいへんありがたい質問をいただきました。八木秋子の危篤の枕元に着いたとき、メイの方が「オバは脳内出血で倒れてからずっと何かをしゃべり続けていた、それはまるで何かが走馬灯のように駆けめぐっているかのようだった」とおっしゃっていました。
そのせいか、映画フィルムに見立て、その頃こんな文章を書いたことを思い出しました。
■夏の夜である。開いたままの入り口から明かりのついている部屋へ入ってゆく。部屋ではアプト式機関車のように映写機がゆっくり、ゆっくり正確にコマを送っている。コマ送りのリズムが、オヤッと思ったわずかな瞬間から崩れはじめた。そして、不規則なリズムが止まった途端、何かが切れたようだ。一気にフィルムは逆回転を始めた。恐ろしい勢いで回転し続ける。フィルムはリールに巻き戻されず床に散乱し、みるみるうちに重なり合っていく。そのうち、片方のリールにあったフィルムも終わりが近づいた。最後の一コマを送り出すとスクリーンに残るのは白い光のワクだけだ。たしかにそれまでも音も光もあったと思ったが。モーター音も消えてゆく。ブーンというのは虫の羽音か、それともさっきまであったモーターの耳鳴りか、それもあるような、ないような・・・・・。
八木秋子さんあなたは脳溢血で倒れ、昏睡になるまえ、10数時間にわたって喋り続けたそうですね。記憶が永遠に固定される前に、この世に言い放ったということでしょうか。きれぎれの言葉の端から「書くこと」に関する作業のいくつかが聴きとれたと言われております。あなたの最後の意志が渾身の力をふりしぼったともいえるその姿は、やはりショックでした。しかも、いかにも八木秋子らしい、書くことに憑かれたふるまいを聞き、そのとき何を書いたのか、それが心に残りました。しばらくして、思い浮かんだことを手繰っていったら冒頭のシーンになったわけです。
喋ったことが意識的であろうと無意識的であろうとどちらでもよいことです。ただ喋ったという事実、喋りたいものがあなたにあったことに、私は何度もうなずくのです。そうでしょう、沢山あったでしょう。
あなたは15年前の日記にこう書いております。ただ一人の子供であった2歳の健一郎さんを家に残して出た大正10年8月5日を、
☆わたしは生涯忘れないだろう。意識が正常に働いているかぎり><ああ遠い過去よ、幻影として私の胸のおさめよ。わたしがほんとうに書く日まで>。
あなたが心の底に深く沈殿させ、書きたいと思っているものがあることは充分に承知しておりました。しかし吐きだされるそのものより、吐きだされる理由というか、契機となるものにあなたが現在生きているという証しを私は求めていたので、無理に聞き出そうとは思いませんでした。あなたの中で自然に醸成され<ほんとうに>という契機を待つことが貴重だと思っていたからです。そして、時機を得て書かれたものは、奥行きのあるみずみずしいものでありました。(註:通信「あるはなく」掲載の文章)
しかし、聞いておけばよかったともどかしく感じたときもありました。特に、喉の所まで出ている人名を掴み出せなく苦悶しているときなど、あなたの生涯を詳しく知っていれば言えるのにと、手をこまねいている自分に苛立ったものです。この二つの気持ちはあなたの老いの進行とつきあう中で、最初からずっとせめぎ合うように揺れ続けておりました。たぶんそのことはあなたもわかっておられたと思います。
もう今となっては、あなたの口から直接聞き出す術がなくなってしまい、残るのは悔いばかりであります。あれもこれも聞いておけばよかった、そうしておけば、いま手探りで歩いている手間がはぶけたのではないかという声が聞こえるかのようです。
本当に後悔しているのか、と言われそうですが、実はほとんどウソです、ほんの少しだけ、あなたが言葉を探している時だけはそう思ったこともありましたが、わからない所はそれでいいじゃないか、いつか判る時が来るだろう、結局、どう想像力を膨らませられるかが問われるだけだ、と考えてきました。
そのとおり、八木秋子と直接関係がないものに、しかし深い関心をもって接近していくとき、あなたと見えない糸で繋がっていて音信しているかのように出遭うものがしばしばありました。いってみれば “めぐり、めぐりて、八木秋子” です。
『パシナⅠ』1984・11・1発行 より
阿夜さん、あなたは八木秋子通信「あるはなく」に最初から伴走してくださいました。激励、暗示、挑発。わたしの周囲にも20代の友人たちが並走していましたが、阿夜さんの遠くからの視線は何よりも貴重でした。30年前の2月は「さらば、われ、わが生涯を迷いと不安に貫ぬかん」という八木秋子の意思を、清瀬のアパートに訪ねて全身に浴びていたころです。この人には何かあるという気配を感じ取っていたと言えるでしょうか。その後、その「気配」の種が、脱走を契機に「通信の発行、著作集の刊行」へと開花したのも、八木秋子の<書くものがある>という強い意思によるものとは思いますが、いま振り返って思えば、伴走・並走して下さった阿夜さんたちの存在なしには考えられません。
種・花とくれば、次は実。「呼吸を長くして時を待つ」と養育院での日記に八木秋子が書いたように、わたしもこの場を通じて30年間併走してきた八木秋子を甦らせようと思います。
これからもよろしく伴走してください。