●第8夜 出会いと背景 その四

 東京北多摩の西武池袋線清瀬駅から歩いて10分くらいのアパート栄荘2階の4畳半に独り住む八木秋子を、仕事先の会社の白井新平社長と初めて訪ねてから、その後は何度も訪ねることになりました。そして、約一年後に初めての子どもである李枝が生まれました。その頃のアイキョー26歳の日記風メモ(青臭く面はゆい)です。


【相京の日記風メモより】
★1975年9月16日
 白井新平社長と八木秋子さんを訪ねる。

★1975年10月7日
 彼女の思想の拠点が「否定の底のヒューマニズム」であることを解する。言葉の無益を知るものは、逆に言えば、言葉の真を知るものは無言であることをもって他者を圧することができるのだ。彼女がまさにヒューマニストであり、一方でニヒリストである事実は「否定の底のヒューマニズム」「闘いの視点を持ちながらのニヒリスト」といえるだろう。
 革命家、女性解放家、文章の重みを知る人。

★1975年10月9日
 昨日、八木さんと4時間近く話した。東京日々に入る時の面接の内容を話した。最初投書して、整理部長の目にとまって、男か女か見ようとして奥さんに面接させたこと。その後、「朝日に比べて反動だ」と思ったことをペラペラ言ったこと。また、記者時代・印度の権威木村某博士(泰賢だと思う)のところへ取材に行き、サンスクリットは何の宗派かと尋ね、大笑いされたこと。帽子の値札を付けたまま歩き回ったことなど、楽しそうに話した。

★1975年11月17日
 『暮鳥と混沌』を読了。明治・大正の頃の赤裸々な人間関係は今はない。なぜもっと底からつきあえぬのか。今は言葉をストレートに出すことをせず、いろいろな人間模様を描きすぎる。もう少し、大胆で激しく心がこもる文を、特に対人関係において書きたい。

★1975年11月30日
 我々にも子供が出来たらしい。

★1975年12月3日
 哥代は今日医者へ行った。予定日は7月29日だそうだ。が、若干流産の恐れがあるので正月頃まで注意するようにとのことだ。絶対安静に近い状態でいるようにと言われた。エレクトーンももちろん駄目だし、外へ出るのも注意するようにということだ。いずれにしても、母体の安全と立派な子供が生まれることを願うばかりだ。

★1975年12月8日
 今日、哥代は田無の佐々病院へ入院した。安静にしていればよいそうで、多分、10日か20日ぐらい入院すれば良いだろうと思う。
 常に己を巨視の世界に置き、比較することで安住することなく、また近視眼的で上昇してしまい、空想につぐ空想を積み重ね、自らを滅することのなきよう心がけよう。俺が自らを賭け、哥代が自らを賭けて生を充たす時、結果的に二人の限りを越えるなら自然、越えぬも自然。我々の出来ることはそれだけである。社会や国家を突き崩せる道は、個々の思想的決意を含む個人の思想であり、女、特に妻との関係の中で掴まねばならない関係性である。哥代の落ち着いているのは、それまで考えた内容に確信を見たからであろう。

★1975年12月21日
 哥代は15日に退院した。だが、ずっと安静にしている。

★1975年12月26日
 三越でおもちゃのピアノを買った。哥代はだいぶ良い。音符を追って見たいのだという。

★1976年1月9日
 周恩来死す。

★1976年1月14日
 八木秋子より葉書。

★1976年1月26日
 一つをやり遂げられぬ者が他の事をやれるはずがない。状況にかこつけて理由を探すインテリ然としたことを拒否しなければならない。と同時に、絶えずそういった自己批判は我が身に問わねばならぬが、社会的関係性の中においては、通用しない。上述の言葉は人に強制するものではない。管理者資本家が用いた時、その言葉は彼らの状況を彼らの都合の良いように利用しているにすぎないからである。抽象性は社会的諸関係の改善後、初めて実体化し得るとも言い切れないが、一つの条件である。

★1976年2月11日
 八木さんの家に行く。
・八木さん訪問:反逆者キリストを尊敬「死者をして死者を葬らしめよ」。80余歳でなお溢れる熱情をなんとする。「これからも長いつきあいですから」とのこと。否定の底のヒューマニズム、子を否定した時を原点とす。話した言葉を非常に大事にする。石原吉郎の「驢馬よ、権威を地におろせ」。華々しく散るわけでもなく、従順に迎合するわけでもなく、そこにある事実のありのままを語ること。それが彼らにとって己れ自身の存在、自分が何者であるかということの証しでもあった。キリスト教の自然=事実のそのまま、仏教でいう無。自らの衣を脱いでいかねば、否定してしきったところから出発しなければならず。そこにはワナがある。しきれば駄目になり、ヘタに肯定するとウソになる。明るい肯定。大局的な見地でものを見る。

・読書新聞:3月1日 渡辺京二
 建設されつつある市民社会的文明の諸体系にどうしょうもなく違和。それを無条件に「定立」することによって、ある種の政治革命など期待していない。ただ、そのような違和のうちにこの国の生活大衆のもっとも本質的な生存様式があらわれているものと考え、それを問題にすることなしにこの国において政治思想的な主張をすることは、無意味だと信ずる。

★1976年2月29日
 北条民雄『いのちの初夜』を読んだ。感銘を受けた。生きるという意味を真に考えさせてくれる、人に言うことでも、また書くことでもない、自分の胸に叩き込まなければならぬものを感じる。映画「生きる」、障害者、八木氏の生・キリスト教等を通じてのこと、これは必要なことである。子供、幼児。

★1976年3月25日
 言葉・思想が一度発せられたとき、その後はその思想自体が一人歩きする。それに対しての責任は? 関係ないといえば関係ないが、しかし、その内に問題をはらんでいる。

★1976年3月30日
 気を入れ、息を詰めたまま一気に押し進む時もあるはずだ。それが、今、現在のような気がする。

★1976年4月5日
 無意識のうちに生活派とインテリを使い分けている。食うための時間と自己を取り戻す時間。だが、生活時間において積極的に体制に協力するのはもっての他だが、その程度の差というのはきわめて主観的なものであって、それを見極める客観的価値基準は各個人の良心というべき。宗教の現在意識的良心が問題ではなかろうか、それがないと、歯止めがない。すべて許されてしまう。結局はそれが、両方とも矛盾すべきものが情況的、生活者的理由によって奇妙に合致して人生になってしまう。天皇制の家族的なものが。

★1976年4月19日
 友人永井がよく言うが、「相京は若いよ、純だ、何時会っても変わらない」と言っていた。だが、俺はこう思う、自分が社会に対応していくことで、かなりの妥協をするが、それは社会に対することであり、社会と自分との位置を正確に見つめることが必須である。だが、人間関係においては、自分が必要とする関係は、自分の譲れぬ関係を肉付けする形で、関係を作っていくことが大切ではないだろうか。

★1976年4月20日
 11時清瀬の八木さんの所へ。左手の骨にひび入っていた。3時頃まで談笑する。あの人には強い意志、迫力がある。

・東京新聞:大波小波「岩波書店の『図書』11月号に筧文生(立命館大学)。毛沢東との会見を終えたエドガー・スノーが言った毛沢東の言葉。<破れ傘を片手に歩む孤独な修道僧にすぎないのだ>(和尚帯傘、無法無天)」

★1976年6月4日
 八木さんが家を出る時のことを詳しく聞いた。

・夫の知に対する決定的な欠如。それゆえ家を出た。
・だが、子に対する断ちがたい気持ちは自分を、心を何度も揺るがせた。
・その時、家を出るに際して外の世界に「ある目的」があってそうしたのではなく、といって、これ以上夫と一緒にいること(性的)に耐え難く、何のあてがあるわけでもなく、一歩踏み出したといえる。この点がきわめて重要なことで、
①子・夫に対して取った行動の意味が自分にもはね返ってくる。彼女自身、満州や戦後を通じてずっと心にはね返ってくることであったという。②「希望があったから家を出て生きた。子を捨てた」のではなく、現在そこにいることが耐え切れなくて行動したということ。すなわち、対置関係にある一方のものを得るために一方を選び取るということでは自らの心にもほとんど響かない。そのような対応関係が彼女が家を出るという時点において存在せず、封建的な家制度、あるいはその関係から一歩踏み出すことがまず第一だったということだ。
 だが、それ故、子供に対する思いは一生離れられなかった。
・時というものに対し、宗教は生まれ死ぬことを一つの直線にたとえ、現世と来世、前世と区分けするが、それは間違っている。現在を生ききることが出来ずして、来世も未来もない。死の瞬間を生ききっていることをもっと意識すべきだ。
「もっと変わらなくては」と80余歳の老婆の溌剌さ。

★1976年6月21日
 哥代田舎へ、出産のため。

★1976年7月17日
 江西一三自伝出版記念会。
 逸見吉三さんのこと。

★1976年7月20日
 韓国5千年美術展

★1976年7月25日
 八木さんの家へ。4時半。帰宅8時半。

・石原吉郎の詩集を貸したら、大変感激したそうだ。死と直面したなかで詩を書いた。常に死と対峙したラーゲリー体験を事実ありのままに書くことで初めて「抵抗」が生まれた。一度表現を拒否した後、詩が生まれた。内省の連続、絶望-石原の言葉で言えば断念、単なるあきらめでなく断つこと。明治の人間・時代の人間の緊張を保つ精神力。
 父のこと。姉フジ、渡米した。活発・利発、清沢洌との出会い。
・石原とイエス。八木とイエスとの類似。キリストでは救われないんだということ。
・子供を捨てる(手放す)ということは原罪となって常に迫ってくる。それは、だが、行動のバネになりうる。

★1976年7月26日
 長女誕生:午後8時15分。時あたかも原町の花火大会の最中。花火の音と一緒に長女誕生。一日暑く。猛暑というべき晴れ。ちょうどその時は社長、田辺、村上氏と夕食をしていて、時計を見たのが8時15分だったと思う。
 いったん家に帰り会社に泊まり、翌朝、6時4分の急行で帰省し、10時頃病院へ着き、病室を探しているうちにテレビで田中角栄逮捕を報道した。
 その意味で27日は角栄一色で埋まった一日で、長女の誕生は終生語り継がれるだろう。目の縁が赤く、まだ弱々しかったが、生きている実感はあった。ちょっとゴッツイので俺の方に似ているかも知れぬ。生まれた瞬間、手足をバタバタした時は感激したそうだ。苦しかった模様をしきりに聞かせた。「花火と猛暑と明けて角栄」。

・女児が生まれるとなんだか男の方が良かったなんて思うが、男だとあれやこれやと思い入れ過ぎるからちょうど良いかも知れぬ。親は親、子は子と、すっきりするかも知れぬ。父親のような男を愛する女になってもらいたいし、またそれに応える親になりたい。

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