●第18夜 清沢洌と八木ふじ

「世の中には誠に不思議なことがあるものだ。私はあなたによく似た人とアメリカのタコマで会ったことがある」清沢洌(きよし)は嘆息交じりで八木秋子に語りかけた、場所は横浜。母方の従兄の見舞に行った時のことだったと言います。

 ご承知のように清沢洌は後に『暗黒日記』【千夜千冊0648夜】の著者として知られ、戦時下において軍部・右翼に節を曲げず、言論一本で抵抗したリベラリストであり、著名な外交評論家です。秋子によく似た女性とは、姉ふじのことでしょう。彼女がその地のセントジョセフス病院でなくなった事実は、秋子の戸籍に記載され、彼女の遺品もタコマから届けられています。しかし、秋子の記憶は曖昧だったので、洌とふじとの接触は確認できず、その話を聞いた時点ではよくわかりませんでした。その後、清沢洌が安曇野・穂高の研成義塾の出身であることを知り、何か関連のものが残っているかもしれないと井口喜源冶記念館を訪ね、ようやくふじのアメリカでの痕跡を見つけることができたのが、秋子がなくなった翌年、1984年の8月のことでした。

 そして今夏、22年ぶりに記念館を訪ね、山崎文麿館長のご好意で展示資料をじっくり読み直し、新しい資料を発見することができました。

 研成義塾は人格教育の先駆者として知られている井口喜源冶が安曇野・穂高に作った私塾です。内村鑑三【千夜千冊0250夜】の無教会主義に賛同し、キリスト教の精神に基づいて1898年(明治31年)に設立した当時、井口は28歳。「彼は清貧に甘んじ、独力で34年間にわたり多くの子弟(入学者700余名)の教育」につとめました。卒業生にワシントン靴店の創業者東條たかし(舟につくりは壽)、清沢洌がおり、また彫刻家の荻原碌山が若い頃から私淑していたこともよく知られています。

■第18夜は八木秋子の姉「八木ふじ」を軸にして
注釈を試みたいと思います。
少し長くなりますが、おつきあい下さい。

 ふじは秋子より8歳年上の1987年(明治20年)8月3日生まれ。1909年(明治42年)にアメリカ太平洋の北西海岸の都市、シアトルへ向かい、北穂高村出身の清沢巳末衛(1984年2月14日生まれ)とともに雑貨商店の経営に精力をそそぎます。しかし、その無理がたたったのか、二度の入院生活を送ることとなり、1922年(大正11年)、ワシントン州タコマで35歳の若さで生涯を終えます。その年は秋子の離婚が成立し、父の定義が亡くなった年でした。

 島崎広助(藤村の兄、八木秋子の父定義の親友)は回想文集『閑窓漫録』の中で、八木ふじは「木曽の女にて異彩ある者」の一人。「福島町馬場の出身で士族の娘」「米国に在りて新聞記者たり、萬緑叢中紅一点とも言ふべきか」と書いています。この文集は1919年(大正8年)6月ごろの発行なので、現在わたしが知る限り、「ふじ」最後の情報です。
 実は、ふじが結婚した相手の清沢巳末衛は清沢洌の従兄にあたります。しかも、洌を研成義塾に誘ったのは巳末衛でした。そして、洌も巳末衛に続いて1906年(明治39年)に16歳で渡米するので(もっとも洌は勉学の道を歩む意図でしたが)、新聞記者として亡くなったふじと、若くして北米西海岸のシアトルやタコマでジャーナリスト・評論家として名を馳せる清沢洌が当地で知り合っていたことはなんら不思議なことではありません。

ふじについて、もう少し詳しく触れてみます。

 ふじは1906年(明治39年)松本高等女学校を卒業。優秀な成績だったため学校長から高等師範への進学を勧められ、父もふじの進学希望をかなえるという感触を、実家で教師をしていた実姉から受けたため、いったん木曽に戻ります。しかし、母親やその周囲が女の進学に猛反対で、彼らが勝手に結婚話を進め、とうとう町の「富商」と結婚せざるを得なくなりました。その結婚にいたる過程は八木秋子著作集Ⅱ『夢の落ち葉を』のおしまいの方に書かれており、そこでは5ヶ月の結婚生活を経た後に離婚することになりますが、地元の研究者によると「ふじは結婚の翌朝、婚家を脱出、木曽川が福島町に北で浅瀬となる青木川原を徒渉して八木家に戻った」との証言を得たと書いています。いかにも秋子の姉らしい。当時秋子は11歳か12歳です。

 その後ふじは、高等師範への進学をあきらめ、木曽で代用教員を勤める2年間、内村鑑三の『聖書之研究』を取り寄せ、「内村の強烈な個性とその純粋な気魄に強く惹きつけられ熱い祈りを捧げて」いたというエピソードが『夢の落ち葉を』にありますが、13歳・14歳の秋子が直接受けた影響はいかばかりか。「あるはなく」1号に内村鑑三の訳詩をすらすらと引用したことからも、二人の強い繋がりを窺い知ることができます。

 1908年(明治41年)9月7日、ふじ(21)は在米の清沢巳末衛(24)と戸籍上で結婚し(米国における排日運動のため、労働者の自由渡航が禁止され、結婚が渡航の条件とされていた)、翌1909年にシアトルへ向かいました。1910年の年賀状が巳末衛との連名で井口喜源冶あてに出されているので、新生活が始まったと見ることができます。

 巳末衛は木曽福島の木曽山林学校出身。その同級で、後に銀座で「ワシントン靴店」を開業する東條は、自叙伝『春秋から』でその頃の様子を書いています。

『友人の清沢巳末衛君のほうは、木曽山林学校に在学中から知りあった仲の八木ふじという女性に恋されて、ついに結婚を決意した。あまり貯金もないのだが、日本からふじさんを呼び寄せてしまった。会ってみると、なかなかの美人で、また才女でもあったから、清沢君の決心も肯けた。だが、家庭を営むためには、経済力が充分ではない。夫婦とも働きで、やっと暮らしてゆくような状態で、このため清沢君多年の宿願であった身を立てるという初志も、はかなく散りうせた感が強い。』

 巳末衛は木曽山林学校在学中、東穂高禁酒会を作り、積極的にキリスト信者として活動して1906年(明治39年)卒業と同時に渡米。当時からかなりラジカルな人物だったようです。八木家との関係は、ふじの次姉ミつは在学中の巳末衛を同じキリスト教徒として知っていた可能性はあります。というのも、ミつは木曽福島の小学校教員として勤務し、1903年10月には井口喜源治を木曽に招いて木曽福島教友会を設立しているからです。しかし、同じ年に松本高女を卒業したふじが、東条がいうように、木曽において巳末衛をすでに知っていたかは疑問です。

 ところで、渡航後の巳末衛とふじ、および洌の動静は、シアトルで出された穂高倶楽部(穂高村・研成義塾出身者が中心)発行の『新故郷』第1号(1913年大正2年3月発行)「個人消息」の欄にこう記述されています。

・清沢巳末衛:昨年初春当市第一街2311番地を買い受け、ベルグロセリー雑貨店を開業せらる。活動を愛する君は昨秋更に同様の一商店シーダーグロセリーをシーダー街に開業せられ東條君を以て支配人とせられ勝運着々として隆盛に向ひつつ有るは慶賀の至りなり益々発展を望んで止まず。
・清沢夫人:巳末衛君御令室なり。名をふじ子と称し木曽八木家より嫁せらる。渡米後既に四星霜、賢明にして快活誠に女丈夫の名に恥じざるものあり。殊にクリスチャンの家に産まれ、夙に其の感化に浴せる丈け有りて淑徳の誉れ高し。内助の功亦空しからず、夫君を助けて終日店頭に立ち白人を対手に流暢なる英語を操りつつ商売のことに従はる同家将来の発展期して待つ可き也。
・清沢洌:当沿岸に於ける同胞中著名の文士なり。『信濃太郎』とは其の雅号なり。当地発行の北米時事タコマ支社主任として在勤2ヶ年君が振へるペンは蓋し当沿岸出色の大文字たりき。年尚春秋に富める少壮の君は万人をして其の有望なる未来に渇仰嘱目措く能はざらしめたり。誠に君の如きは天才の人と謂ふべきか其益々研鑽琢磨怠りなからむを望む。1月9日タコマ観光団と共に帰国せらる。

 その後の巳末衛とふじですが、1913年5月、本店の「ベル」商店が不幸にも火災となるものの、巳末衛は「蹉跌に遇うて頓挫せず勇奮邁進」して「ベル」を再興。事業をいっそう拡張し、「同胞雑貨店中有数の地歩を占め同組合の幹事」となっていると、1914年8月発行の『新故郷』に報じられています。しかしその一方、前年からの無理がたたったのか、ふじは5月、日本病院に入院し、巳末衛も暮れに過労のため入院しています。

 ふじと巳末衛の間に何があったのか。
 翌々年1916年(大正5年)3月5日付けで離婚届が北穂高村の役場に届きます(書類が日本に届くには1ヶ月半ほどかかるので、実際の届け出は1月頃だと推定)。そして、離婚の通知から間をおかず、3月10日シアトルで巳末衛は逝去。享年32歳。

 巳末衛の遺稿(1915年1月)は、すでに離婚を暗示する内容となっているので、おそらく二人の間に問題が生じたのは1914年の夏から冬にかけてのことだと思われます。その理由はわかりません。信仰上のこと、商売経営の方針をめぐってのこと、あるいは「男顔負けの働き」をしていた激務にふじの身体が耐えられなくなっていたのか。

 巳末衛の訃報と遺稿が掲載された『新故郷』第5号は、2年7ヶ月ぶりに1917年(大正6年)3月に発行され、50有余名の来会者がいた巳末衛の追悼会が報じられ、弟が店を引き継いでいる様子はうかがえますが、ふじの動静はまったく伝えられておりません。すでにシアトルを離れてタコマに行っていただろうと思われます。

 あるいは、離婚後ふじが新聞記者をしていたと島崎広助が書いていることから、ジャーナリストの道を歩み始めていたとも考えられます。洌は「北米時事」のタコマ支社主任でしたが、ふじが離婚するちょうどその頃、1914年(大正3年)10月にはサンフランシスコの「新世界」に転じているので、ふじの活動になんらかの便宜を図ったかもしれません。洌がタコマでふじに会ったというのですから接点はおそらくそのころと考えられます。これは「北米時事」など、当地の新聞からふじの形跡を探るしかないようです。

 そのふじも巳末衛の死の6年の後、1922年(大正11年)6月14日、タコマにて35歳の人生に幕を閉じます。死亡当時は「多根」ふじ。
 秋子は1918年(大正7年)に結婚、出産、子育ての3年間を経て、絶望的な結婚生活から逃れようと二度目の家出を敢行したのは1921年(大正10年)8月。ようやく離婚が成立した1922年(大正11年)、いったん上京して子供社へ勤めるものの父定義の胃癌看病のため4月帰郷し、7月15日に父をなくした半月後、8月にふじの訃報が届く。あれほどあこがれていた姉の、異郷の地での突然の死を、どんな思いで秋子は木曽で受け止めていたのでしょうか。

 ふじが渡米する際、木曽福島の城山へ登り、バイオリンで賛美歌を奏で、姉妹で歌って別れたと書いています。次姉ミつが若くして夫を亡くしたことへの悔やみ文でその際のことを描写しております。

★友を想う  清沢ふじ 『新故郷』(大正3年新年号)
 汽笛の声、我郷の静寂を破り、観楓の客足、我ふるさとの地を汚すに至りしといへども、しかも尚、をさななじみの山と川、忘れがたなきは彼の風情かな。
 寂しさはいつともわかぬ山里に
 尾花みだれて秋かぜぞ吹く
 とぞ、歌ひ給ひしそがふじにもまさりて、するどく静かに、囁き来る木曽の晩秋に、さてもさても、いかにしてかは友のまします。流れに紅葉の滴りて、夕日の淡く沈み行く時、名もなき花々道もせに咲きて、尾花をわたりて過ぐる秋風の香に、ああ!、君が心の痛みいかにして慰まん。
<中略>
 怨みと恋着の里、古き蘇郷の花に矛盾の袖を払ふて、永別の意を定め、アメリカの空に出で立たんとするの日、いとしき妹子二人われと共に、二つのバイオリン持ち手山に上り、別れの歌に三たりの声ふるへて、遂に泣きて地に伏し、三つの霊の別れて各々全からん事を祈り、行末共に語り合ひ、生別の悲しみひたすらに慰めつ、すみれ花咲く岩間のほとりに、そが一つを取りて、かたみの心われに与へぬ。
 以下、略

 さて、第18夜は八木秋子に影響を与えた人物として「八木ふじ」の生涯をたどってみました。離婚、渡米という行動が秋子に影響を与えたことは違いありません。しかし、ふじが触発されたと思われる井口喜源冶、内村鑑三に関して、ここで触れるにはなかなか難しそうです。たしかに、彼らの世界は惹きつけられるものがあり、数日、関係資料の森を彷徨いましたが、それらをまとめるには、時機を待つ必要がありそうです。ですから、ここでは、ざっくりと書くことにしました。

 1895年『代表的日本人』を書いた内村鑑三は、1901年9月、設立して3年目の井口喜源冶の研成義塾で講演し、後に『万朝報』で「入信日記」として7回連載します。無教会主義の実践として「余は小にして大なるこの義塾を信州の地において発見して心ひそかに信州万歳を絶叫せざるを得なかった。ああ、広き天下にこの小義塾に同情を寄するものは他にはあるまいか」と高く評価し、その後、3度も穂高を訪ねることになります。2年後の1903年、鑑三(42)は非戦論を唱え、幸徳秋水(32)や堺利彦(31)らと万朝社を退社。そして、1900年から始めた『聖書之研究』と共に研成義塾があったと見れば、彼にとって、研成義塾は実践の場として特別な意味を持っていたと思われます。
 
 その研成義塾は安曇野のちっぽけな義塾でしたが、「エライ人になるな、汝よき人になれ」と井口喜源冶は語り続けたと言います。1906年~1907年にピークを迎え、清沢巳末衛を始めとして北米に旅立った40~50名の若者たちにとり、教育者喜源治はたいへんな影響を与えました。彼らは「ピューリタン精神を移して精神的廃頽の彼の地の同胞の間に神の国を建てるという大望」があったと言ってますが、それは現実の前には厳しいものがあったに違いありません。しかしその勤勉と日々の倫理をモットーとする思想は、1905年(明治38年)に発表されたマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と符合するようにも思えます。岩波書店の創業者岩波茂雄が古本屋から出版業として独立しようとしたとき、井口の盟友である新宿中村屋の主人相馬愛蔵がさまざまなアドバイスを与えたというエピソードもありますが、キリスト教の倫理的側面がそこにも影響があったと言えます。巳末衛にも東条にもその考えは浸透しております。成長期にあった資本主義の精神を垣間見る思いがあると同時に、翻って100年後の現在の日本やアメリカの経済思想を考えざるを得ません。

 井口喜源冶からは盟友・中村屋の相馬愛蔵、黒光夫妻の周囲からひとつの世界が見えてきます。上京して名士訪問(先生:明治女学校の巌本善冶を何度も訪問)に同行した彫刻家の碌山。碌山と黒光。そして碌山の死を契機とした戸張孤雁の変貌、中村彝と黒光の娘俊子との関係、ロシアの盲目の詩人エロシェンコ、インドのラス・ビハリ・ボース、高村光太郎等々、新しい時代を生み出す熱気とそれに伴う何ともいえぬ「やるせなさ」が漂う世界が見えてきます。

 また、清沢洌『暗黒日記』を今年の夏に読み直したことも得がたいことでした。橋川文三は「この日記はただ戦争期におけるリベラリストの辛辣・精細な見聞記録というにとどまらず、人間の自己教育という一般的な視点から見て教えられるところの多い稀有の記録」であるといい、続けて、洌は「第1に正規の学校教育を通過しない独学者であったこと、第二に事業や学校づとめによらず、独立・自由な文筆家としてその生涯をつらぬいたこと、第三には、彼がその通算14年間にわたる外国生活を背景として、通常の日本人よりもはるかにゆたかな国際感覚を身につけていた」と評価しています。また、『暗黒日記』には、現在だからこそ引用したい、ピリッとした文章がいくつもありました。

 その清沢洌も「無名の大教育家-井口先生の生涯:わが少年時の記憶」と題し、「昭和4年3月にこの私塾が三十年の創立記念を行ったときに、当時のキリスト教会の大立者内村鑑三氏は、同氏としては類例のないほど礼讃の言葉をこの田舎教師に贈った。<江州小川村の中江藤樹先生は一人の世界的大教師であった。井口君と研成義塾とは、明治・大正の日本において教育上の一つの貴き、意味のある実験を試みました>と」書き、「私は井口先生によって、世の中には金や地位や名誉より、もっと大切なものがあることを知りました。それは信念です。私は過去に於て、また現在に於て、自身が考えて正しいと思うことを曲げたことのない一事は先生に申しあげることができます」と井口喜源冶への変わらぬ思いを綴っています『雄弁』1939年(昭和14年7月号)。「曲げないという信念」この言葉を心したいと思います。

 清沢は敗戦を目前に控えた1945年(昭和45年)5月21日、肺炎のため急逝。享年55歳。その死は多くのこころある人たちに惜しまれました。

 今回、井口喜源冶記念館で新しく知ったことですが、4年前、シアトルの米国牧師が記念館を訪れ、「穂高で培われた研成義塾の精神は米国でも確実に受け継がれ、一粒の麦が大きく実を結んでおり、多くの2世、3世が立派に活躍している」ことを伝え、地元・穂高の人々と交流したということです。
 なかでも、ゴードン平林らに脈々と流れる精神は、井口喜源冶が伝えようとしたことだろうと思いました。彼は、第2次世界大戦勃発時、米国政府による日系米国人の強制収容が違憲であるとして抵抗し逮捕されましたが、1983年に再審請求をして争い、1987年に連邦高裁で完全無罪となりました。ゴードン平林の父、平林俊吾は清沢巳末衛とたいへん親しい仲間で、穂高倶楽部をともに担っていました。ここでも歴史のリレーがなされているのだと言えるでしょう。

 第18夜の時代は、日露戦争・第1次ロシア革命から第1次世界大戦まで、木村熊二の小諸義塾を出た藤村が『破戒』『新生』を書いた頃にあたります。「八木ふじ」が渡米して亡くなるまでは、八木秋子にとって「幼年期から青春へ、そして結婚生活から一人再出発する」時期でもありますが、時代は熱く、せつなく燃えておりました。しかし、どうもあまりにも舞台が広がり過ぎたようです。ただし、とても大事な「物語」を覗いたように思います。そのような思いを残しながら、ここはひとまず幕を閉じ、第19夜は八木秋子の「あるはなく」に戻りたいと思います。

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