八木秋子の幼年期から青春へ、そして結婚生活から一人再出発する時期にかけ、彼女に大きな影響を与えた人物の注釈を、ここ数夜にわたって試みてきましたが、思っていた以上に長くなってしまいました。
振り返ってみますと、たしかに父八木定義と次姉八木ふじの存在は大きかったと思います。しかしそれ以上に、その周囲の人たちが気になりました。そのため、父定義の親友「島崎広助」や姉ふじの夫「清沢巳未衛」を手繰りよせ、その周辺にいた「島崎藤村、こま子、清沢洌」と八木秋子の不思議な出会いと縁を数夜にわたりまとめました。
そして、人生において一番影響を与えられたと思える「小川未明」の注釈にも足を踏み入れ始めましたら、わたしの予想をはるかに超える、激しい、根底的な志操を持つ小川未明の容貌が顕れてきました。八木秋子が子供を置いて家出をするにいたるには、「大正の風」を背にいっぱい受けた時代の背景というものがあると言わざるを得ません。また、あらためて「大杉栄の大正」にも関心が湧いています。もちろん9月ですから、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一少年の虐殺にも触れました。
さて、このような時代の背景の発掘に捉われていては、いつまでたっても八木秋子は「家出」ができない、そんな冗談も言われそうです。ですから、第21夜は「家出前夜」とし、まずは八木秋子通信「あるはなく」創刊号の聞き書きに戻ります。
八木秋子のアパートを初めて訪ねた時以来、「子供を置いて家出」をしたことが大きな影となってわたしとの対話を覆っていました。ですから、彼女の個人通信「あるはなく」はそこに触れることから出発しました。「常に私の戻るところ、負のバネ」だと、わたしは思っていたからです。
●私の生きざま 常に私の戻るところ、負のバネ
八木秋子個人通信「あるはなく」第1号(1977年7月17日発行)
★小川未明を知ったことは大きなこと
夫となった人は、恥ずかしい話ですが、常識では考えられないところがありました。書斉をみせるからといって見たら、無試験で入学・卒業した陶器学校の中学教科書だけだったり、結婚してから親類に挨拶状を書く時、何の文句も知らないし、あまりにも驚きだった。
カチューシャで一世を鳴らした松井須磨子が愛人島村抱月のあとをおうて自殺した日、彼女の死が新聞の号外として全東京に知れた夜、一日の勤めを終えて帰ってきた夫とこんな問答をしました。
「あなた、きょうの号外を見ましたか?」
「何の号外だ」
「松井須磨子が自殺したんです」
「松井須磨子って何者だ」
「新劇の女優、あの有名な女優をあなたは知らないんですか。愛人島村抱月氏のあとを追うて自殺したのに。知らないのね、須磨子を。わたしはあの人の『人形の家』が見たかった。あれほどあなたに有楽座の芝居を見に連れて行ってほしいとせがんだのにあなたは鼻の先であしらって承知してくれなかった、イプセンの人形の家をわたしがどれだけみたかったか、わたしのみたかったのはカチューシャだけではない、生ける屍だけでもない、本当は人形の家のノラだったんです。須磨子は人形の家を出て行って、もう永久に帰らない。帰って来ない。わたしがどんなに悲しんだって、あの人は、もう・・・」
私は悲しみがこみあげてきて、泣いた。
「阿呆、おんしはなんという阿呆だ、それでも子供の母親か、一家の妻か、馬鹿にも程がある。人形の家など一足で踏みつぶせばいちどにペシャンコだ、どうせ紙で作った家なんだから―。もう、こんな理屈が判らんのか。」
―さあ飯だ。と食卓の前に座った。この夫に対して何を語るのも、何を哀しむのも無意味だ、夫婦であって、この私たち二人に共通のものに何かあるだろうか―。
何を感じても、話しても相通じあうものは一点としてない。孤独の私にとって、作家の小川未明氏を知ったということは大きなことでした。小川氏はそのころは「童話宣言」の前で短編小説や評論を書いて居られましたが、大衆に迎えられるというものではなく、むしろ作家であるが故に貧しさに耐えて居られるようでした。そのころ、幼い子供さんを相次いで二人亡くされたことで非常にふかい苦しみの中に居られました。富と貧、あり余る贅沢と正しい者等のどうにもならない不幸―。その頃私は、子供をネンネコ袢天で背負い、神楽坂を歩いて牛込弁天町(注:住所は天神町)の小川氏のお宅へ伺うのが唯一のよろこびとも生き甲斐とも思われました。私は小川氏にどういう人の著書を読んだらよろしいでしょうかと聞きました。
「そうだなあ。」と小川氏はしばらく考え、
「そうだアルチバアシエフの『労働者セリヨフ』がいいですね、読んでごらんなさい。次にはやはり同じ作者の『サーニン』。恋愛小説ともいえるでしょうがこれもいいものです。」といわれた。私は大きな期待で小川氏の言葉を実行しました。が大きな失望が残ったのです。子供の世話と物価高に攻めたてられて心にべつだん余裕のない貧しい主婦の私に、十九世紀の重大な社会不安と革命の萌芽を孕むロシア虚無党のテロリストの生命を賭けた反逆の活躍など、どうして理解するわけがあったでしょう。しかし私はその難解な著者の言葉にとり組むことを止める気にはなりませんでした。まるで違った別の世界の人物のむつかしい思想と生活です。つづいてロープシンの『蒼馬をみたり』―などにとりくみはじめました、判らないながら。
一方小川氏は無産政党志向の人々と、その政党的結成に加わって大正9年に「日本社会主義同盟」の創立に参加されました。これは当時の急進社会主義者その他さまざまな分子の糾合で、小川氏のような高い繊細な理想主義、ヒュウマニズムに拠る人には初めから無理があったのではないでしょうか。小川氏は創立の翌年さっそく辞して政治的衆団から離れてまもなく童話宣言を発表し、氏の本来の道に戻ったわけでした。そのほか、氏の導きでアナーキズム運動内の婦人団体、「赤瀾会」に導かれたり、それ等の女性達の活き活きした雰囲気を吸ったりするうちに、同じ人妻、人の母としての生き方にも新しいいろいろの面のあることを知ったのです。伊藤野枝氏には一度だけ、講演に来たとき知っただけ。
― 小川未明のところには子供を背負って行ったのですか。
八木 ええ、子供をオンブして、そしたら降ろしなさいといって降ろしたりして、随分御迷惑だったと思う。ああいう神経を使う仕事だったしね。でも小川さんは聞くということが楽しかったようでした。社会のことなんかも、私がどう見て、どう思うかということに大変興味があるようでした。また原稿料が入らずに大変貧乏しておられた時代、二人の子供さんをなくして、その悲しみに深く入っていたのです。小川さんに子供を手離して家を出るということを話してもなかなか信じなかったようでした。私が出てしまった後でびっくりしたっていってました。
― 有島武郎のところへも行ったわけですね。
八木 私は一度だけ行きました。家を出る前に一度だけ。それは有島さんが子供の看病で慈恵医大の病院へ入っているということを新聞の消息欄で見ていて、それで一寸お会いしたいと思って。私は一番最初に「先生、私は一つの決心をして、心に決めていることがあるのです。それがどこまで本当か、どこまでそれを生かすかわかりませんけど、どうしてもそうしなければならなくなり、もうその中を通るしかないという決心ができて、その決心を固めるために先生の所へ来ました。」
そしたら先生がね、「わかった、実は私はあんたも御承知のように三人の男の子を妻君がなくなってから育ててきた。今までは父として、これでいいんだろうというやり方できた、これより他にないと思ってやってきた。がこれからどういうふうにしたらいいかわからなくなってきた。第一父であるということに疑問が出てきた。苦しんでいる・・・」
そこで私は「今離婚しようとしています、もうどうしても夫の元を離れないと自分自身生きる自由がないのです」。
そしたら先生は、「それはあんたが本当に自分でこの道より他にない、これ他ないという最後の決心ですか」と私に聞いたから、「そうです、私はこれより他に生きる道がないと思います。」「そうですか。」それでしばらく黙っていらしてこういったのです。
「貴女にいいますけど、人間は是非ともこうしたいという、自分自身の欲求にどうしても抗うことができなくて、自分自身の欲求のままに生きたいというその欲求と、またもう一つは、その欲求のあまりに意味の深さや大きさに圧倒されて考えを色々変える人もあります。で私に言わせると、どうしても貴女自身が今の決心を押し通して行きたいという決心であったなら、それをああだこうだと理屈をつけて一歩手前であきらめるとか、はぐらかすとか処置をするとか、そういうことをするならそれは全く無意味です。やって失敗するよりもはるかに無意味です。一番つまらないことです。必ず後悔します。それだけ言っておきます。私は簡単に貴女のことを聞いても何をこうしなさい、ああしなさいという結論は出せない、出せないけど貴女から聞いた以上その決意というのは本当でしょう。」
その時も子供を背負って病院に行ったのでした。だからね、聞きましたよ、「そういう決心だと、その子供さんはどうしますか。」「家に置いていきます。これを家に置いて私一人で行きます。」そしたらじっと顔を見て「そうですか、それは変りませんね。」「そうです。私は先生の所を訪ねたのは、自分自身の決心を強くしようという考えもありましたけど、私にはこれ以上の考え方もありませんから先生にお話して私自身の決意を固めようと思う。その気持で来ました。」「わかりました。」
そういったきり、何にも私のことを具体的に聞かないんですよ。私も話さない、どういう結婚だとか、どういう生活だとか。
冒頭の「夫になった人」に対する八木秋子の強い物言いは、今もその時も、ちょっとわたしには違和感が残っています。この聞き書きをまとめたときは、まだ彼女に対して遠慮があったようです。家出は「相手」の問題だけではなく、自分自身の内発的な理由からくる行動だろうと考えていたからです。ですからこの注釈で「大正という時代の風」を十分に確かめようとしてきたのは、家出の原因を「夫」の資質に因るものだと強い調子で言う彼女を別な側面から擁護したいと思ってきたからかも知れません。
さて、彼女は小川未明宅を頻繁に通い、家出の直前に有島武郎を訪ねたとあります。未明とは偶然の出会いであったとすでに第19夜で触れ、そのころの未明の心情については書きました。また、有島武郎についての注釈は別の機会にします。
ここでは、八木秋子が1973年、東京都小平霊園での「未明忌」に参加した時の、八木秋子の日記を掲載します。戦後の秋子は孤独な生活の中で日記を書き続けています。八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』には60歳代の、主に母子寮の寮母時代に書いた日記を収録しました。
それ以降、わたしと会う80歳の寸前まで東京・清瀬のアパートに一人住む「八木秋子の独り居の日記」は続きます。書くことに妄執した八木秋子の日記はただならぬ量と気配を漂わせながら書かれています。
この「未明忌」に参加する経緯を簡単に書きます。1973年、詩人秋山清が『婦人公論』5月号に「埋もれた女流社会運動家」として八木秋子を取り上げました。わたしが出会う2年前で す。それを読んだのでしょう、小川未明の娘、岡上鈴江から電話が秋子の所へ来て40年ぶりに会い、そこで5月11日の「未明忌」に出席することになりました。
■清瀬:八木秋子の日記 1973年5月(78歳)
12日 未明忌に出席のため出かける。所沢(埼玉県)でのりかえ、小平駅(西武新宿線)はすぐだ。駅前にはたくさんの石材店があり、大小さまざまの石碑が並んでいる。霊園は大樹の新緑が空を掩うように茂り、つつじ、ばらの花などが色と香をきそって咲いている、この公害と無味乾燥の東京にあって、霊園ばかりはまことに静謐と自然の美しさを保っている、自然といってもここの自然はやはり作られたる自然、富と名声と家柄の滲む自然なのである。
須藤石材店には中年の男性が一人先着していた、名刺には児童文学協会北村云々とある。今日集る人々は未明氏のゆかりの人々であるとともに、生前の未明氏を知らなかったにしても児童文学の畑の人々であろうと思う。やがていろんな人が集ってきた、岡上夫人の姿もみえた。私は幹事の人に会費として1000円受けとって頂いた、その人は、じつは岡上さんから、あなたには会費をと仰有っても頂かないで下さい、と頼まれているのです、といったが、強いて納めていただいた。会の皆さんと小川氏の墓地にゆく。清掃された墓地、先生の文学碑、詩作(ママ)百編憂国の情の文字はそのまま生きている。
御夫妻の碑と、先生の文学碑。蕭然と立ち、碑をめぐる新緑の中に真紅なバラの花が咲いている、瞑目、礼拝。女の人たちと参拝す、私は老人ということで、往きも還りも自動車で、須藤方にかえる。
別室に設けられた和風の宴会場、並んだ顔ぶれは30名近く。女性が半ばを占めている。私は入口に近い岡上夫人の隣りの座についた。坪田氏、淀川氏などの顔は見えず、自己紹介によると、小川先生とは生前からのつきあい、というよりは、児童文学関係の方々と見た。大きな会席のごちそうの中心は黒塗りの箱。蓋をとれば、おさしみ、えび、天ぷら、お野菜のみごとなふくめ煮など。
自己紹介のところで、私は岡上夫人の『父小川未明』に描かれていますが、大正12年9月関東大震災の折、信州から上京して、小川先生御一家を見舞い、そのとき先生の春日山の御両親に先生御一家の無事を、信州への帰り道、春日山にお寄りしてお伝えしましょう、とお約束しました、私は帰途高田で下車し、春日山のお宅をお訪ねしたところ、お父様は東京へお立ちになった後で、御母堂に迎えられ、先生御一家の無事をお伝えしました、と、『父小川未明』のその個所を説明した、なお、小川先生を初めてお訪ねしたときのこと、赤瀾会の講演会の折のことなども。いろんな人からいろんな小川先生の思い出が語られ、先生のよき人であったことが語られた。未明忌はこうした人たちによって、毎年その人柄や業蹟について語られるのであろう。
私はつい興にのって、先生にと木曽の小鳥を持参し、その味を賞していただきたい一心で羽根をむしり、鋏で小鳥の体をひらいて金串にさして焼いて差上げたときのことを話し、あの未明先生が眼前で哀れな小鳥が裸にされ、内臓をむきだしに金串をさされて火にあぶられる、その残酷な所業をどんなお気持で眺めておられたか、などとは気にもとめなかった。私はただこの小鳥の香ばしい美味を味わっていただきたいということしか念頭になかったのだ。
岡上夫人は隣席の私にささやいて、私が小川先生をお訪ねすることになった最初のいきさつを皆様に語ってほしい、とのことで、私はそのことについて語った。おそらく列席の女性の半数は直接未明先生に師事したというより、未明先生の童話のお仕事を介し、その業蹟や作風を慕ってこの会に集る方であろうと思い、私は最初未明先生との出会い、先生の作家として、父として、夫としてのありのままの姿を飾らずに語った。
先生に導かれて知ったアルツィバーシェフ作の『労働者セイリヨフ』『サーニン』ロープシン作の『蒼ざめたる馬』『黒馬みたり』でうけた私の感受、その思想のおぼろげな理解など、私にとってその後の自分の生活革命、自己革命に果した大きな影響などは割愛した、こうした席で語るにはふさわしくないから。
私には未明先生について語るべきことはあまりに多く、またあまりにその意味が深いのだ。だから、軽いところで、宮地嘉六氏の語った、未明氏の洗場での洗い方、入浴のスナップなどを語った。
日本社会主義同盟の頃、赤瀾会の講演会(ママ)の傍聴に出かけたときの印象―――、先頭の未明氏の講演は終ったところで、伊藤野枝、宮地嘉六、江口喚、など、最後に盲詩人エロシエンコの話。その感想をその翌日伺ったとき未明氏からきかれ、私は一ばん無意味でつまらなかった話に江口喚の名をあげた、次に一番よかった人の名をきかれ、エロシエンコをあげて答えた、すると、その席にいた客と未明氏が互にしばらく凝視しあった上、そのまま沈黙をつずけた。おそらく同感であったのだろう。
未明氏による私の来世観、死ののちに存在する来世こそ真実と美の永久不変の世界、そこへ達するまでの現実世界の準備、という私の現世観をもののみごとにうち砕いた未明氏の言葉、この言葉によって私の迷妄は破られ、一切の現実をあるがままに直視して真実をさぐり、自己に忠実に生きよう、という私の大きな革命となったそのときの未明氏との会話、そして私がついに四年の無意味な家庭生活をすてて生か死、かの断層に直進し、夫をすて、子をすてる死をえらんだ生涯の行動へと歩みだしたそのときのことを語るのを敢てしなかった、語るにはあまりに巨きな転機、提言を語らなかった私の抑制であったのだ。
お墓は五月の青葉に包まれて真紅のバラの花を前景として静かに立っていた。先生の筆跡―――詩作(ママ)百篇、憂国の情―――という、碑文も心にしみた、いまの破壊と騒音の東京で詩の美しさと美の残されているのはあちらこちらにある墓地、ここだけである、死者と人工の聖域―――とは皮肉である、凡ては名前と金であるのは―――。
夕方、皆様と別れて帰った、おしゃべりをして、そしてこの未明忌、という会の会員に加へられ、来年も来て下さい、と会衆にいわれた。ある人は私が四、五日おきに未明氏宅へ通ったときの話で、(まるで恋びとだな)といわれ、笑声が湧いたが、私が未明氏にひかれたのは、あの作家が作家でありながら、女性の性をうけつけない厳しさ、好奇心と、その激しさによるのであったかもしれない。童話作家としての未明氏の人に知られない本質を私ひとりよく直観していたのだと思う。
小川未明氏は主婦として市井に苦悩していた私を掘り起したのだ。私の用意したお香典を、どうしても受けとれません、頂かないように、と岡上さんから言われているのですから、というのを、強いて納めていただいた、この1000円が会費として私を会員にして下さった証明になった。
*注:本日(10月8日)は秋晴れの気持ちがよい日でした。近くの小平霊園へ行き、未明の墓を訪ねて墓碑名を確認してきました。たいへん読み難い文字ですが「許筆百篇 憂国情」と読めました。
八木秋子の日記は著作集を発行する際、ざっと目を通しましたが、彼女が未明忌に出席していたことはすっかり忘れていました。
ここで書かれている内容の多くはすでに触れたものですが、エロシェンコのエピソードには興味深いものがありました。この講演会はおそらく家出の直前、1921年4月に行われた「暁民会講演会」ではないかと思えます。
エロシェンコはロシア生まれ。盲目詩人でありエスペランチスト【千夜千冊0958】でした。そして、中村彝(つね)の「エロシェンコ氏の像」(1920年)でもよく知られています。彼は旅行中のイギリスで、日本が盲人に対して寛容であるとの噂を聞きます。そして日本行きを決意して日本語を覚え、1914年、憧れの日本の地を踏みます。エロシェンコは、第18夜の研成義塾の項で少し触れた新宿中村屋の相馬黒光に衣食住の世話になり、中村彝や鶴田吾郎のモデルをつとめます。中村屋に集った文化人たちを取り上げている「中村屋サロン」の第1回が荻原碌山、続いて中村彝、第3回がエロシェンコとなっていますが、黒光との深い関係がそこでも見てとれます。
小川未明と一緒に参加した暁民会でのエロシェンコの講演は八木秋子に感動を与えたようですが、今のところ内容は確かめられません。しかし、秋子が家出の前日に見に行ったという第2回メーデーには、赤瀾会として初めて参加して検束された堺真柄(18)たちと共に「盲詩人検束さる」と報道されています。続いて5月9日の「社会主義同盟第2回大会」においても検束された41名の中に入っています。そのため、ついに5月29日には「国外退去命令」が出され、それを伝える新聞には「彼は泣いた」との写真が掲載されていました。
その後、魯迅の誘いで北京に渡り、北京大学で何の科目かわかりませんが教鞭をとったり、演劇活動を行ったり、メーデーやエスペランチスト大会にも参加したようです。【千夜千冊0872陶淵明全集】では「官能山水」を魯迅から教わり、盲目詩人エロシェンコを動かしたとありますが、あの中村彝の「エロシェンコ氏の像」から伝えられるエロシェンコの雰囲気から、わかるような気がします。
ところで、有島武郎全集の年譜を見ていましたら、「5月28日、官憲に捕らえられたエロシェンコのために秋田雨雀とともに責任者を訪ね、理由を問い質したが要領を得なかった。6月3日、エロシェンコの件で、秋田雨雀とともに内務省に行く。エロシェンコは国外退去となり、この日敦賀を発つ運びになっていたことを知る」とありました。
エロシェンコを巡っては有島も動いていたのです。未明も一緒に講演に参加しました。有島も未明も互いに近いところで活動していたことになります。
その二人に会って八木秋子は家出を敢行することになります。ちなみに、翌1922年2月、彼女の初めての文章「婦人の解放」が載った「種蒔く人」に、エロシェンコの童話「理草花」が掲載されておりました。八木秋子とエロシェンコの一瞬の交差です。