4月22日土曜日(2006年)、私は30年前に八木秋子が住んでいた場所を訪ねてみました。西武池袋線清瀬駅前は正面に大きな道路がまっすぐ伸び、西友や高層マンションが立ち並んですっかり変貌していたのは当然です。満開の八重桜を見ながらうすぼんやりした記憶を頼りに進みましたが、途中の店舗などは変わっていても、八木秋子が怪我をして見舞った病院や、通りや路地もほぼ記憶していたとおりでした。しかし、かつて栄荘があった場所には辿り着けたのですが、やはりそこはすっかり面影もなく住宅街となっていました。
入り組んだ路地の曲がり角をふと見ると、覚えのある教会の表示があり、案内に従って行くと、驚いたことに、当時八木秋子が通っていて、いろいろ相談に乗っていた牧師さんの名前がそこにありました。実際、その場に足を運ぶと何か見つかるものです。
出遇ってから何度か訪ね、八木秋子は「子どもを置いて<家>を出たこと」(後に知ったことですが、彼が亡くなるまでの30数年間には辛い別れの物語が何度もありました)を語り、わたしは「女や子どもとどう往還するか」を考えていたのですから、産まれた子どもを連れて訪ねることは必然的な行動でした。駅から10分もかからない距離ですが、あの頃はもっと遠かったという記憶もあります。
さて、第9夜は子どもが産まれてから、八木秋子を家族で訪ねる時期の日記メモです。
八木秋子はそのころ、老人ホーム入りで迷っていました。
『ホームへ行くとすれば、まず、身についた一切の家具、家財道具を全部放棄しなければならぬ、衣類を規則の点数だけ持ち、他の物は一切拒否である。ところで、私の所有物といっては、書物、雑書、きりぬき、抜粋、寡筆の私にも保管してある古原稿、ノートは決して量においても少なくない。それは長い歳月をかけて私を育て、生かしめてくれたものだ。これらは私そのものであり、私とは切り離すことのできない全存在であり、全財産である。この書籍、古雑誌、ノートなくしては、私の生存はなく、存在は消える。私がもしこの老年でなお生存が続けられるとすれば、この財産に身をゆだねて進むほかない。それが全部私から抹消されようとしている。』
後に、そのころを振り返って八木秋子が書き留めた文章です。生活保護下の、貧しいながらも自由な空間の「4畳半独居生活」が立ちゆかなくなっているとは知らず、わたしは李枝に会いたいという八木秋子を訪ねていました。初の外出先として訪ねた11月3日、そして間をおかず23日にも来て欲しいと言っていたのは、ホーム入りという生活環境の激変が予測されること、それが理由だったのだと思います。
では、若い父親の、子どもが生まれて「自動車免許・速記・(書かれていないけど太極拳1977/3/31)を習うこと」を決めたアイキョーメモをお読みください。
【相京の日記風メモより】
★1976年8月7日
李枝が誕生してから毎日曜ごと帰省している。俺が帰るとどうも興奮するらしくグズるようだ。神経を使いすぎると子供もそうなるらしく、だが、初めての子供は、その毎日毎日が変化しているので、一刻一刻が初体験になっているのでなかなか気を使う。★1976年8月14日
田舎へ帰り、中学の友人で、自動車工であり、スピードを出しすぎて事故死した渡一夫君の墓参をする予定。考えてみるに、彼の自動車に対する過信は、いま自動車の教習を受けてみてわかる。彼の渾名はモッグのとおり、動作や言動がスローモーで、本人もそう思っていたと思われる。ところが、自動車の技術を覚えると、とたんに自分の意志で車というものが自由自在に動き、そして今まで味わったことがないスピード感が彼の身体全体から沸き上がってきたに相違ない。だから、正確に言えば、僕らが身体を動かして感じるスピード感を自動車で体現化して自分で感じたのではないか。その意味で彼は自分の生活に自信を持ったのではないかと思われる。足の悪い少年が鳥になろうとして高いところから手足をバタつかせて飛び降りて死ぬといった映画を見たような気がするが、彼は車と一体となってスピードを、そして生命の躍動を体現化したのではないかと思われる。★1976年9月3日
哥代・李枝上京。★1976年10月5日
胃レントゲン。13日カメラ。
10月は身体をやられた。体重はおそらく3~4キロ減ってしまったと思う。9月24日、仮免に合格してホッとした気分があったか、石井誠君と目黒で呑んで意気投合しすぎてしまった。久しぶりの二日酔いで、翌日、馬主協会の編集会議に渋谷へ行き、大井競馬場へ。特別に胃が痛いとか何とかではなく、ただ、身体の疲労はいかんともしがたく、欠伸や身体のだるさが非常に多く感じられるようになった。10月4日から速記学校が始まり、夜8時半までの授業に2週間出た10月15日。朝は8時からの自動車教習に出て、身体の芯がダダっと疲れたのを感じ、また教習所の教官が気に入らないやつだったせいもあり、その昼食がハム、これも良くなかったのか、その夜の速記も疲れ、また、家に帰って食事をしようとしたら一口も食べたくなく、胃にすきま風が吹くように感じ、今になって考えると、このとき、風邪を引いたのだが、咳も出ず、熱も上がらず、微熱だったので、そのままにしていたら、とうとう力が入らなくなってしまった。
10月19日、20日、そして一日おいて22日と一日中寝ていた。とにかく良く寝た。夏の休日ごとに群馬に帰り、そして歯の切開手術のため、一週間のうち3日は固いものは食べられず、刺身などでごまかしてきたのと、例年の夏バテが輪をかけて襲い、また自動車教習所に通い、朝、晩と通い詰めた。それに使った神経がまた速記で倍加したと考えられる。
★1976年11月3日
9時自動車教習。八木さんの清瀬の家を哥代、李枝と訪問。李枝初めての40分ばかりのバス、電車旅行。帰り、バス遅れ、李枝ぐずる。八木さんのパンフ2冊購入。哥代は初対面だったが、予想通りだったようだ。また、子供に対しても李枝をだましだましながら自分のエレクトーンを主張できているようだ。自分の感性が摩耗して行くのではないか、子を産み、結婚することによって、かつて自分たちが拒否した関係性の中に知らず知らずのうちにドップリ漬かって溶けてしまうのではないかといった不安がある。
★1976年11月16日
9時50分の保谷行きのバスで出かけ、10時3分の池袋行き。10時50分の急行で大宮。バス11時15分だが、雨強く遅れた。李枝は静かに、初めての列車体験を噛みしめている如く、緊張した面持ちでキョロキョロしていた。泣きもせず、呼べばニコニコする。結婚式場はバスで5分ぐらい。哥代の友人Tさんの結婚式。哥代がエレクトーン演奏や披露宴に出席している間、李枝を見ていた。ジュースを作って飲ませてやった。2時に終わり、大宮3時20分着。構内でおしめを取り替え、3時47分赤羽、池袋4時40分で保谷。5時8分のバスで帰る。うどんを取って引き出物を食べ、6時40分、李枝、寝ぐずと寒かったのか、10分ぐらい泣き続け、寝る。外へ出て未知のものを経験し、可能性を秘めた大脳に刻み込まれた日は、その分疲労度もふだんと桁違いに増し、それゆえ、寝ぐずや食事も増すのだろう。3カ月を過ぎ、4カ月近くになると、もうあやせば笑うようになり、また、哥代の負担を少しでも少なくさせようと思い手伝っていると時間がなくなり、まだ少し無理をするとバテが来るようだ。
★1976年11月22日
八木さんより明日訪問の依頼あり。李枝に会いたいそうで、たいそう嬉しかったようで、また、しきりに恐縮していた。★1976年11月23日
自動車教習、田無で哥代・李枝と待ち合わせ。1時八木さんを訪問。4時半帰宅。家庭を捨てた時点でもはや一人でしか生ききれぬと自己に強いた人間。