八木秋子通信「あるはなく」は1977年8月13日、老人ホーム養育院の4人の雑居部屋にいる本人のもとに届けられました。八木秋子の養育院での日記「転生記」には、それを何度も読み返し、次に何を書くかという構想に苦闘している状況が読みとれます。その際、力づけられたのは通信を読んだ人たちからの手紙でした。
八木秋子は1959年の母子寮寮母時代からわたしが出会う寸前の1974年まで、「日記」を大学ノートにびっしり書き続けていました。読書ノートであったり、社会で起こった事件への感想、そして彫刻などへの深い関心がつづられていますが、特に日常生活の観察は詳細に記述されてあります。
そして、いつも日記は「書きたいものがたくさんある、書かなければならない」という言葉で満ち溢れていました。何度も書き始め、大きな物語の序章のようなものが立ち上がってきますが、たいてい未完のまま終わっていました。その繰り返しなのでした。ですから著作集を作る際、書きかけの原稿用紙のいくつかをわたしが繋いでまとめる作業もせざるを得ないこともあったのです。
通信の発行においては、八木秋子の<こだわり>を振り切り、強引に作品として形にしたところもありました。おそらく老人ホームという環境でなかったら、彼女の手元で延々と書き直されてしまい、未完のまま(それはそれで良いのですが)まとまった形になったかどうか、わかりません。こだわりを<断念>してもらうしかありませんでした。その時も思っていましたが、老人ホームの4人雑居部屋という<負>の環境が「あるはなく」を発行させたとも言えます。そういった意味でこの「あるはなく」は、彼女自身「転生記」で書いているように、初めて一つの仕事を成し遂げたもので、ひときわ感慨深かったと思われます。
84歳という待ったなしの時間をかかえた八木秋子に対し、28歳のわたしに何ができるのか、<彼女の尊厳を損なわず押し進めるにはどうすればいいか、しかし時間は限られている>という状況のなかで、通信発行に向けて必死に疾走する数年間がこの時点から始まるのです。
5年後の1982年『思想の科学』1月号に載った『八木秋子著作集・全3巻』の書評は、<「時」に踵をつかまえられながら>というタイトルでした。まさに、そのとおり、「あるはなく」全15号と著作集全3巻が発行されたのは、肉体の衰えや進行する精神のゆれに踵を捕らえられそうになりながら、かろうじて辿り着いた奇跡の出来事だったのです。
その書評の一部を紹介したいと思います。
■「時」に踵をつかまえられながら 1982年1月『思想の科学』 西川祐子
手づくり手わたしの通信から生まれた《八木秋子著作集》の短所は、通信と共に読まなければ著作集は説明不足でわかりにくいところである。著作集に前記の空白(相京註:著作集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの間にある発行期間の空白)があるだけでなく、八木秋子の文章には自分にだけしかわからない表現も多い。だが編集人は事実をおぎなう他の解説をできるだけひかえ、その代わり著作集各巻の表題と表紙装丁にありたけの思い入れをこめている。著作集Ⅱ『夢の落葉を』だけは八木の物語の一つの題からとられているが、著作集Ⅰ『近代の〈負〉を背負う女』、著作集Ⅲ『異境への往還から』は編集人の命名であって、一語で八木秋子という的を射ようと狙いさだめた緊張と、それとは逆に読者にさまざまな解訳をゆるす余韻が同時に感じられる魅力ある題になっている。著作集Ⅲの表紙は画狂老人と落款をのこした北斎90歳の「雪中虎図」であり、虎とも蛇ともみえる怪獣は、現在86歳、すでに「時」に踵をつかまえられながらなお激しく身をよじって生きている八木秋子の姿とみえる。——————————-
この書評を書いてくださった西川祐子さんは、「あるはなく」第1号を送ってただちに反応された方の一人でした。しかも、彼女と八木秋子にはその前史というべき関係がすでにあったのだと知りました。そこで、発刊直後の八木秋子日記「転生記」と西川さんの感想を続けますので、その臨場感を感じ取っていただきたいと思います。
■八木秋子日記「転生記」
1977年8月15日
一昨日、相京君が私のパンフレット、「あるはなく」が刷れて、30部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンてきる。私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。なかなかよい。
9月1日 「あるはなく」は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。
西川さんは、相京君に宛てで(内容は私あてのもの)これまで私が書いた、「婦人戦線と高群逸枝」の永島暢子とのこと、私が過去に友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた、最も非政治的な女性と評価し、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を反省し、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が婦人戦線に書いたファシズムの鳥瞰図-社会時評を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子「あるはなく」の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の、「あるはなく」の次号からの期待にぜひ応えたい。
さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪-子の死、人情といえばいえる後半について迷いかつ苦しんでいる理由だ。
今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみよう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によることもなく。
八木秋子は生きている、まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。
1977年9月X日
こんどの「あるはなく」で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギ―があの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など。あの当時の農村の惨状は必要だ。しかし、それの詳述には私の知識蓄積ではとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの1930年代のアナキズム運動をありのままに列記するには揮るところが多いのだ。運動と名づけられない揮るところの多いのも事実だ。
とにかく、「あるはなく」を読みかえせばかえすほど、あれは八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子を捨てて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の「あるはなく」の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否、死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにない、と知るべきである。こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実曝露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって遂落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。
「あるはなく」の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、「あるはなく」で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。
さて、「あるはなく」を書き、活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けぬことは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。
★西川祐子さんから寄せられた手紙。1977・8・22
西川祐子(京都在)
「あるはなく」第1号の「知れば知るほど、それ(困難さ)は魅力あるものとなり、生きる興味の素材となって、苦しみが新しい生活を発見して行ったようである。」という文章にとくにひかれました。困難が苦しみといわれるのでなく魅力(そのとおりであったろうと信じます)といわれるところに、通俗でない魂と、もっと底しれぬ、だからことばは届かないかもしれない魂の深淵を感じました。どうか通信が私たちにことばの橋をかけてくださるようおねがいいたします。
秋山清の八木秋子論(相京註1)の題は、「己れの足跡を消しつつ生きる」でした。この文章が再録された記録「埋もれた女性アナキスト、高群逸枝と『婦人戦線』の人々」(相京註2)のなかに、「太平洋戦争下のアナキスト、八木秋子の場合」、があり、そこで八木秋子さんは、その秋山清の文章をさらに消しつくそうとするかのように、終戦時の満州における友捨ての話を語って自己否定をしていらっしゃいます。これを読んだとき、私は自己否定の徹底していることにうたれると同時に、「永島さんを一人おいてきたことで積極的に生きる意欲がなくなった。」とこだわる、こだわりの内容はこれだけ語られてもまだわからないと思いました。こんど子捨てを語られてすこしわかりました。子捨てと友捨てはちがうのではないでしょうか。女にとって幼い年齢の子どもは完全な他者ではない、子捨ては自己否定の一種で、八木秋子は自己否定においてはいつも捨身で勇猛果敢、それゆえに救われている。だがあのとき語られた友捨ては、他者(満鉄少女社員他、彼女の庇護のもとにあった人たち)を捨てられなかった結果として起っている。他人の人生や生活や生命や自由を素材にして作品をつくることが政治ののがれることのできない一面であるとしたら、八木秋子はもっとも政治的でない人で、その人がおそらくはそれゆえに、いつも政治に吸いよせられ、またときには友捨てのような主観的にみて、客観的にみてさえ苛酷な極限にさそいこまれるその悪夢も「魅力」のなかに数えられるのでしょうか。
私は雑誌『婦人戦線』(昭5)を図書館でみつけて、そこではじめて八木秋子の文章を読みました。「調査欄・日本資本主義の鳥瞰」という文章は紡績業における合理化の動きを見ることにより、このとき(昭5)すでに満州事変、支那事変、.太平洋戦争さらには敗戦とその後までを正確に洞察、予言したものであり、読んだときのおどろきは忘れられません。この明晰さが、自身の予言どおりに終局へ向う時代の奔流から無事にはなれるのに役立つのでなく、合理主義も非合理主義も共に渦の破滅的な中心に吸いこまれることを考えて、私にははじめて恐怖の実感がわきました。自分たちの問題と重ねますと、戦後民主主義世代に属して、いまその理念の変質を感じつつ、何を守りとおしたいのか、という肝心のものは少しも形にもことばにもならない。しかし相手はある、と確信するようになる。それは張子の虎的な安心して批判できる敵でなく、日常性そのものといったおそろしさであって、このおそろしさについてもっと知りたいです。
1975年に、八木秋子さんから、「『婦人戦線』の全存在を知る上には当時1930年代の社会状況を知るべき」であるというお手紙をいただきました。1930年代の主な社会問題が整理してありました。以来、くりかえし読み、昭和5年と50年代とを重ねて考えています。
1977・8・22 「あるはなく」第3号(77/11/20)■相京註1:婦人公論 己の足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子 1972年5月号
この秋山清の文章について、「あるはなく」第2号(1977/9/20)でわたしは次のように反発している。「過去を美しく語るわけでもなく、また悔いるようでもない。〈己れの足跡を消しつつ生きる>のではない。己れの足跡に一つ一つケジメをつけ、いまなお明確に刻印するかのように格闘している。その姿は、安易にスルリスルリと世を渡る術を拒否しており、その人達に向けた刃は一瞬も磨くことを怠らないかのようである」
■相京註2:埋もれた女性アナキスト/高群逸枝と「婦人戦線」の人々/犬塚せつ子・城夏子・大道寺房・松本正枝・望月百合子・八木秋子1976年9月30日発行。
*目次
『婦人戦線』のひとびと 城夏子座談会。
『婦人戦線』同人のころ逸枝さんの印象 望月百合子
明るい肯定の人。高群逸枝 八木秋子
『婦人戦線』あの人この人 大道寺房
高群逸枝のある恋愛事件 松本正枝
高群逸枝の葉書 犬塚せつ子
己れの足跡を消しつつ生きる昭和のアナキスト・八木秋子 秋山清
『婦人戦線』総目次(昭和五年三月~六年六月)
『解放戦線』総目次(昭和五年十月~六年二月)
付・回想談:大平洋戦争下のアナキスト八木秋子の場合
「マルキスト永島暢子との思い出」
★この冊子は婦人公論の記者(当時)だった関陽子さんがまとめたもの。八木秋子の回想談:「マルキスト永島暢子との思い出」は満州時代のことが中心となっている。満州において永島の同僚だった人から関さんは永島の消息を聞かれ、親友の八木秋子にインタビューしたものだが、永島の痛ましい最後に触れていたため反響は大きかった。たとえば、岩織政美さん(永島の出身地青森県八戸の共産党市議)はその後、『永島暢子の生涯』1987『永島暢子著作集-批判を持つ愛の深さ』1994 をまとめ上げた。その出版記念会などでわたしは何度か八戸の岩織さんを訪ねて交遊を深めた。そして、1994年の9月、京都新聞で「おんなの50年<彼女は満州で死んだ>」として24回にわたって永島暢子が特集された際、名乗り出てこられた京都市内の読者こそ、実は関陽子さんに永島暢子の消息を訪ねた「同僚だった人物」という、これまた偶然で、不思議な「ものがたり」となった。
その京都新聞での掲載にも協力してくださったのが、西川祐子さんでした。前に書いたように、「すでに<時>に踵をつかまえられながらなお激しく身をよじって生きている八木秋子」の通信発行に奔走していたわたしにとって、「子捨てと友捨て」についての西川さんの文章にとても励まされたことをいまでも鮮明に覚えています。それは八木秋子通信を継続することによって、戦争や戦後民主主義を考えるというテーマと併走していけるのだという道しるべをいただいたということです。 今回、京都在住の西川さんに「あるはなく」第1号を手にした29年前のことについてうかがってみました。
★西川祐子さん——————————————————
八木秋子の個人通信が送られてきたことがわかったときには、心底からほっとし、うれしかった。わたしは、『思想』(岩波書店)の1975年3月号に「高群逸枝と『婦人戦線』」と題した論文を載せたところ、『婦人戦線』の同人の方々のご生存を教えられました。雑誌の主催者である高群逸枝がすでに亡くなっていたのと、『婦人戦線』が1930年―31年に発刊された戦前の雑誌であったため、戦後育ちのわたしは、同人の方々を歴史上の人物のように思ったのだと思います。不明を恥ずかしくおもい、さっそく同人の方々に抜き刷りをお送りしました。全員からご返事をいただきました。
どのお手紙も高群逸枝さんだけではない、私もあれからずっと生きてきて、今ここに居るよという内容のご返事でした。みなさんをお訪ねして、のちに「自立と孤独―『婦人戦線』の人びとをたずねて」(岩波講座『老い』)を書きました。ご返事の手紙のなかで、1マスに2字をつめこんだ400字詰め原稿用紙11枚の八木秋子の手紙がもっとも強烈でした。
この方は発信している、受信者を待っている、とすぐ思いました。でも飛んでゆきたいのに、私は当時、失職中であり、子どもたちもいて、東京は遠かったのです。八木さんからいただいた厚い封書を1年も机の上において眺めながらお返事を書くことができませんでした。そこに届いた八木秋子個人通信「あるはなく」第1号でした。
西川さんは、八木秋子著作集が完成した時も毎日新聞に「彼女はその後、未完の大作のあるべき読者にむかって、投稿とか長い手紙の形でメッセージを送りつづけた。虚空に消えそうであった発信を最後に受けとめたのが自分も悩みながらさまよい、アンテナを張っていた世代であったのは偶然ではない」と、わたしの気持ちを理解して書いてくださった(毎日新聞1981/7/1「八木秋子の軌跡・戦前戦後の思想風土に抗し続ける)。自分自身の顔も鏡を通してしか見えない人間にとっては、このような「他者という鏡」を通してはじめて自負が持てるのだと思います。
先日西川さんが上京された際、上野の西洋美術館で開催されている「ベルギー王立美術館展」に誘われました。入り口のベンチに腰掛けて待っていた西川さんは「相京さんに見せたい絵がある」とおっしゃった。それが「ブリューゲルの<イカロスの墜落>」でした。わたしは見たあとの感想として「墜落ではなく、別な世界への脱出とも見えますね」と言ったら微笑んでいた。
そして、八木秋子の日記「1977年9月X日の末尾:飛翔と墜落」について、西川さんは今回、次のコメントも寄せてくださいました。
☆ブリューゲルの<イカロスの墜落>」に通じる墜落であり、「そこから自由が生まれる」という文章も暗示的ですね。「死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい」とは、これからの私のためにあるような気持ちがします。
西川祐子さんの主な著作です。
著書:『高群逸枝 森の家の巫女』(新潮社 1982、第三文明社 1990)、『花の妹 岸田俊子伝』(新潮社 1986)、『私語り 樋口一葉』(リブロポート 1992)、『住まいと家族をめぐる物語』(集英社新書 2004) 『近代国家と家族モデル』(吉川弘文館 2000)『借家と持ち家の文学史「私」のうつわの物語』(三省堂 1998)
・1937年、東京生まれ。京都育ち。現在、京都文教大学人間学部教授
今回のコメントにも感謝したいと思います。八木秋子の言葉はまたリレーされ、未来に向かって開かれたからです。このように、「あるはなく」発行以来、西川さんからはいつも適切なメッセージが届きました。かつて安部公房は、石川淳への追悼に「相通ずるものは生来のアナーキストだったという点、潜水作業中の孤独な作家に石川さんは酸素を送りつづけてくれた」と書いていました。わたしにとっても西川さんから送られてくる酸素はそれこそ格別なものでした。
これも八木秋子が繋いでくれた「えにし」だと思います。
30年前のちょうど今ごろ、12月5日から連日、わたしは彼女のアパートを訪ねていました(第12夜)。部屋の真中に茫然と座っている八木秋子に力を尽くしたい、時代に筋を通した人に恩を返したい、そう考えたから、今ここで注釈を加えている「ものがたり」の全てが始まったのでした。
■参考
石川淳と「しのび別れる会」88年1月25日 千日谷会堂 「お別れの言葉」
★安部公房
「あらためて弔辞を述べるつもりはありません。弔辞というのは、ナメクジにかける塩のようなものにすぎない」「それは危険な、不穏なものを消してしまう呪文だからです。石川さんには危険で不穏な存在のままでいてほしい。文壇というムラ構造に異議申し立てを続け、潜水作業中の孤独な作家に酸素を送り続ける仕事を引き受けた石川さんに、なお休息は許されない。石川さんのポンプから送られてくる救命用酸素を待つものはいまなお後を絶たないのです。むろんぼく自身もそのひとりです」「石川さんとぼくとの間に現象的な共通項はないかも知れない。日本のボルヘスというべき石川さんの膨大な知識と教養を思えば、ぼくとは余りに違う。だが、より根本的なところでは、相通ずるものがあった。それは多分生来のアナーキストだったという点です。………あるべき表現、望むべき表現を<精神の運動>と言い切った石川さんは、孤独な深海作業者のための命綱であっただけでなく、自分自身も深海作業者だった」
★武満徹
「世界はさまざまの異なった考え方によって成り立ち、そして思想は他者を自覚することなしには生まれようもない。………先生のこの考えは若いころの、気負ったわたしに実に重く、意味深いものでした」