八木秋子は1895年9月6日生まれです。2006年の9月を「EDIT64・注釈・八木秋子」を書き継ぐことで迎えられるとは予想もしなかったことでした。今後どんな展開になるかわかりませんが、29年前に発行した八木秋子個人通信「あるはなく」の注釈を続行したいと思います。
第13夜は、「あるはなく」の第1号「発行にあたって」を載せ、以降、題名「あるはなく」等の注釈を2夜にわたって展開しました。続いて、「私の生きざま 常に私の戻るところ、負のバネ」を掲載し、秋子が幼いころから結婚するまで影響を受けた家族環境、父定義や姉ふじに関連する島崎こま子、島崎藤村【千夜千冊0196】、清沢洌【千夜千冊0648】を注釈として加えてみました。
その時期は秋子が結婚する1918年(大正7年)まで、日露戦争が終わる1906年(明治39年)からのおよそ12年間ということになります。明治時代が日韓併合・大逆事件とともに終わり、第一次世界大戦勃発、大正デモクラシー、ロシア革命、米騒動と続き、労働組合運動や小作人争議が活発になる、9月ですからあえて書きますが、関東大震災の16日後に虐殺される大杉栄【千夜千冊0736】らが活躍する時代となってきました。続いて、第19夜は結婚から離婚にいたる1918年(大正7年)~1922年(大正11年)の、特に子どもを置いて家出する時期、頻繁に通った小川未明【千夜千冊0073】との交流についてまとめます。
八木秋子と未明との出会いは偶然でした。父定義が東京牛込の親戚(甥)の葬儀に参列した際、当時牛込天神町に住んでいた未明(近所だった)と知り合ったということでした。「おい、今日はとても面白い男にあったぞ」という定義の紹介で、秋子は満1歳の子どもを背負い、現在の飯田橋駅近くの家から神楽坂を登り、牛込天神町まで歩いて未明の家を訪ねました。未明からアルツィバーシェフの『サーニン』など、ナロードニキの影響を受けたロシア文学を奨められました(「あるはなく」第1号)。1920年(大正9年)のことです。
未明は6年前(1914年)に長男を疫痢で失い、2年前には12歳の長女を結核でなくして失意のどん底にいた時期でした。しかし一方、1918年には『赤い鳥』が創刊され、童話雑誌が盛んに発行されてきました。未明も1919年(大正8年)から1921年(大正10年)にかけて「牛女・金の輪・野ばら・赤いろうそくと人魚」など、後に代表的な作品といわれるものを連打しています。友人、野口雨情【千夜千冊0700】の「十五夜お月さん」も刊行されます。その制作時期の未明に秋子が接触していたということは特筆しておきたいと思います。
未明を訪ねるようになってから、およそ1年後の1921年(大正10年)に秋子は家出をします。しかし、子どもを置いて出てからも困難な状況は続きますが、ようやく離婚が成立した1922年(大正11年)2月、上京して未明の世話で「子供社」につとめ、有島武郎【千夜千冊0650】の担当となって「ぼくの帽子の話」という童話原稿を受け取ります。また、『種蒔く人』2月号に「婦人の解放」を執筆したのも未明の紹介だったに違いありません。ところがその直後、父の癌が発見され、その看病のため帰郷。そして、父母の死を見送った2年後の1924年(大正13年)再上京、偶然のきっかけ(第15夜に紹介)で東京日日新聞の記者となってからも、未明の談話を取材している秋子が紙面(大正14~15年)に見えてきます。子どもを背負った一介の家庭の主婦が訪ねてきてから6年後に新聞記者としての八木秋子の姿があるのです。なんとも波瀾万丈と言わざるを得ません。
秋子が初めて小川未明を訪ねてから60年近く過ぎた、1978年4月22日の日記に「小川未明氏の忌が5月11日だ。岡上氏に手紙をと思ったらお手紙、出版記念会を祝って下さって、記念会には欠席とのことだった」(「あるはなく」休刊号 1982/7/20)と書いています。その岡上氏とは、未明の次女、岡上鈴江さんのことです。出版記念会とは八木秋子著作集第Ⅰ巻『近代の<負>を背負う女』を祝う会でしたが、そのように小川未明家との繋がりは60年近く続いていたようです。ですから岡上さんの著書『父小川未明』にも八木秋子が出てくるエピソードがあります。秋子にとって未明の存在は決定的だったと思われます。
では、未明の魅力とは何か、あらためて考えてみようと思います。
「幾年もたった後」という1922年(大正11年)の作品があります。父親が子どもの手を引きながら道を歩いている時、ふと自分にも「木の葉も、草も、小石も、鶏も、子犬もみんな友だちであった時分があったのだ、しかしそんな昔のことをすっかり忘れてしまった、もう一度なんでも美しく見える子どもの時分になりたいものだ」と思います。そのとき、太陽が「子どもにしてやる。子どもであることをうれしいとは、子どもは思っていない。子どもはまじめなんだ。子どもを大事にしなければならない」と語りかけます。そして、子どもを大事にして30年も40年もたったある日、かつてのように道を、今度は孫に手を引かれながら歩いている時、何もかも目に映ったものがうつくしく、広く見られたその時、太陽があの時の子どもと同じになったおじいさんに「いま、どんなに考えている?」と問いかけますが、おじいさんはあの時の子どものようにわからなかった、という話です。
子どものような心を持つには、子供を大事にする日頃の姿勢と長く時間を持つことが必要だと言っているように思えます。そして、「さら」になること、みずからの「おさな心」へ心を向けることだと思います。「触知」という感覚も大事だとわたしは知りました。
また、わたしの好きな水上勉【千夜千冊0674】が、『小川未明童話全集』第1巻の月報巻頭で、中学生のころ読んだ作品「牛女」に、自身の子どものころの記憶を重ね、感銘深い文章を書いていました。
★水上勉:
☆小川未明という作家のおかげで、ぼくは、それまで、夜になると、椎の森で啼いていたむささびも、孟宗藪の向こうで啼いていた狐も、みな村の人のいうような獰猛なけものではなくて、人の生まれかわりだという気がしたのものだ。遠慮深げに、黄昏に飛ぶあのこうもりさえ人が生まれ変わって、その子孫の生き方を見守っていると教えられた。この思いを、いまふかく感謝している。文芸は、その人のこころである。小川未明がこんなすばらしい作品を日本の子供にのこした心の根には、彼が育った日本海辺の、越後高田の雪ふかい山かげの地をぬきにしては考えられないだろうが、牛女のような女を創造して、母子の愛情をこんなにまで透明にうたいあげて、しかも芸術としたその心は、未明のながい暦の根雪とかかわると信じている。ぼくは未明が大好きで、今日まで生きてきた。「牛女」という作品が、ぼくをやっぱり文芸へ導いてくれた作品の中では屈指ではないかと思っている。ありがたいことだった。すぐれた先輩の業績から、いろいろなことを学んできたが、未明は、今日も身近にいて、光彩を少しもにぶらせず放ってくれている。
この一文も八木秋子の注釈を通じなければ出会わなかった文章です。わたし自身の子どものころの記憶もたくさん重なり、小川未明の童話や水上勉の小説がなぜこれまで好きだったかという謎が、解けたような気がしています。未明の童話を読んでいると、何か忘れものをしたような気分になり、立ち止まっている感覚が残るのです。
未明は次のように書いています。
★小川未明
☆私は、子供の時分を顧みて、その時分に感じたことが一番正しかったやうに思ふのです。そしてその時分の正しい感じをいつまでも持ってゐる人は、人間として最も懐かしまれる、善い人であらうと思はれるのです。(何うして子供の時分に感じたことは正しきか)
また、こんな強い決意の発言も目にとまりました。
☆慈愛に満ちた教育家が、自らの人格をもって児童に臨み、子供達の良心の覚醒を促すように、少年のための文学は、その作品を以って、子供達の心を自由に解放し、友愛、正義、人生の何たるかを深く知らしめ、感じさせなければならない。
☆自由と信念と理想を持つ芸術家(作家、詩人)は、権力に反抗し、衆俗と戦って、彼らをより人間たらしむべく、良心的たらしむべく、人類愛と正義のために、感激を以って作品を世に贈るのが目的だ。
このような文章を追いかけていましたら、とうとう未明の真髄に触れると思われるものに出会いました。
未明にとってクロポトキン【千夜千冊0941】の『相互扶助論』とノヴァーリス【千夜千冊0132】の『青い花』が座右の書であったという解説(小川未明童話集第16巻:関英雄)です。ノヴァーリスは「すべての文学には童話的なところがなくてはならない。童話は文学の尺度だ」と語った人物です。
これはぜひその冒頭を引用したいと思います。
★未明童話の時代 関英雄:
・クロポトキンとノヴァーリス
小川未明がその文学的青春時代から、晩年まで座右の書としていたのは、クロポトキンの『相互扶助論』(1902年)と、ノヴァーリスの『青い花』(1800年-未完)だった。前者はアナーキズムの自由連合思想の代表的教典であり、後者は19世紀ドイツ=ロマン派の“聖書”といわれる夢幻的な長編散文詩的小説である。未明が幼少時の「論語」の素読に始まる漢文・漢詩の教養を根としながら、明治30年代の早大英文科の学生時代に、イギリス=ロマン派の詩人や、ロシア文学に現れたナロードニキの思想に影響を受けたことは知られているし、ハウプトマンの神秘的戯曲やメーテルリンク【千夜千冊0068】のシンボリズムに感銘したことは、戦前時代の未明が筆者に語ったことでもある。しかし漢学の下地を別にすれば、頭記の二書は未明の創作的生涯に最大の思想的根拠を与えたことは、ほとんど疑う余地がない。世界観としてのアナーキズムと文学観としてのロマンチシズムは、夢みる人、激情の人、孤独の人未明の強い個性の中に溶解されて、一方で社会と人間の悪を告発する激しい現実否定と、他方で、赤い夕焼けの雲の彼方に、現世では到達不可能な、人間性の善美の調和する架空の楽園を夢想する独特の文学(その適切な表現形式としての童話文学)を生み出した。
この取り合わせには驚きました。しかし、とても納得するところでもあります。「夢みる、激情、孤独」。それこそ、わたしが知る八木秋子そのものです。よい言葉に出会いました。「少年時代の多感多涙の正義感こそ、人々の生活をより善くする原動力」だという言葉も未明に関する解説で読みましたが、まったくその通りだと思います。ここに小川未明のロマンチズムと激しさがあると思います。
八木秋子に生涯を通じて影響を与えた小川未明を辿ってきましたが、彼の年譜(『父小川未明』新評論)を下敷きにして、ここ数夜の人物に関連する出来事を加えてみたくてたまらなくなりました。年譜の注釈です。秋子をそうさせた「時代の雰囲気」がその場に立ち上がってくるのではないかと考えております。
★小川未明年譜
1882(明治15年)
新潟県中頸城郡高田町士族屋敷に生れる。本名健作。未明出産当時、母方の祖母が健在で、幼時この祖母よりお伽噺をきかされたりした。明治維新で禄をはなれ、生活は楽ではなかった模様。父澄晴は漢学の造詣が深く、影響を受けた。
1892(明治25年)10歳
この頃より、父澄晴は崇拝する上杉謙信を祭神とした神社を、謙信の古城址、春日山の中腹に創設することを念願。明治26年6月、神社創設出願書を提出し、同27年2月認可された。神社創設のための寄付金募集に奔走する父に代わって建設の進行具合、建物の雪下ろし人夫などを連れて何十回となく五智街道を往来したため、越後の自然、風物が深く頭にしみこんだ。
1894(明治27年)12歳
☆日清戦争勃発
1895(明治28年)13歳
☆八木秋子、伊藤野枝、近藤憲二生まれる。
1897(明治30年)15歳
この頃一家は春日山に移る。高田中学の学友に相馬御風。
☆島崎藤村(25)『若菜集』刊行。1898(明治31年)16歳
☆井口喜源治(28)信州穂高に研成義塾創立。
1900(明治33年)18歳
☆社会主義協会発足。治安警察法公布。内村鑑三(39)『聖書之研究』創刊
1901(明治34年)19歳
上京。早稲田大学予備校に入学。専門部英文哲学科より転じて大学部英文科に修学。その間恩師坪内逍遥の指導を受ける。また、ラフカディオ・ハーンの英文学史の講義に感銘する。また、この頃よりロシア文学を愛読、ナロードニキの思想を好む。在学中西村酔夢、高須梅渓、吉江狐雁、相馬御風、片上天弦らと親交。先輩、友人に恵まれる。
☆内村鑑三、研成義塾にて講演(9月22日~24日)。足尾鉱毒事件の田中正造、直訴。
1903(明治36年)21歳
☆万朝報社を日露開戦論を批判して退社、内村鑑三、幸徳秋水(32)、堺利彦(33)。内村鑑三、研成義塾で講演。平民社結成(幸徳・堺)
1904(明治37年)22歳
☆日露戦争開始。ラフカディオ・ハーン『神国日本』
1905(明治38年)23歳
早稲田文学英文科卒業。卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」。
☆日露戦争終結。ポチョムキンの反乱。第1次ロシア革命。
1906(明治39年)24歳
越後長岡市山田藤次郎長女キチと結婚。
早稲田文学社に入り、島村抱月の指導のもとに「少年文庫」を竹久夢二と編集。このころ戸張狐雁の紹介で東洋経済新報社に片山潜を訪れる。
☆清沢巳末衛(22)、少し遅れて洌(16)渡米。藤村『破戒』出版。大杉栄(21)初逮捕、日本エスペラント協会設立。
1907(明治40年)25歳
☆6月野口雨情が寄寓するが、翌月北海道へ向かい、啄木と出会う。
1908(明治41年)26歳
新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくる。12月、長男哲文出生。
☆メーテルリンク『青い鳥』。大杉栄、荒畑寒村ら検挙、赤旗事件。夏目漱石『三四郎』
1909(明治42年)27歳
☆八木ふじ(22)渡米。伊藤博文暗殺。石川啄木ら雑誌「スバル」創刊。
1910(明治43年)28歳
この年生活貧困をきわめ、大切にしていたラフカディオ・ハーンやメーテルリンクなどの本を売りはらい、二児も栄養不良になる。12月、日本最初の創作童話集といわれる第一童話集「赤い船」を出す。
☆荻原碌山(32)死去。大逆事件、幸徳秋水、管野すが、古河力作ら逮捕され、翌年1月12名絞首刑。日韓併合。
1911(明治44年)29歳
☆青踏社結成、平塚雷鳥、野上弥生子、神近市子ら。有島武郎『或る女』。辛亥革命。特高、警視庁官房に設置。
1912(明治45年・大正元年)30歳
1月「早稲田文学」に相馬御風の「小川未明論」が出る。10月大杉栄、荒畑寒村「近代思想」創刊
1913(大正2年)31歳
5月、次女鈴江出生。「近代思想」誌上で大杉栄、未明の作品を論ずる。未明は大杉栄の影響をうけ、クロポトキンのものを読んで感銘をうけ、人道主義にうたれる。
☆島崎藤村(41)フランスへ出発。各国で婦人参政権運動。
1914(大正3年)32歳
12月23日、長男哲文6歳にて死去。
☆第1次世界大戦勃発。フェミニズム平和運動に動1915(大正4年)33歳
☆中国に21ヵ条要求、中国の排日運動激化。日本に大戦景気。
1916(大正5年)34歳
☆大正デモクラシー、民本主義運動本格化。女性や子どもの人権が問われる。欧文印刷工組合信友会結成。
1917(大正6年)35歳
☆ロシア2月革命、10月革命。
1918(大正7年)36歳
このころ牛込天神町に居住。春、長女晴代、開放性結核に感染、看護の甲斐なく11月4日12歳で死去。貧困時代を共に過ごした二児を失って、悲しみ骨に徹し、はなはだしく鞭打たれる。7月、鈴木三重吉「赤い鳥」を創刊し、童話雑誌の創刊もあいつぎ、未明も童話の作品がようやく多くなる。また、この年、未明を中心にしていた文学青年の集い「青鳥会」が分裂、解散したが、その分裂した一つが雑誌「黒煙」を創刊。雑誌名は未明が命名。「黒煙」が大正9年2月廃刊になったが、その後に起ったプロレタリア文学の先駆をなした。
☆八木秋子結婚。島崎藤村「新生」発表。米騒動。シベリア出兵(~22)。大戦終結、ドイツ、オーストリア、ハンガリー革命。11月島村抱月死去。三ヶ月後の翌年1月、松井須磨子自殺。
1919(大正8年)37歳
著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し「牛女」「金の輪」などを書く。
☆コミンテルン結成。3・1運動(ソウルで独立宣言)、5・4運動(中国で排日デモ)。ガンジーの反英運動。望月桂(32)黒耀会結成。
1920(大正9年)38歳
1月、一家親子4人流感(スペイン風邪)にかかり、重体におちいる。その不幸を見舞われ、文壇諸家より「十六人集」(新潮社版)がおくられ、病後伊豆山で静養。12月、堺利彦、山川均らの提唱するすべての社会主義者を包容する一大思想団体の日本社会主義同盟の発起に参加。
☆黒耀会、初のプロレタリア美術展開催。静養後、八木秋子は未明を知り、家出する翌年の5月まで頻繁に通ったと思われる。新青年ブーム、菊池寛ブーム。森戸事件、サンジカリズム高揚。
1921(大正10年)39歳
2月、三男英二出生。未明童話の代表作の一つといわれる「赤い蝋燭と人魚」を「東京朝日新聞」(2月16日~20日)に書く。4月、暁民会講演会にエロシェンコと出席。6月「港についた黒んぼ」を「童話」に発表。未明、11月「火を点ず」を「種蒔く人」に発表。
☆各国に共産党結成。クロンシュッタット水兵蜂起。4月21日、伊藤野枝、山川菊枝、堺真柄ら、赤瀾会を結成。5月2日八木秋子第1回の家出。8月11日に第2回の家出。「種蒔く人」(プロレタリア文学の先駆)創刊。野口雨情の「十五夜お月さん」刊行。アナ・ボル論争。
1922(大正11年) 40歳
☆2月、八木秋子上京し、未明の紹介で「子供社」に入社。有島武郎の担当となり原稿「ぼくの帽子の話」を受け取る。しかし父定義に胃がんが発見され看病のため帰郷。八木秋子2月に「婦人の解放」を「種蒔く人」に発表。処女作。6月、姉ふじ死去。7月父定義死去。秋子そのまま郷里で教師に(2年後上京)。
1923(大正12年) 41歳
6月、有島武郎、片上伸、嶋中雄三ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読された。9月1日、小石川雑司が谷の家で関東大震災に遭う。
☆6月9日、有島武郎、波多野秋子と心中。
9月1日朝鮮人暴動の流言広がり、朝鮮人・中国人ら数千人殺される。南葛労働会の河合義虎・純労働者組合の平沢計七ら、および中国人社会運動家王希天も軍隊に殺される。16日、大杉栄(38)、伊藤野枝(28)、橘宗一少年(6・大杉の妹あやめの一子)、憲兵大尉甘粕正彦らに拉致され、扼殺される。
秋子は置いてきた息子が被災していないか心配で上京。小川未明の家も見舞いに訪ね、心配している春日山の父母に無事であるとの伝言を依頼され、届ける。
やはり、秋子が未明を訪ねた頃に、時代の何かが動いているように思われます。
これまで見てきたように、八木秋子がそれまで受けてきた影響として、木曽福島で島崎広助らと活動した父定義や、清沢洌らとともにアメリカに行く姉ふじの影響が秋子にあったことは確かですが、しかし、不本意な結婚、そして子どもの誕生で「家」により縛られるという、絶望的な生活を送っていた秋子にとって、未明からナロードニキ・ロシア文学や伊藤野枝らの赤瀾会などを紹介されたことがその後の、いや秋子の一生を決定づけたことは間違いないと思います。キリスト教を信奉していた秋子が後に、アナーキストの道を突き進む源泉はここにあったのです。
しかも、未明の年譜から知ることができるように、それを紹介した未明自身がその時代、貧困に耐え、現実社会を激しく問い、告発し続けていたからにほかなりません。生半可な構えで秋子を啓蒙していたとは思えません。
未明は、日本社会主義同盟からはすぐ脱退し、1926年(大正15年)に童話に専念するとの宣言をしますが、マルクス主義系と対立すると、アナーキズムの側に立ち、「日本無産派芸術連盟」や児童文学運動組織「自由芸術家連盟」設立に積極的に参加します。また「児童のために強権主義と戦へ」などの原稿をアナ系の雑誌「黒色戦線」に寄せています。最後の小説原稿を1931年8月の第二次「黒色戦線」に載せたとき、未明は49歳でした。小川未明の気概はまったくブレていません。ちなみに秋子はその年の2月に設立したアナ系「農村青年社」運動の実践活動の真っ直中におり、8月は信州各地の農村を駆けめぐり、彼女唯一の詩「薪の火を焚く」(1931・9・17)を書いた時期にあたります。それは、未明と出会ってから11年目のことでした。
未明のアナーキズム・クロポトキンへのこだわりは頑固一徹といってもよいと思います。たいていボルシェビキになびいていった文化・知識人が多い中で、唯一と言っても良いでしょう。ボルシェビキに強権の臭いを嗅ぎつけたのは決してイデオロギーからではないと思います。それは、あくまで「子ども」へのまなざしを根底に持ち続けたからに相違ないとわたしは思います。
大杉栄は、1913年(大正2年)初めて会ったばかりの未明を「近代思想」9月号でこう書いています。
☆僕は未明と云ふ人には始めて会ったのだが、その頗る真面目なしかし激越な、心の底から湧いて出るやうな感情の声を聞いて、ちょっと寒村を思い出した。
さすが、大杉栄です。
第19夜は小川未明の注釈で終わりました。さて、次の第20夜は、八木秋子と「大震災に関する未明と大杉栄」そして、できれば有島武郎にも触れる予定です。