高工嘱託の妻
原因不明の家出
子供を寝せた儘で麹町区飯田町5の25東京高等工業学校窯業科嘱託古山六郎氏妻秋子(二七)は當年三歳の男の子ある仲なるが2日午後1時頃主人の不在中子供を寝かせた儘無断家出し行方不明となれるより主人は直に麹町署に捜索方を願ひ出でたるが遺書等も無く原因は全く不明なる由
1921年(大10)5月4日付東京朝日新聞夕刊
(当時は5月3日夕方発行)
八木秋子が家出した時の報道です。まさか家出の新聞報道がなされているとは思いませんでした。なぜ報道されたのか、いま考えると不思議です。おそらく原因がまったく不明で、事件性を帯びていたと見られたのでしょうが、これもさすが、「ものがたりを作る八木秋子」というよりほかはありません。
彼女は第2回メーデーを見に行った上野で家出の決意を固め、翌日決行したに違いありません。その前日の新聞報道によれば、メーデーデモ解散地の上野では「乱闘、凶暴を極めた警官隊」によって、赤瀾会として初めて参加した堺真柄(18)たちが検束され、またエスペランチストのエロシェンコも検束されました。そのような社会の空気と家出決行時期は無縁ではないとわたしは思います。
彼女は語ります。家出の決意を固めるにあたり、子どもを置いたまま出ることは、生涯を通じて重荷になる。だがしかし、それを振り切るところに自分を追いつめていったと。
●私の生きざま 常に私の戻るところ、負のバネ
八木秋子個人通信「あるはなく」第1号
(1977年7月17日発行)★絶望がわたしを
―― 八木さんにキリスト教からの影響が多分にあったように思われるのですが、原罪に対する考え方などどうでしたか。
・八木 ありました。ずうっと。子供を犠牲にして自分の良心に従ったわけですが、その原罪意識は常に生の欲求とともに死の意識を伴うものでした。私にとって一つの救いは「神は愛なり」という真理でした。エゴイストといえるでしょう。子供を置いて出るということが後々まで重荷となることは承知だった。でもそれを振り切らなければならない拠に自分自身を追いつめて行って、夫と別れる手段としてはこれ以外にないと決心したのです。―― 一般的にはその一歩手前で止めることが(子供のことで特に)多いわけですが、そうでもないし、また先に何か自分のしたい仕事とか職業とかについて具体的に方法があるわけでもない。つまりはっきりとした将来に対して見通しなしに、今、ここで、こんな生活に我慢ができないからそうするんだと、直感的に感じとってしまったということですか、その時の感じは。
・八木 私は夫に対する絶望だった。ほんの僅かな希望でもあれば別だが、とにかく自分自身に対する絶望でもあった。
―― ただね、そうかも知れませんけど、ではそういう男の人でなかったら八木さんは我慢して平々凡々の当時の家庭生活を送って行ったか、勿論飛び出さなかったかも知れないけど、その後の生活はどういうふうな、普通に………。
・八木 いや、それがやっぱり駄目だったでしょうね。(笑)
―― つまり、相手がどうとか、自分の周囲との関係がどうとかではなくて、自我というか自己が確立されていく過程でだったのですね、ただ僕がいつも思うのですが、当時としてはごく当たり前だったと思うのですが、相手もよく知らないで結婚し、子供をもうける。そして、その置かれた中で真剣に悩み苦しみ、そして脱出の行動をとる姿に八木という女性を評価するわけです。政治などの表舞台での活躍で過去のことの帳尻を合すようなことがとかく多いのですが。後の『女人芸術』の座談会の席上の発言でも気張ったお嬢さん的な発言の中でやっぱり一際目立つのはそのためだと思いますね。
★セックスというのは大きいことだ
・八木 そうですか。その後はいつも同じ繰り返しだった。
それともう一つ、男と女のセックス、性の問題は大きなことだと思いますね。私は結婚した晩から性に対する神聖感というかな、そういうものが全然、いたわりとか知性とかは見事に踏みにじられました。一辺にね。私はね、正直にいうけどその晩から一人で寝たということはないの、本当にその人はスキだった。私はそれが普通の性のモラルだと思った。何という、もしこれが結婚だというのなら、人間は何のために生きているのかわからないと思った。その人は「そういう性があるから俺達は働く勇気も出るし、貧乏にも耐えることも出来る」というのです。「その楽しみがなかったら、俺達に何の楽しみがある、何の意義がある」というんです。―― するとそれも脱出の大きな原因に?
・八木 そうです。こういう生活、性生活をしなければ人間は結婚を送れないのか。生活の本当の道か。ということを考えるとじっとしていられなかった。こういう生活を送るために私はいままでああいう文学を読んだりしてきたのかと思った。そして、次の子ができたのではないかといった時の苦しみといったらもうじっとしていられなくて、飯田橋の側の土手の上から飛び降りてみたり、ころげ落ちてみたり、いろんなことをした。そしたらそのうちにあれがあって、普通の状態に戻って、ハアこれはこうしてはいられないと思った。私は子供は神聖だなんていっておられないと思った。その時の苦しみといったらなかったのです。
私の友人で、松本の女学校の同級だった人で、その人が結婚した人が急に亡くなり、急性の肺病、スペインカゼだったのでしょうかね、その未亡人となった友人というのは私の本当の友人だった。その人が泣く泣く故郷に子供を連れて帰るという日に私の処へ来たのですよ、そこで私の生活を見て、その友人が驚いて、あきさん、あんたがこんな生活をしているとは思わなかった、といってオイオイ泣いてね。私の夫が勤めを了えて帰ってきて夜しか喋らないけどすぐわかったんですね。何の繋がりも交流もない、そして私自身が自分というものを放棄しちゃって、偽りの生活をしてるということがすぐわかっちゃった。
そしてね、あんたわかったろう、私は、もう一年の余裕を置いてもらってそれでその間に決心を固めて別れるつもりだ。「子供は?」子供は置いて出る。そしたら、その友達がね、しがみついて泣いてさ。私は、友人に、私はこの人と一生涯を埋めるつもりはない、必ず出る、それまでに子供を置いて出ようか、連れて出ようかとまだ悩んでいる。それをハッキリするまでは、まだ待って欲しい。と約束したのですよ。
★飛び出したけれどそれからがね………―― ところで、家を出てどこへ行ったのですか。
・八木 飛び出してね、その女が私を手引きしてくれたのですよ。その女の住んでいたのは目黒の大きな深い森があった、そこにあった小さな一軒家に連れていってくれたのですよ。その家に、夫だった人の友人で画家と彫刻家をその女の友人が連れて来てくれたのですよ。そしたらその二人は吃驚して「あなたの結婚生活が耐えられないというのは解っていた、解っていたけど子供を置いて出るとは………」とね、二人とも涙を流してくれて、「本当にこれからあんたはやっていけるか。」いかれます。「どうしても決心を変えないか。」変えません。「そうか、そうなら僕らもあんたの味方になってやろう、あんたを助けてやろう。」といってくれた。
そして二人は帰り、女の友人も買物などで一緒に出かけた留守。ひょいっと、コウモリを持ってきてぱっと拡げたら、そしたらね、その中から子供の水鉄砲が出て来たんです。おもちゃが。さあー、もう、いても立っても居られないのよ、苦しくて、そいでもうそこを飛び出して、裏山がね、すごく険しいですが、かけずり登って、バタンと倒れた。倒れた拍子にね、あの……あれが、リンデンバウムがあの音楽が聞えてきたのよ。あの……、ああ苦しい。……あのリンデンバウムがね、ほんとに、その時はもう、本当に泣いて泣いてね。
そして、そこでもって草の上に腹ばって泣いて、子供のもとに帰ろうとして立ち上がったのよ、そしてゲタをはいた拍子にゲタのハナオが切れて倒れた。倒れた拍子に、あっ、私は何だったのか、何の決心をして出たんだ、こう思った。そしてこうしてはいられないと思った。私は何のために命をかけてきたんだ、という反省にしめつけられて。それでまた友の家へ帰る気になって、そしてボチボチと歩き始めた。その時の苦しかったこと、悲しかったことったら。それでね、2、3日その友人のところにいて、電車に乗ったりして仕事を捜したりしていたけど、ただボンヤリして過してましたね。ただ生きているだけだった。子供のことを思うと。その時、私を知っている牧師さん夫妻をその彫刻家達が連れて来て、何もいわないからここは私達に任せてとにかく帰ってくれというのよ。子供が可哀そうだ、それで私は帰っちゃったのよ。
ただ苦しかった。ところがね、それからなのよね、私がどん底まで自己否定をするのは。一たん決心して死んだ人間が生き切れなくて再びあがってくるとは一体何だろうと。
★それぞれが生きるということ
その時の私の心理状態はどういうのかというと、どういったらいいか、とにかくどんな事があろうと私が悪くて、子供を置いて出るということは容易なことではないことですが、それを敢えてしたということに対して私は本当に自分自身を否定して否定し抜いて来たのです。
ところが私が行って下駄を抜いで上ろうとした時に、座敷から夫だった人が飛び出して来て、「良く帰ってくれた。」と皆んなの前で「皆さんにも言うけど、今度のことは私に一切の責任と罪があります。」というのよ。それが、本当に罪を悔いるというような感じで私が受け取ったのじゃあないのです。男として、そういう細君に、もっと高飛車にもっと強く責めて、そして私がごめんなさいといって平謝りに謝って許しを請うて帰るというべきだ。
そういうふうなのじゃあなくて皆の前で私が悪かったと謝る、その時に私は本当に「ああこの人は救われない」と思ってね。そういうところが私達の時代の女としての感覚があった。とにかく全て浅いのよね。もっと毅然としたものがないのね。それぞれ男と女がしっかりしたものを持って生きている者同士が一緒にただいることが夫婦だと思うのよ。親子だってそうだと思うのよ、本当はね。牧師なんかには許しを請うとかいうことは通ずるかも知れないけど、親類とか事情に疎い人達には通じません。私が何のために出たか、また帰ったか。子供に対して申し訳ないです。大きな顔して、どの面下げて帰れるかというのがありますからね。
その時の第一の感じは、「ああこの人はどうにもならないな」ということだった。絶望だった。私がハッキリ決心したのはその晩からでした。何しろもう針のむしろでした。何にもかわらないんです。口先なんてね。それから私は両親に一言謝りたいから木曽へやってくれといって頼んだけど、それはやっぱり帰ってこないんじゃあないかという不安があるから駄目なんです。でも私は八木の父にどうしても詫びなければならないからといって子供連れで帰ったのよ。
帰ったらね、父はいろり端に座っていて、私達が車で降りて隣のオバさんが「あきさんが帰りましたよ」といったら、「え!」と驚いた様子で、ニィコニィコと笑って「ハァ!『高工嘱託の妻家出す』が帰ったか!!」といった。それはね、私が一度目に家を出た時朝日新聞に三段抜きで出たのよ、その記事の見出しだった『高工嘱託の妻家出す』とね。それで私が親不幸を詫びたら、その時ね、「ああお詫びはいいかも知れない。だがな、おれはお前がどうして家に子供を置いて出て来たかというその動機はよくわかる、わかっているがどうして再び帰ったかということがわからん」というのよ。私がどんなに泣いても泣ききれなかった。いいオヤジだなあと思ってね。ニコニコしているのよ。それを言うのに。「どうして帰ったかそれがわからん!」というのよ。
それでね、私が「実はっ!!」といったら、「そうだろう、そういうだろうと思った」ていうのよ。おとっさま、実は今度木曽へ来たのは、一つはおとっさまにお詫びをすることと、東京で出きなかったことをここでやるつもりで来たのです。といったら、「そうだろう、これからもお前の相談に心底のるつもりだが、オレの目の前でやられるにはあまりにもつらい」というのよ。「孫を見るのがつらい」というのよ。こういう親だったのよ、こういう親にああいう夫。「『高工嘱託の妻家出す』が帰ったか」ていってニコヤカに笑った顔。
それでね、結婚の時、夫婦連れで熱心に私を説得した長姉のところへ行ったのよ、でもそこでもね。それでまた東京へ帰ったのよ。★再び家出する
二ヶ月ぐらい居たかな。それで書き置きを書いて、ゆかたのまま、子供の顔をじっとみて出たのよ。走り書きを枕元においてね。そのままスーと出たのです。金を一銭も持っていなくて指輪を売ってね。出てね、万世橋のところから電報を打って、父親のところと家に。そこで、紹介所で麻布の建築家の家へ行って働いていたのよ、女中をして。
その頃は小川未明さんも生田春月さんもよく知っていたのよ。小川さんは最初家を出た時、夫だった人が毎日通って一緒に引き摺られて探されたそうで、まさか出るとは思わなかったらしく、驚いたそうでした。大変なご迷惑をお掛けしたのよ。
でもね、その時もただただ苦しくてね、さあ再出発だなんて思えなかった。子供を思い出すとね。そこへ木曽の父から手紙が来て、とにかく帰れというのよ、それで帰ったわけ。
出てから、夫だった人も随分小川さんのところや生田さんのところやあちこち探したそうで、とうとうその麻布の家を探し当てて、そしたところが田舎へ帰ったというので、それで追っかけて来た。子供を連れて、丁度数えで四つだった。その時も苦しかった。来ると私は子供を背負って畑で仕事をしていると、家で父がその男を相手に話したのよ。あきらめるようありったけの説得をしたらしいのよ。どうしてもね、あきらめないのよ。
そして私に駅へ送って行けと父はいうのよ。辛かった。駅までの道、子供を背負ってスーツケースをさげて行く時、ああこんなにまで苦しまなけりゃならんとは、子供を悲しませなけりゃならん、なんとエゴイストだろうと思われるかも知れないけれど、こんなに馬鹿でなかったなあとね、どんなに苦しかったか。駅で別れるとき、乗ろう、乗ろう、汽車が出るから早く乗れ!!早く乗れ!!ていってね。映画みているようでしょう。でも本当に辛かった。あともう二回ほど来ました。私はね、いまでも思うけどいい父親でしたよ。私が一人で泣きたい時、考えたい時は、離れの小屋に唯一人いつまでも置いてくれたのよ。それでしばらくしているうちに、こうしてはだめだ、何か生きる術を持たなくては、学校の先生にでもなってまず生きなければと思うようになるには時間もかかった。父は銀行事件で何一つなくなっていたのよ。悲しみに浸っているだけではだめだ、と思うようになったのよ。
★衝動的な直観と偶然を信じて
―― お話を聞いていても、家を出ることが第一で、何か仕事とか見通しを持っていたわけではないのですね。
・八木 そうなのよ、いつもそうなの。いまある状態のもとで家を出ることしか頭にないのよ、そう思う直観みたいなものはどうにもならないのよ。それが私の長所でもあり、大欠点でもあるのね。ちょっと例がないでしょう。こんなにまで明日のことを思い煩わないのは。貴方はそれが八木らしいというけど私はいつも必死なのよ。こうしたらどうなるとか、こう行動したらどういう結果になるとかの将来の見通しなど何もないのよ。エゴイストなのよ。
―― エゴイストじゃあないでしょう。自分の事を中心にというのではそうだけど、エゴイストは目先が利きますよ。利己的に考えるから。
・八木 私はね、非常に偶然を信ずるのよ、私を動かしているのは非常な偶然なのよ。満州のときも、東日の新聞記者になった時も。とりたててああしよう、こうしようなんて考える頭がないんだ。結婚なんていうのもほとんど偶然というのが多いんだ、遭うということがね、出会いということを信ずる。
私はね、そのあと運動している時、同棲したわけだけど、男と女というただそれだけの所引き下げてしまうと、大したことではないんだというあっさりとした淡白なところに来てしまうのですね。だから結婚しようとは思わなかったですね。★跳び超えたいけど“我”が
―― 話は少し変りますが、こういう文章があるのですがどう思いますか、宗教についてですが「<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま、絶対に跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである」というのですが。
・八木 わたしはね、絶対という、それに引かれたのです。自分の全てを否定して、否定し切ってキリストに至りつくか、救われるか。ということだった。救われるか、つまり私には罪の意識があった。それが子供のこと、それは誰にも言えない、誰れにも告白できない。それを自分で自分の中で祈るしかない。自分の中で捨てるしかない。捨てて捨てて捨て切ったところにアナキズムがあった。これを知った時、これしか生きる道はないと思った。他に価値はないと思った。私はそのとき他の思想も知っていたけど、組織に頼るとか集団に頼るとか、そういうことはできなかった。それは自分を否定してないと思った。
私は人間キリストが好きなんだ。“死者をして死者を葬らしめよ”とかね。私はずっと教会に行ったりしていますけど、どうしても駄目な所があるんですよ、それはね、“われ”“じぶん”というものがあるものだから、一切を捨てて神に帰れといってもだめなんです。だから祈るということ、自分以外に祈るということができないんです。それはウソだと思うのです。そこに私の矛盾があるのです。キリスト教に入り切れないんです。祈る一方で自分を捨て切れないんですよ、捨てたと思った自分は自分じゃあないんですよ。
―― これはね、吉本隆明の『最後の親鸞』に出てくる文章なんです。
・八木 そうですか、でも跳び超えたいですよ。本当に。いつもね。最後の決断のところでどうしてもできないのよ。そこに私の不徹底なところがあるんですけど、不徹底だとは言えないと思うんですよ。私は捨て切れると思ったのは子供を置いて出た、大きなことだった。だから私は今に至るまで、いろんな場面にあっても、なにくそ、と反発して自分を否定して出発してきたように思う。
77・7・17、
文責相京
■この日をわたしは生涯忘れないだろう。意識が正常に働いている限り。子を置いて家を出、一たび帰ったが、この日の早朝、ふたたび最後に、永訣のおもいで別れた。指輪を質家へ。その金で浴衣を買い、万世橋から別れの電報をうって、横浜の職業紹介所へ。そこから導かれて行ったのが鶴見の高い丘の上にある火災保険首脳の家だった。
ああ遠い過去よ、幻影として私の胸におさめよ。わたしがほんとうに書く日まで。
「八木秋子の独り居の日記 1969・8・5」
この一文は、家出をした48年後の日記です。八木秋子にとって「子棄て」は生涯にわたり「常に私の戻るところ、負のバネ」だったのです。それも単なるバネではなく、「負」のバネだったに違いありません。わたしは、八木秋子著作集のⅠも『近代の<負>を背負う女』というタイトルにしました。なぜ<負>としたかったのか。おそらく、そのことを考えることがこの注釈の重要なテーマのひとつだと思っています。
八木秋子が語る「否定」は、当時わたしたち全共闘世代が言っていた「自己否定」と結ぶようでいて違う、だから「負」としたのかも知れません。とにかく「負」という言葉が八木秋子にふさわしいとわたしは考えてきました。
しかし、第20夜の小川未明の年譜で見てきたように、彼女が結婚した1918(大正7)年から家出する1921年にかけて、未明の『牛女』などの作品、藤村の『新生』、有島の『小さき者へ』、雨情の『十五夜お月さん』などが発表されています。そういった作品の世界と彼女の内面性が、どうつながるか。また、彼女の宗教に対する考え方に、たとえば内村鑑三の影響がどれほどあるのか。
わたしはいま、この注釈を通じて蘇ってきた八木秋子を出迎え、その「八木秋子のものがたり」の再生こそ、わたしが通信の発行以来願っていたことなのだと、言いたいと思います。