1977年1月30日、八木秋子は老人ホーム(都立養育院)からサンダル履きで脱走して相京の家に来ました。そのことから個人通信「あるはなく」が始まったことは第3夜に書きました。その老人ホームに入る前、わたしとなぜ出遇い、どのように交遊したのか、その主な背景を「相京の日記風メモ」をもとに5回にわたって書いてきました。
今回は、八木秋子がなぜ老人ホームへ入ることになったのか、彼女の入寮にいたる顛末を掲載したいと思います。ただし、これは養育院から脱走した直後の、ひとまず落ち着いた77年2月中頃のメモだと思われます。
わたしも通信発行を八木秋子に提案した3月15日までの第3夜の日記風メモを読み直しました。そして、「あっ」と思いました。その頃のわたしに大きな影響を与えていた竹内好の死と、その葬儀の際に弧峰のように聳え立っていた埴谷雄高が、通信の発行に影響を与えていたに違いないということに気がついたのでした。
・2月03日偶然訪ねてきた玉川信明を通じて竹内好の癌を知る
・2月08日クロンシュタットの『1921年の婦人労働祭』(昭4八木秋子)をコピー
・3月04日竹内好の死
・3月10日埴谷雄高:孤峰のように聳えていた(信濃町千日会堂:竹内好の葬儀)
・3月15日八木さんを訪ねる。元気。通信的なものを発行することを提案。大いに乗る。
なぜ、これほど重要な発行の動機を今まで触れてこなかったのか、考えてみれば不思議でたまりません。しかし、当時のわたしであればそう覚悟するに違いないのです。埴谷がしきりに語っていた「精神のリレーを尽くせ」ということを実践しようと決めたのでしょう。おそらく5日後たずねた養育院でわたしは埴谷の姿を語ったと思われます。そしてどんな通信の形でもいいから出立しようと彼女を檄し、発行へ突っ走ったのだと思います。
翌78年、その埴谷が八木秋子の書いた上述のクロンシュタットやマフノの小説(昭4・5)を読んでいたことを知り、著作集Ⅱの帯文を頼みに行き、その後、何度も吉祥寺のお宅を訪ねるようになるとは、そのころは夢にも思わなかったことでした。
八木秋子通信の発行動機と竹内好の死が関連することはすっかり記憶の外にありました。いま振り返れば、当時はそういった活動をすることはよくあることで、「竹内好が死んだから云々」と行動の動機付けをすることはナンセンスだったのです。自分がやりたいからやる、だから、自分の行動は自分で責任取る。これが当たり前でした。
それにしても、注釈を重ねることで、「地」としての「日記メモ」から発行の動機と埴谷雄高の姿が「図」として立ち上がってきたというわけです。これを書けただけでもわたしにとって、いまエディット64で注釈を担当した意味がありました。
さて、それでは八木秋子の入寮顛末記です。お読みください。
【八木秋子:養育院入寮顛末記】
1976年10月2日、清瀬市役所主催で敬老の祝日の招待があり、私たちも出席して市の祝賀をうけ、この日9月15日、慶祝として清瀬市から1万円、東京都から7千円を下付された。その帰り、わたしは2階の自室に帰ろうとして2階の階段から転倒し、どこかの鋭角に頭をぶっつけて負傷し、血が流れた。そのまま意識を失い、階段下から救急車でどこかの病院に運ばれ、そのまま半睡半醒のまま3時間近くを過ごした。その病院はヤクルト近くの前田外科だった。
頭部が2センチほど裂傷が出来、院長の命で脳波の検査をしてもらったところ、副院長の診断では脳波には全然故障なし、安心せよとのことで、翌々日退院帰宅して、近くの武谷病院で加療を続けるうち、裂傷も癒着し、全快した。わたしが居宅の2階から転落して入院退院はこれが3度目である。最初は、一昨年(1974年8月)、信州の甥の家に滞在中、2階の高い階段から墜落し、その時は骨折に違いないと信じるほど、その痛みは全身にわたり、動くと全身破裂するかのような激痛が起こった。だが、不思議なことにはトイレへ行く必死な努力にはどうにか四つん這いが出来たので、これは専門の医者の診察を受け、そこへ入院して骨折か否かを確かめ、且つ療養したい一心から、当家の医師夫婦が熱心に引き留めてこの田舎で療養することを勧められたがこれを断り、その甥の家から乗用車で甲州路を徹夜で走り、翌早朝には予め打ち合わせてあったとおり、清瀬市の織本病院に入院した。2週間ほどして骨折ではないと言われ、勇気を出し、自ら身体訓練を受け、3週間あまりで退院した。
その後は順調に回復しつつあったところ、昭和51年(1976年)4月初め、またしても2階のつるつる滑る階段から転落、直ちに近所の武谷総合病院に行き、外科の診察を受けたところ、直ちに入院せよとのことで骨折ではないことを知りながら、医師の勧めで入院、3週間近くの後退院。
私もこの2度の負傷にあい、平屋の小さい家に移ろうと決心し、あちこち貸間を捜し始めた。しかし、老人の一人暮らしという条件でなかなか思うところがなく、そのころから清瀬福祉事務所ではわたしに老人ホーム行きを勧め、いろんな方法や人を動かすというでもないけれど、でも、わたしは老人ホーム行きを断った。しかし、福祉事務所ではわたしの老人ホーム行きを断念せず、ますます熱心に勧める。老人ホームといえば、わたしの古い友人延島女史のいる軽費老人ホームは個室を与えられ、月々の支出も9000円~2万円で足りる。生活は自由で、アパート暮らしと大差はない。
そのことを知っているので、折から甥が親戚の結婚式のため夫婦で上京した好機に、その話をした。彼はその話で安心し、老人ホームでこれ以上逆らうな、全部俺が出してやるとのことで、彼は帰った。その少し前、福祉事務所から勧められて板橋の都立養育院へ行くよう命ぜられて行ってみた。本院で会った人の話では、軽費老人ホームは志望者が非常に多く、入寮までには3年くらい待つしかない。
それに、このほうは福祉事務所とは関係ない、それに病気をした時などは保証人が引き取らねばならぬ、という。それでは困るのだ。その課長の言葉によると、福祉行政の前途は収容者においおい個室本位に近づけさせるため、これから建築する建物はその実現に向かって踏み出そうとしているから、この軽費老人ホームの入居を待つか、その近代的老人ホームになるべく早く入居できるよう、その両方へ願書を出してはどうか、と勧めてくださった。
そこで、その勧めに従い、軽費と近代的建築のほうと両方へ願書を出して帰った。
ところが、私の知らないところで、養育院と清瀬福祉事務所は話を進め、両者の間で保健所の診察日を決め、福祉の役人に連れられて10月30日保健所に出頭し、検診を受けた。その時保健所の医師は、私の心臓の異常を指摘し、心臓の疾患語り、これは心筋梗塞ではなく、狭心症の症状であることを口頭で付き添いの所員に注意したが、肯かなかった。いよいよ私の意志とは関係なく、板橋の養育院本院へ入居が確定したことをぼんやりと悟ったわけである。心臓の疾患を指摘した保健所の医師に対し、福祉の係員はこう答えた。
「それは多少の疾患はありましても本院へ行けば医療の設備は整っていますからそのほうでやって貰います」、保健所の医師は黙った。たしかに私の脈拍は異常に早い。歩くと苦しい。異常だ。帰ってから私の苦しみが始まった。このまま老人ホームへ行くべきか。
ホームへ行くとすれば、まず、身についた一切の家具、家財道具を全部放棄しなければならぬ、衣類を規則の点数だけ持ち、他の物は一切拒否である。ところで、私の所有物といっては、書物、雑書、きりぬき、抜粋、寡筆の私にも保管してある古原稿、ノートは決して量においても少なくない。それは長い歳月をかけて私を育て、生かしめてくれたものだ。
これらは私そのものであり、私とは切り離すことのできない全存在であり、全財産である。この書籍、古雑誌、ノートなくしては、私の生存はなく、存在は消える。私がもしこの老年でなお生存が続けられるとすれば、この財産に身をゆだねて進むほかない。それが全部私から抹消されようとしている。福祉事務所からは12月10日に板橋の本院へ最終的に私を送ると通告してきた。私は従順に運命に従うべきか、ここで立ち止まり、新天地-新しい生命への道を拓くべきか。
私は老人ホームへ行く意志はない。
私は誰にも相談せず、11月30日清瀬から中央線の鈍行に身をゆだねて、一人信州へ立った。(中略、註: 軽費老人ホーム入り待機のため、結局都立養育院入りを決める)
12月3日、ロッキード政変で投票日を5日に控え、新聞は騒然、テレビは予想で大変である。田中角栄の越山会における活躍を大々的に報じている。八王子に4時半頃着。乗り換えて国立、武蔵小金井着。清瀬行きに乗り換え、終点でバスを降りる。降りておかず類の買い物をし、古川さんが立つ時送ってくれたので話して帰宅。疲れた耳に選挙の予報が終夜。1976年12月5日。相京範昭君来宅。廊下の山のごとき古雑書を見て、おどろく。まず他人にやる諸本、いろいろ仕分けをする。一冊ずつ私が見て区分するので時間がかかること甚だしい。でも克明にやってくれる。しみじみ友情を感じる。たいへんに疲れても食事の用意もせず、全く呆れた友情だ。彼の私を見る目には何かある。何かわからないが、そう短い言葉では言えないらしい。彼とのつきあいは長くはない。むしろ短い期間だ。彼が私に注目するのは、わたしの、独自のキリスト観ではないかしら。私のみる、私の感じる基督は私独自のもので、クリスチャンが聞けば、特に彼らが読めば必ず反発を感じるものであろう。私は自分独自のキリスト観で人からひどい誤解をうけたり、反キリストといわれるのはいやだが、そのために基督の反逆をいわれたりするのはやはりいやだ。
相京君からはずいぶんいろんな啓発をうけた。いろんな、たとえばシベリア出兵で深刻な体験をした香月泰男という画家、詩人の石原吉郎の死の芸術を発見させて貰った。いまわたしのところには彼から借覧させて貰っている『ゴッホの芸術』がまだ返さずに保存されている。この人からいろいろ良い本を見せて貰った。
その上、わたしがこの養育院から脱走というひどい行動をとった時に、一番心配をかけ、一番厄介になったのはこの人だった。いま、私はあのころと比べて落ちついている。平坦な気持ちになっている。このことが、私にとって本当によいことか、あるいは後退か、堕落かよくわからないが、瞬間的にものを掴もうとせず、一歩はなれて客観視したいと思っている。