EDIT64注釈(付け加える)-「八木秋子」は、個人通信「あるはなく」発行(1977年7月17日)に至る過程をまとめてきました。第13夜は第1号の「発行にあたって」を掲載し、八木秋子が「ものがたり」を産み出す人物であったと書きました。
今夜から数夜にわたって掲載する第1号「私の生きざま『常に私の戻るところ、負のバネ』」は、聞き書きをまとめたものです。書き言葉と話し言葉が混在しているのは、一度「話し言葉」にまとめたものを八木秋子が手を入れたからでした。また、説明不足や生硬な表現もありますが、句読点や明らかな間違いでない限り、原文ママとしました。
かなり長い文章ですので、何回かに分けて掲載し、注釈を加えたいと思います。
●私の生きざま
常に私の戻るところ、負のバネ・キリスト教の影響について
・小川未明を知ったことは大きなこと
・直前で諦めることは無意味なこと(*有島武郎の助言)
・セックスというのは大きいことだ
・飛び出したけど……それからがね
・それぞれが生きるということ
・再び家出する
・衝動的な直感と偶然を信じて
・飛び超えたいけど「我」が●八木秋子通信「あるはなく」第1号 (1977年7月17日発行)
私の生きざま
常に私の戻るところ、負のバネ■八木
私はこういうものを出して果してよいのか?という疑問が湧く。あまりにも茫洋としているような気がするのだけど。ただ私が82才の今日まで信じてきたもの、生きてきた軌跡というものを思うままに話してみたいと思います。立派な理論みたいなものは話せないですが。
私がどうしても避けて通ることのできないものに子供のことがあります。私が今までかつて、子供を家に置いて、捨てて家出をしたということ、その結果、その後どういうふうに闘ってきたかということについて何も発表してないんです。それは命がけだったのですから。でも、それがやっぱり大きなことだったと思います。
■キリスト教の影響について
私は姉達の影響でキリスト教に接触して行ったのです。が父は反対でした。一番上の姉は、これがまた大変面白い変わりもので、隣の町の開業医に嫁ぎ、次の姉がまた医者の妻となり、三番目の姉は自ら進んで写真結婚して未知のアメリカへ独りで行きました。四番目は先日亡くなったクリスチャンで、最後が私でした。
当時姉達が師範や女学校から休みなどで帰ってくると待ち構えていた家のなかは大変でした。賛美歌はうたう、聖書の詩篇は朗読する、妹の私たちはすぐに憶えて姉たちと合唱します。どんなに父が世間を憚っても、母が涙ながらに押しとどめても、なんの力にもなりませんでした。姉たちはまた嫁ぐとき、それぞれに愛読した雑誌や少しばかりの書物を遺して行ってくれました。当時のことですから藤村詩集、自然と人生、武蔵野などの文芸物、そして河合酔茗主幹の「女子文壇」―月刊誌などもありました。その頃の女子文壇は文学少女の投書誌とでもいいますか、のちの三宅やす子、岡本かの子、若山喜志子、今井邦子、山田花世などの顔ぶれで夢みる乙女のあくがれを、情熱の飛礫をどこにぶつけていいか、ただもう河合酔茗先生の胸めがけてその球音の爽かなる響きをきかんと集まってきました。
そのころの私はしかし、そこのところから次第にキリスト教の方に興味と関心がうつり、内村鑑三氏の訳詩や詩に近づいていったようです。『木の嵩を増すがごとく、のびて必ずよき人ならず、橿は三百年を経て枯れて倒れても丸太たるのみ、たとえその夜倒れて死ぬも、光りの花と草とにありき、美は精細の器(うつわ)に現はれ、生や短期の命を完たし・・・。』
などとうろ覚えながら当時の感動がこころに生きてきます。
内村氏はやがて後日、東京内幸町の会堂で氏の信仰を表明する講座を開き可成りの時日講座を設けられましたが、私はその頃すでに一児の母となり、子供を背に負うて聴講者の列に加わりました。しかし規則には子供を伴うことが禁ぜられていましたので、受付で特に許しを請うて熱心に迫りましたが例外を許されず、非常な失望をもって帰ったことを記憶しています。(つづく)
■八木秋子は1895年(明治28年)9月6日、長野県西筑摩郡福島町(現在の木曽福島町に、郡役所書記八木定義、と紀の5女(本名あき)として生まれました。今夜は、「木曽路はすべて山の中である」で始まる『夜明け前』(千夜千冊0196)の作者、島崎藤村と八木秋子の「つながり」に少し触れてみたいと思います。
秋子の父定義と藤村の次兄広助は、木曽福島と妻籠の行政の中心にいたので、無二の親友として木曽谷で生じる問題(木曽御料林事件等)に対処しました。そのため、秋子は広助にも親しみを感じていたようです。その娘であり、藤村の姪にあたる「島崎こま子」は『新生』の節子ですが、父同士が親友でしたから、手紙のやり取りや交友があったと秋子は言います。
ご承知のように、『新生』は、妻をなくして幼い子どもをかかえた作者が、姪と関係を結んでしまい、その愛と苦しみを「東京朝日新聞」の連載小説として告白したというものです。実際の藤村とこま子との関係でした。こま子は身ごもり子どもを産みます。連載されたのは秋子が結婚した年、1918年(大正7年)のことです。どんな気持ちで秋子たちは読んでいたのでしょうか。
手紙をやり取りしたのは、定義が胃癌を宣告された1922年(大正11年)ですから、秋子はすでに離婚が成立した後で、こま子も藤村との関係を絶った後でした。秋子はこま子に藤村に対する気持ちを手紙で尋ねたそうです。「こま子さんは藤村を肉親としてのつながりとして考えていない、思ったよりはるかにさばさばした人だった」と秋子はその時の反応を語っています。
しかし、手紙をやり取りしてから15年後、まさか同じ日の新聞紙上で二人とも報道されるとは夢にも思わなかったことでしょう。1937年(昭和12年)3月7日、信濃毎日新聞は秋子らの長野地裁での「農村青年社運動」の公判を報道しています。女闘士としての八木秋子。一方同じ紙面で、島崎こま子は三段抜きの扱いで「悲し新生の女主人公、養育院に収容」との見出し。肋膜炎を患い、行路病者のような身で東京板橋の救貧院であった『養育院』に収容されます(これまた偶然にも秋子が収容されることになる老人ホームです)。
こま子は1978年6月29日に東京の病院で息を引き取りました。享年85歳。「ひそかに生涯を閉じた島崎藤村『新生』の節子。メイ・こま子さんのその後と晩年」という東京新聞の特集記事によれば、彼女は藤村との交際を絶った大正末、京都にて左翼学生の合宿所で寮母になり、学生からの影響も受けて無産運動に入り、35歳のとき9歳下の学生と結婚。夫は1928年の3・15共産党弾圧事件で検挙され入獄。こま子は闘争資金を汗まみれになって稼ぎ、夫の出獄後、一女をもうけたが破婚。上京後、行商をしながら運動を続け、警察と赤貧に追われる日々を送ったとあります。そして、とうとう子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、養育院に収容されたのです。
その新聞記事では、戦後、妻籠に住んだこま子は「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じています。そして作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」といい、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたといいます。戦前を生きた、アナーキズムに関わりと共感を抱いていた人たちが共有する「気配」が、その晩年のこま子の写真から読み取ることができます。自負と潔さがあります。
秋子を通じて想像する父定義の風貌は清廉潔白、愚直、古武士のようです。おそらく親友の広助もそうであったことでしょう。そして、あの『夜明け前』の青山半蔵にも通じる所があるように思えます。藤村が『夜明け前』の連載を開始した1929年(昭和4年)は世界恐慌が始まった年です。「何が歪んで、大政奉還が文明開花になったのか」を彼が作品で問い続けていたまさにその頃、秋子とこま子は、「天皇の国家」が戦争に向かう時代に、その圧倒的な権力に身を挺して抵抗し、愚直に、一途に、変革に向けて突き進んだのでした。その生涯をかけて伝えようとした精神こそ、21世紀のいま、次の時代にリレーする必要があるとわたしは思います。
★島崎藤村はもう少し、また秋子の姉ふじについても触れたいと思いますが、それは次回、この夏、妻籠のこま子や木曽福島の秋子の墓参をすませてからまとめることにします