第13夜は八木秋子個人通信「あるはなく」第1号の冒頭を飾った八木秋子の文章を掲載しました。何の注釈もつけなかったのは、注釈の効用を確かめたかったからというわけでもなく、この場をご覧になっている方々に、ただ、いきなり、八木秋子の文章を味わって欲しかったからです。
さらりとこのような文章が82歳の老女から発せられるとは思わなかったというのが、その原稿を手にした時の正直な感想でした。実際のところ、その時点まで八木秋子の文章を(白井新平さんの所に来た手紙は別にして)わたしは全く読んでいませんでした。もちろん戦前『女人芸術』やアナ・ボル論争の口火を切った八木秋子の文章も知りませんでした。
誤解を恐れず言えば、これを読んでこの人はただものではないと、思いました。とっさに面白い世界に関われるだろうという予感もありました。
ところで、わたしは基本的に新月と十六夜にこの文章を発表しております。新月には月が「ある」のかないのか。月の満ち欠けは、古来より人に時を感じさせています。欠けている月は、しかし、しっかり「ある」。
題名の「あるはなく」は小町のうたから採ったものですが、
あるはなく なきは数添ふ 世の中に
あはれいずれの日まで嘆かむ
小町
八木秋子がなくなってからわたしは次のような文章を書きました。
★南極の氷は<かれん>だ。二度と飲めぬかも知れぬそのオンザロックに私は感動した。たんに氷が美味いからではない。氷が溶けるにつれ、長い時間をかけて閉じ込められた無数の微小な気泡が一個ずつグラスにはじける。正確に順を追って飛び出るとき、パチッ、と微かだが凛とした音がする。そして最後のかけらになると、ピィーンと余韻を残して跡形もなくなった。その軌跡は実にいさぎよい。しかし、はたして気泡にとってそれは生誕なのか、それとも終焉なのだろうか。
「あるはなく」とは八木秋子個人通信の題名だった。都立養育院という老人ホームに入った81歳の八木秋子に私は個人通信をすすめ、活字化することに協力した。編集人である私の独断もあって、通信は不定期で、あるときはほとばしる急流の如く、またあるときは悠久な大河のごとく無頓着に<時間>を私有した。その表題は六歌仙のひとり小野小町の歌として、彼女の友人からたまたま送られてきた歌のうちから採ったものである。
今ふり返ってみると「あるはなく」という題名は実にふさわしかった。在るものが消えてゆく、と時間の継続の中で考えてもよいし、在るものは虚像かも知れぬ、とその瞬間をスパッと輪切りにしてもよい。この小町の歌とされるものが実は小大君の歌であり、かつ、その小大君の歌の最後の箇所を変えて小町の歌として小町集に収録したと論証しているものがいる。結果的には名も知れぬ大衆の小町像の反映でもあるのだ。ふさわしいといったのはそのことも含まれている。
『パシナⅠ』1984秋
「ある」と「なく」を行ったり来たり。その境界を往還する。いや、その「あいだ」に熱意を込め、駆け抜ける。そのような思いでわたしは「あるはなく」を発行し続けたのかもしれません。
いまなら、そう書くのだろうと思います。