●第17夜 島崎藤村と八木秋子

 第16夜は八木秋子と島崎藤村の姪こま子との奇しき縁について触れました。

 その際紹介した東京新聞「こちら特捜部:ひそかに生涯を閉じた 島崎藤村『新生』の節子」の特集資料は、この「EDIT64」連載という機会がなければ再読しなかったでしょう。すっかり黄ばんだ状態で、仕舞い込んでいた古いファイルの中から見つかりましたが、それもそのはず、記事は1979年9月23日ですから今から27年前ということになります。その時は、八木秋子個人通信「あるはなく」第13号(1980・2・1)でほんの少し触れ、そのままファイルに入れてしまったのでした。

 ところが今回、第16夜を書いてしばらくすると、木曽谷特有の夏の深い緑の風景や妻篭のこま子のお墓がその後どうなったのか、気になってしまいました。新聞の切り抜きに「晩年のこま子」と「妻籠・光徳寺の旧本陣墓所に立てられた真新しいその墓標」の写真が大きく掲載されていたせいでしょうか。

 そこで、木曽谷を訪ねました。
 
 前回の墓参は没後10年の1993年ですから、13年ぶりです。八木秋子の墓は木曽福島・長福寺。初めて訪ねた23年前は、葬儀が行われた群馬から東京へ戻り、そのまま新宿から夜行列車で松本に着き、木曽に向かったのです。八木秋子の葬儀の翌朝、1983年5月2日でした。寺の裏手にある墓域には山吹が咲き乱れ、新緑がまぶしかったその時のことをこんなふうに書いています。

 ☆「あるはなく」 馬頭星雲号1983年5月
 墓地のあちこちに咲いていた山吹を手折り、駅前で買った線香と著作集のパンフが灰になるまでそこにいた。静かな、さっぱりとした気持ちのよい朝だった。鶯など小鳥のさえずりが木曽川の川音と共に聞こえ、昨夜来の雨があがった土の上を蟻が動きまわっている。墓はコケムシてよいものだった。八木さんで八木家も最後。その意味でも八木さんは自分にかかわることは全て処理し終わったのだ。八木さんの骨はまだこちらには届いていないが、私は無性にその場所へ、意識せず、すうーと移動したかった。その点、酒はその役目を十分に果たした。途中、東京で飲んだ酒を醒まさぬよう、ウィスキーを飲みつづけ、ほとんど寝付けぬまま松本に着いたのは朝の4時。白々と明けつつある空は、雲が飛ぶように走り、湧き立つように乱れていた。
 初めての木曽は、『夢の落ち葉を』(註:八木秋子著作集Ⅱ)の冒頭に出てくる描写どおり<山は折り重なって窓に迫り、山また山、せまい空、山から空へ、山肌をはい登る霧>が迎えてくれた。松本からの列車でウトウトしてはっと気づくと、その風景が突然、窓外にあらわれた。驚きとともに胸にわきあがるものを禁じえなかった。嬉しかった。

 その日、わたしは民宿に泊り、「私は八木秋子を私の中で日本の近代史に刻み込み、位置を明確にしたいと思う気がする。プロテスタント史、自由民権史、アナーキズムと、日本近代を辺境からじっと見据えていた<負>の系譜の中で」と書いて「あるはなく」最終号としました。その後、秋子に関わる『パシナ』や『農村青年社事件・資料集』全3巻を発行してきましたが、今回の「注釈」のように、再び秋子との共同作業の「場」を振り返ることなく時を過ごしてきたのです。

 さて、今度の墓参ではどんな思いが湧いてくるのか、わたしは確かめようと思っていました。しかし、どうしたことか、さっぱりした気分があるばかりです。もちろん感慨はあります。この長福寺で追悼の集まりを戦前の同志だった方々と催したのは、なくなった1983年の秋。その時集った方々のうち現在も健在なのは、信州小諸で100歳を越えた南沢袈裟松さんただ一人。星野凖二、和佐田芳雄、山田彰、別所孝三、大島英三郎、安田理貴、向井孝さんはすでにそれぞれの生を終えていらっしゃる。お一人お一人への想いはたくさんありますが、今はそれにもまして、八木秋子を再び多くの人にリレーしていることがわたしにとって最上の喜びなので、さっぱりした気分なのだと自ら納得しているのだと思います。

 いつも途中経過報告。精一杯の力を尽くすこと、それを八木秋子に報告するのがわたしにとっての墓参なのです。ふと気がつけば、クロアゲハが舞う中、木曽川の川音は相変わらずでした。八木家の大きな墓石には一人一人の戒名があり、秋子は「秋峯理照大姉」と刻まれています。その前に佇み、この「注釈」を書くに至った奇縁というか、偶然を必然に転化してきた経緯をぼんやりと考えていました。

 一方、島崎こま子の墓は江戸時代の街並みをそのまま残している妻篭宿の光徳寺にあると新聞の記事は書いていましたが、本陣の墓から移動されていてわからず、とうとうお寺の方にうかがってようやく見つけました。人が「花にたとえれば桔梗に似ている」と言う好ましい文字で、「島崎こま子の墓」と刻まれていました。折からの通り雨に墓石は濡れ、雨上がりの日差しにいっそう気品が顕われており、ああ、訪ねて良かったと思いました。激しく降った雨はたちまち上がり、木曾らしく、狭い空に向け、木曽川から急峻の頂きに一気に霧が立ち上っている風景は、初めて木曽谷を訪ねたときと同じく感動しました。ここでもクロアゲハが舞っていました。

 馬篭にある島崎藤村記念館も訪ねました。藤村の蔵書が整理されている建物でいくつかの発見がありました。それを今回はまとめたいと思います。

☆生涯にわたり李白、杜甫、芭蕉を傍らに置き、離さなかったこと。
☆「よのなかにまじらぬとにはあらねども ひとりあそびぞ われはまされる」という「良寛灯火読書自画像」があったこと。「これは本物でしょうか?」と記念館の関係者の方に聴くと、友人の画家、安田靭彦が所蔵するその作品を借り、複製を作り大事にしていたということ。
☆本居宣長、平田篤胤、夏目漱石の全集が並んでいるのは不思議ではありませんが、しかし、外国のものでは唯一『大トルストイ全集』と『クロポトキン全集』が書棚の中央にでんと構えていたこと。

 これらのことは、わたしにとって藤村をあらためて考えるきっかけになりました。帰ってから藤村全集を図書館から借り出し、いくつか気づいたことと秋子に関わることと結びつけてみました。

 実は、八木秋子が同棲していた同志であり、裁判保釈中の身であった宮崎晃の中国への脱出逃走資金を島崎藤村が出したということがあったのです。1927年(昭和2年)暮のことでした。1929年(昭和4年)4月に発表する『夜明け前』執筆準備に入っているころです。文豪がそんな危ない橋を渡るだろうかと思っていましたが、実際、藤村はその覚悟があったのでしょう。以下、そのことについて触れた古いアナキストの、敗戦直後の文章を紹介します。

〔藤村の社会思想〕  根岸 寛
                     『夕刊信州』1949(昭24)年10月26・27日

(1)島崎藤村は社会思想に対して、どんな見解をもっていた人であろうか。これは極めて興味のある問題であるが、それにも拘らず藤村研究の人々の中でも、あまりこの事は知られていないようである。もっとも私としても大言壮語出来るほど藤村の社会思想に対して知悉している訳ではなく、ただ自分が、氏と対談した折ふし、たまたま感得したその断片をわたくし流に解釈してここに略記して見ようと思うのである。

 近ごろでは文学と政治の関係が非常に重要になっているが、藤村の麻布飯倉片町時代、即ち今から24、5年前はなんといっても文学と思想の関係が重要視されていた。もとより現在の如く合法的に政治闘争に突入出来なかったころで、思想は結局思想以上に出でず、「重要視されていた」とはいっても「一部の傾向小説を書く人間の間に」と附記した方が適当なほど大方の作家は新興接客婦の女給が、エロサービスで藝者を駆逐し全盛を極めた事実に興味と関心を寄せていたころのことであるから、思想問題などは売れない作家のヒガミから出発したものぐらいにしか考えていなかったに違いない。

 丁度そのころ、藤村が「現代文学選集」で二万円ばかり印税が入った事を知ったので、当時アナーキズム団体の一員だった私は運動資金を提供してくれるよう頼みに行った。その時藤村は「あなた方の一派は、詩人的な一面があって私は好きだ」といい「あれば出し惜しみしないが」と中央公論を出して笑いながら創作欄を開いて示した。それには子供の四人に五千円ずつ印税を分け与えた「分配」という小説が載っていた。氏が、口先で利口に、上手に口実を設けて追い帰すような手を用いるほど世俗的な人でないことを私は何度か会ってよく知っていた。だから私も「それは手遅れでしたな」と気持ちよく笑った。すると藤村は「あなた方に資金を提供してあげても絶対に出所を口外しないので安心だ」と、あれば直ぐにも出しそうにいう。「絶対に口外しない」というのは、法律(即ち帝国主義の作った法律)を認めないアナーキスト達は、万一官憲の尋問にあっても、いささかも答える義務がないと堅く信じていることを指すのである。

 またある時、久原房之助邸焼打未遂事件で友人が未決にいたので、差し入れの書籍を寄附してくれるよう頼みに行ったことがあった。なにしろ十人近い入獄者、三百ページから五百ページの本を一日に一冊ずつ読んでしまうので、差し入れ本の収集に私は大変だった。
 なんでもそれは初冬のころだったと記憶する。出版社や著者から寄贈された本数冊を出してくれた上に氏は、綿のふくふく温かそうなどてらを奥から持参して「これは私のあわせを仕立て直した物ですよ。宮崎君に着せてやって下さい」こういって私の前へ押してよこした。藤村氏と宮崎君とは面識がなかった。もちろん、新聞紙上などでも焼打事件の主犯として報道されていたし、何かの機会に私の口から宮崎晃君の人格あるいは思想について語ったことがあったと思う。それにしても私は、藤村の気持がなへんにあるものか判断に苦しみ、まじまじと顔を見つめた。すると氏は、自分の気持を解説するためか、次のように語った。

(2)私はアナーキズムの中にヒューマニズムの哲学を感じるんですよ、そんな訳で働く人々の犠牲において初めて成り立つ資本家達に宮崎君が身をもって抗争する気持は私にはよく判ります。観点を全く異にするのだから、あの人達にどう嘆願したって通じないのは当然です。しかし、そう思いながらも何故だか私は無性にさびしくなるこの感傷を、あなたは笑うでしょうか。「それは理解と情熱の問題でしょう。」年の稚い私は、藤村が社会運動に対して情熱をもっと加えるべきだといわんばかりの暴言を平気で口にした。すると氏は苦笑して「当然生まれるべくして生まれたものに対して私は、理解も情熱もやぶさかにするものではありません。ただ私は、私の性格がこの運動に(何主義を問わず)参与致し兼ねることを知っています。とはいえ、あなた方の後姿を、見失わないよう絶えず努力する考えで居ります。」としんみり語ったのを私は今に忘れない。

「後姿を見失わないよう」これは私達だけにいった言葉ではあるまい。思想が出来て社会が変革されるのか、過渡期の中から思想がわき上がってくるのか区別がつかないほど思想はデリケートなものである。その一つ一つに絶間なき凝視の眼を向け、絶えざる精進を続けていた藤村が、一アナーキズムに対してさえこのような理解を持っていたことは、左翼作家は別として、当時の文壇としてはまことにまれな存在であったといってよい。

 私は当時自分の抱懐する思想に哲学的裏付をする為、思想家はもとより、文壇関係の人々、たとえば内田魯庵氏、坪内逍遥博士、佐藤春夫氏、久保田萬太郎、さては画壇の中川紀元氏など、いわゆる名家のたれにでも批判を求めたものだった。その中でも芥川竜之介氏などは、同じ田端に住んでいた関係上、時々押しかけては例の二階の部屋で激論まで闘わした。然し藤村の場合は、余り自己の見解を述べたがらない方であったが、その日に限ってどうした事だか既述のような意見を述べたのは珍しい出来事だと思った。のみならずこの日は「自由の意義」に就いて語ったり「絶対アナルシーは社会主義運動の一題目ではなくて、すでに宗教の分野ではないかと自分は考える」などと言ったりした。―だいたい藤村から受け取った「思想への見解」はこの程度のものであるが、それでも当時の官憲がこの事実を探知したら、有力たるシンパサイザーとして氏を検挙したに違いない。私としても藤村の信頼を裏切らないよう、先生は故人となり、世の中が自由主義的に変った初めてここに発表するのである。   
                        (筆者は上伊那箕輪町)

◆根岸寛:大正末期「黒き群社」創設。月刊『黒き群』・啓蒙パンフ『黒き群』発行。東京市外滝の川下田畑に社をおく。のち、昭和2年2月、社会評論社と改めた。

◆久原房之助邸焼討未遂事件:1926年(大正15年)10月7日、日立製作所亀戸工場におけるストライキを応援したアナキストの黒色青年連盟員は、社長の久原房之助に面会を求めたが拒絶され、宮崎を中心としたものが玄関先に火を放ったため、逮捕。宮崎は翌1927年(昭和2年)1月29日保釈。5月23日1審判決懲役5年。同年9月12日2審判決懲役3年、宮崎即時上告、保釈継続。

 「アナキストは詩人の一面がある。絶対に口外しない。ヒューマニズムの哲学を感じる」という藤村の言葉はたんに挨拶程度ではなく、「絶対アナルシー」という言葉は絶対自由という概念に通じ、自由に対する藤村の思いがみてとれます。その意味で、この根岸の文章は藤村の考えを垣間見ることができると言えます。ただ、根岸は宮崎が未決で獄中にいた頃は差し入れ等で関係がありましたが、宮崎が保釈され、実践活動に入った後は、宮崎などとはまったく関係がなかった模様です。

 さて、第2審の判決を受けた宮崎は中国江湾の労働大学へ向け、日本を脱出しようとしていました。そして、1927年の暮、飯倉片町の藤村の家を訪ね、渡航滞在費の提供を依頼するのですが、これは前述の根岸のような日常生活における資金援助ではなく、今度は保釈中の人物の逃走費を出すというのですから、発覚すればただではすまなかったに違いありません。それを藤村は実行したというわけです。

 宮崎は藤村からの資金援助について1977年ごろこう書いています。

■宮崎晃
「藤村を訪ねたのは、ボク個人について言えば、2、3度くらいではなかったかと思う。最後に訪ねたときに限り招じられて書斎にあがり、カネの都合をたのんだところ、5分間位じっとうつむいて考えていたが、「よし、逃がしてあげよう」と答えた。そう言ってどこからか200円出してきて渡してくれた」。『農村青年社事件・資料集Ⅲ』農村青年社運動史刊行会編集、黒色戦線社刊行。

 宮崎に資金を都合した藤村は当時55歳。父正樹が亡くなった年齢になっていました。そして、翌年、1928年(昭和3年)は『夜明け前』の執筆準備のため木曽・馬篭などへ出かけています。藤村が明治維新とは何であったかを問う、その心情が宮崎への資金カンパをもって少し垣間見ることができるように思います。

 ちなみにその頃宮崎と同棲をしていた秋子は、東京日日新聞記者として藤村を何度か訪ね、当然、親しく話していたでしょうし、逃走資金の依頼などよほどの信頼関係がなければならず、宮崎を藤村に紹介したのは秋子であっただろうと思います。

 しかし、その10年後の1937年1月11日号外を藤村はどんな思いで読んだのでしょうか。号外は「黒色テロの大陰謀、信州を中心に武装蜂起、無政府農村青年社事件」(検事によって捏造された治安維持法事件)と、八木秋子と宮崎晃がその首謀者として大きく写真入りで報道されました。その当時藤村は、日本ペンクラブ初代会長として国際ペンクラブ大会(ブエノスアイレス)に出席し、欧米をまわって1月23日に神戸に帰国したところでした。もちろん、宮崎らは藤村のことを話すわけがありませんが、そういった信義がその当時にはあったことを記憶したいと思います。

 馬篭の藤村記念館に残された蔵書の中に『クロポトキン全集』があったことから、思いのほか長い注釈になってしまいました。秋子の父、八木定義が藤村の次兄広助と無二の親友だったとか、藤村の家を訪ねたということは秋子の口から聞いてはいたものの、情報を重ねていくとさまざまなことが立ち上がって来ました。

 島崎正樹の碑があるという馬篭の氏神「諏訪神社」の鳥居を前にした時、その奥から立ち去りがたい気配を感じ、思わず引き込まれて境内に立ち入りましたが、そこには奇妙なひらけた空間があり不思議な気配が漂っていました。帰ってから調べてみると「心騒ぐ日、王政復古の日」にあの諏訪神社に参詣する半蔵の姿が『夜明け前』に印象的に描かれているとありました。あの神社のあの場所に正樹がいたというのは全く納得がいくことでしたが、しかし、その時は全く結びつきませんでした。やはり現地に行って体験するものだと、今回つくづく感じ入りました。

 この注釈を書いてきて思うことは、秋子が「ものがたり」を作り出す人物だとは思ってきましたが、秋子の世界から藤村の世界へ、そしてもっと歴史を遡ることができる方法があるのだ、と確認しました。たとえば古武士の風貌が浮かぶ秋子の父、八木定義は1853年黒船来航の年に生まれ、王政復古は15歳です。島崎正樹は1831年生まれ。八木秋子や島崎藤村を通じて「正樹や定義」らの世界をわたしたちはかろうじてリレーされているのではないかと信じます。そこを心したいと思います。

 藤村はなくなる前年1942年(昭和17年)に『東方の門』執筆に着手しますが、1月14日の雑記帳に次ぎのようなメモを残していました。

★雑記帳『藤村全集・第14巻』より。
1、古代
景考、応神朝のこと
秦代の没落と日本への移住者
朝鮮関係

1、中世
奈良朝にさかのぼる
○鑑真の来朝
○雪舟の渡明
○道元、法念、等

明代の没落とその影響(吾国に)

○朱舜水
○鄭成功

1、近代
○白石、宣長
○柏莚

○シイボルト
○禅僧教導
○平田篤胤、本居大平

1、明治維新以後
○桃林
○国学者の没落
○天心
○隠れたる近代の探究者

 千夜千冊469夜石原道博『朱舜水』974夜近松門左衛門『近松浄瑠璃集』鄭成功です。990夜以降の水戸イデオロギーなどの連打を思い出します。おそらく、これは『東方の門』の執筆メモだと思われますが、この藤村の構想はいったい何を問うているのか? 考えてみたいと思っている、2006年の夏です。

 第18夜は、秋子の姉、八木ふじを通じて、秋子と清沢巳末衛、清沢洌、井口喜源冶、内村鑑三との繋がりをまとめたいと思います。

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