●第12夜 八木秋子老人ホーム「養育院」へ

 迷いに迷った末の八木秋子の老人ホーム入りは1976年12月10日ことでした。
わたしが初めて白井新平さんとうかがってから1年3ヶ月後のことですが、その間、交遊は続き、長女李枝の初外出先として11月3日に八木秋子を訪ねたことは第9夜で書きました。そして、23日の休日にもぜひ李枝に会いたいと電話があり、訪ねた翌日の24日、彼女から老人ホーム入りを聞きました(第11夜を読むと、実際のところ、まだこの時点でもおおいに悩んでいたようですが)。

 わたしは、第3夜に書いたように、彼女のホーム入りについては親戚の方もいらっしゃるようだし、詳しいことには立ち入らず、生じたことに対してどのようにも対応しようと決めていました。
 入寮予定の5日前に訪ねると、部屋の真中に茫然と座っている八木秋子がいました。わたしを見て、あわてて立ち上がり、リンゴを出そうとしたり、お茶を出してきたりしましたが、彼女に聞くと、片づけようにも手がつかない、自ら整理する能力の無さをしきりにこぼすばかりでした。

 そこで、翌日から通いました。書籍類は身元引受人のC氏に預けるということでしたので廊下に積み上げ。家具は福祉事務所へ。
 老人ホームでは、ほんの少しの、身の回りのものしか許されない。人間が食べて暮していくのに必要なものだけ、その最低限のことは保証する。だから、平等に持ちものを削るということなのです。それは一つ一つ確認して棄てるための整理でした。

 第11夜で書いているように、書きためた原稿・日記・ノートの類は、八木秋子にとって「これらは私そのものであり、私とは切り離すことのできない全存在であり、全財産である」と言えるものでした。それを棄てる。わたしは、八木秋子との対話から彼女が原稿を書き留めていることを知っていたので、それを棄てるには忍びない、いや、この時代に生を受けているわたしの「先輩へのお礼」として、まずは預かろうと決意しました。

 その当時書いていた「アイキョー日記」には、

★12月5日:八木秋子訪問予定
★12月6日:創樹舎
★12月7日:八木訪問

 としか書かれていません。5日に片付けの実情を知り、連日通って整理している状況が見て取れます。そして6日に書かれている「創樹舎」とは、友人イッサンこと石井誠の印刷会社です。彼とは9月に初めて出会ったばかりでしたが、たちまち意気投合していたので、八木秋子の引越しの手伝いを相談しました。すると、詳しいことは何も聞かず、二つ返事で引き受けてくれました。そして、8日、彼の運転する車で八木秋子のアパートを訪ねて段ボールを運び出し、結果的にはそれをもとに著作集が刊行されたのでした。

 イッサンは、この荷物の運搬がきっかけで、その後の八木秋子著作集発行関連の印刷にすべて関わってくれました。わたしにとって八木秋子著作集の共同制作者といっても言い過ぎではない人物です。

 今でも、呑み友達であると同時に、信州戸隠のヨッサンたちとクロカンスキーやバードウォッチングなどで遊ぶ間柄です。今年の連休は北アルプスへ数十年ぶりに挑戦し、いよいよ山男の復活近しという塩梅です。

 そういえば、彼とも30年です。出会いというのは不思議なものです。

では、八木秋子との「出会いとその背景」の最終編です。

【アイキョー日記より】
★1976年11月24日
 八木さんに電話。板橋の老人ホームへ行くとのこと。

★1976年11月29日
:近代というその総体を検討しなければならない。少なくとも明治にその相克があったわけで、それを見つめることが必要だということが何かしら実感を持ってわかってきたようだ。一昨日、西洋人と日本人と音を聞く脳が異なるという意見があった。もしそうなら、少なくとも日本と西洋という差があり、その自然に対するものの考え方が異なるのが当たり前で、わずか100年で違いが出てくるはずがない。東洋-東亜は少なくとも200年前からの西洋と異なった発展をしてきた必然性がある。動力文明がもたらしたものは実に大きな影響を与えている。
・高橋和己がアナキストに科学者がいないと言っていたが、それは反面では数理的なものが科学だとする現代の風潮から見れば、しごく当然のことであって、そこにアナーキーの存在するはずがない。毛沢東がアナだということの意味は、西欧哲学革命家=マルキストの枠外にいるので、そうとしか位置づけられないということの意味である。その意味では、西欧流アナキズムの中から毛沢東を検討しても方向性が違うと言うしかない。

★1976年12月5日
:八木秋子訪問予定

★1976年12月6日
:創樹舎

★1976年12月7日
:八木訪問

★1976年12月9日
:武田泰淳夫人の日記を読んでいると一つの運命を互いに意識しつつ、その死の前兆の如き出来事が繰り返し出てくるが、それを受容しつつ、もし変えることが出来るならばという心と迫り来る運命に対する不安が彼女の文面にフッと出てくる。長く培われた二人の世界では彼のユーモアチックなことで助かることがある。愛猫がしきりに鳥や兎を捕らえてきて殺してしまう。その描写によって、彼らの迫り来る不吉な予感を自然に知らず知らずのうちに表現している。

・八木さんの、僕らに対する最大のことは、僕らがいくつになっても彼女の存在によって大きなバネになりうるということだ。高齢になっても毎日毎日変わりうる自分でありたいことを願うエネルギー。しかも戦後30年、それをじっと自らの内に秘めて生きたことにその意味を感じる。子供を捨てた時点で彼女は死んだと言う。その後の彼女の軌跡はその瞬間瞬間にかけ、熱き情熱をかけて生きてきた。それが戦後の負の世界となって沈降していくのだと思う。(八木さんを訪ねて、近くの茶店「カダン」にて)

・イズムというものが断定であることに気づいた。人間の生活というものはスケールの大きいものなんだ。中国の世界を知ると見方も変わるものかも知れぬ。一歩、一歩自分の関わる世界のものを自らの中で一つひとつ消化していくことが大事なのだ。

★1976年12月10日
:八木さん老人ホーム入りの日

★1976年総括
・李枝の誕生は時間を教えてくれた。貴重な時を精一杯生き抜く。そして、盛衰の必至の時を知りながら、与えられた時を生き抜くこと。対世間的なものではなく、自らを奮い立たせながら、自己満足に陥ることなく、常に自分の位置を測りながら、そこから撃つこと。
・同様な視点から八木秋子氏の存在を無視するわけにはいかない。80余歳の彼女の生きる姿勢はこれから年を重ね、泥にまみれ、鈍くなっていく我々にとって、一つの指標となるヒトである。

八木秋子:清瀬市元町2-10-7栄荘 
板橋区栄町都立養育院新入寮

 ■こうして、八木秋子は老人ホームへ入りました。そして、第3号で書いたように翌月1月30日にそこを脱走して相京宅へ泊るという行動出ます。80余歳の媼が決意し、実行するその姿に触発されたわたしは、彼女を老人ホームに訪ね、彼女が伝えたいものを何とか形にしたいと考え続けていました。そして、3月10日、竹内好の葬儀での埴谷雄高さんの屹立する姿に感じ入り、いま自分がやることは、「精神のリレー」をするべく精一杯おのれの力を八木秋子のために尽くすことなのだと気づき、八木秋子通信発行へと邁進するのです。

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