この注釈は、新月と十六夜に掲載しておりますが、わたしにとってはこのペースが合っているようです。
第25夜は、「あるはなく」第2号(1977年)に掲載した、編集人としてのわたしの文章を載せます。そして、八木秋子がなくなって2年後の1985年に、第1号発行当時を振り返った文章を加えます。渦中にいた時は夢中でしたから当然ですが、およそ10年後に書いた文章も事情の説明にはなっているけど、いま一つぴったりしないという思いがしていました。ところが、この注釈を書く動機となった「パサージュ」という言葉に出会った時、八木秋子はここから考えることが出来るような気がして現在に至っています(第1夜)。
★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン(全5巻)
おそらく、その頃のわたしと八木秋子が共有した空間を言葉で表せば、ここで語られている「パサージュ」をかなり意識していたような気がします。それは「自在」であったり「自侠」という言葉も引き連れている世界です。著作集Ⅲを『異境への往還から』とし、帯文を「さらばわれ、わが生涯を不安と迷いに貫かん」とした理由もそこにあると、いま思います。
帯の文は八木秋子の「独り居日記」から採ったものですが、まさにその八木秋子の日記自体が「日常への異常な興味」を書いたものでした。そして、いつも自己否定し「変わらなければ、変わらなければ」と言いつづけてわたしたちを刺激し、未完の作品を書き続けた八木秋子の時間はいいつも「通過点」であったと言えます。そして、「本になろうとしている過程そのもの」だったと思います。
では、わたしのその折々の「八木秋子との関わり」に触れた文章です。お読みください。
★協力者の一人として 相京範昭
(「あるはなく」第2号1977/9)私は八木あきさんをアナキズム運動上の活動家として知っていた。農村青年社運動の中心人物であり、「女人芸術」「婦人戦線」らで高群逸枝らと共に活躍していた等だった。 だが、その限りにおいては、特別興味を引くこともなかった。ところが、実際お会いして、その生活を真の当りにし、また話される言葉の節々から感ずるその生き様なるものは、普通の俗にいう主義者のそれとは大変異質なものを感じた。それから繁く通うようになった。
この2年間、何度か訪問するうち、その話される言葉に込められた表情というものは、どこか醒めた視線を持っていることに気がついた。過去を美しく語るわけでもなく、また悔いるようでもない。<己れの足跡を消しつつ生きる>のではない。己れの足跡に一つ一つケジメをつけ、いまなお明確に刻印するかのように格闘している。その姿は、安易にスルリスルリと世を渡る術を拒否しており、その人達に向けた刃は一瞬も磨くことを怠らないかのようである。
その毅然とした口調に「はっ」としたことは何度もあった。私に語ってくれた目は時には涙が浮かび、また鋭く光り、遠くを見詰めていた。時にいかんともしがたい運命に、だがそこでも自己を否定すべく問題を引き摺り続ける姿勢に、私は石原吉郎の<断念>という言葉を思い出した。しかし、彼女は83才である。その彼女が「ああ、私は変らなければ……」と発す言葉、その姿勢に、私は<自分の感受性くらい>自分で削いで行きたいという思いがする。
この企画は八木さんの環境の激変から出発した。5月に私の家にみえて具体化し、とにかく出してみようということで進めてきた。通勤の途中や休日にお会いする程度では彼女の期待されることを完全に遂行することはできないのではないかという不安が残る。勿論いうまでもなく彼女の文章で全頁埋まることが理想ではあるが、4人の相部屋に置かれている環境ゆえ私が尋ねる形式でテープからそれを起こすことになった。「子供を置いて家を出たこと」に、なぜ焦点を絞ったか。それは表題にあるように、彼女のその後の行動や思考上で、常に立ち戻る処だと私が思ったからで、しかも重要なことはそれが彼女の行動のバネになっていることだった。別の見方でいえば、彼女のその意識を日本の革命運動が内包したところで展開されなかったということが、今まさに私達の課題となっているといえる。1950年に竹内好は「日本共産党批判」で次のようにいっている。
「思想は生活から出て、生活を越えたところに独立性を保って成り立つものであろう。ところが日本では、生活の次元に止まる未萌芽の思想と、まだ生活に媒介されない、したがって生産性をもたない、外来の、カッコつきの思想があるばかりだ。」私が彼女のアナキズム運動上のことか.ら出発せずに、私の独善で彼女の個的な体験からこの通信を出発したのは、真の思想とは何か、ということを彼女を通じて確めたかったからかも知れない。しかし、私の力不足のため、もっと深く広い八木秋子を紙面で暴れさすことができなかった。その意味でも、今後これを読まれた方々の「八木への手紙」載せていき、それに応ずる形で補っていきたいので是非お手紙をいただきたい。勿論、彼女に関する「想い出、感想」、他編集上のことなども、どうか<通信>の意味を理解して、一方通行にならぬよう参加していただきたい。第1号に私が連絡先になっている理由、そしてこの通信の形式など一言あるべきだったのですが、編集上割合しました。その為戸惑った方がおられるかと思います。それは、彼女の所では前述の環境の為事務的なことができないので私が代わりにやるということです。彼女との交通は責任を持ってします。
また1号発行後、皆様から賛助金を載きました。予約も含まれておると思いますが、勝手ながら5号分まで受け付けます。それ以上の金額は賛助金としてプールさせていただきます。9月7旧現在25、500円、支出は印刷費17、000円、発送費2、240円でした。収支は毎号この欄で報告いたします。なお友人達の印刷所でこの通信が制作され、その多大な協力で産まれたことをこの欄を通じて感謝します。以後不定期かも知れませんが、一応2、3ケ月に1回発行のペースで続けて行きたいと思っております。どうか御協力をお願いいたします。 送料とも150円
★あるがままと<負> -八木秋子の「子捨て」をめぐって-
「パシナⅢ」1985 秋号 より一部引用目の前の人に何かある。言葉の端に残るものがある。そう感じたとしても、強引に話を聞き出すことは間違っている。まして、その不透明な部分を勝手につなぐことはもっと許されない。
他人に語ることなく、じっと胸の底に沈めていたものを口にすることは勇気がいる。形づくられて安定している秩序を乱すからだ。歩み始めなければ新しい何かが生まれぬと判かっていても、傷は残る。不安である。不安ではあるが、いまを脱皮できるなら希望もあるということだ。不安と希望、動いているものにまとわりつく矛盾。
さらけだすことによって生ずる傷が自然治癒するには時間が必要である。いや、単位としての時間ではない。長い時間のなかで考えてくれる人との信頼関係。大河の流れにゆだねる小舟のように、方向だけは間違いないという信頼関係。それが相互に補完しあう関係とは、もたれることではない。わたしは年を重ねた人たちから得がたいものとして<時間>の概念を得てきたように思う。「長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空になげろ」(あるはなく、第10号、転生記)
通信はなぜ始まったか
八木秋子を初めて清瀬のアパートに訪ねたのは、1975年9月16日、つまり10年前だ。4畳半のアパートで扇風機が回転していたから暑かったのだろう。本棚に埴谷雄高、吉本隆明、竹内好の著作にまじって、内村剛介の『生き急ぐ』があった。翌年の2月だったか、一人で訪ねたとき、その本を借りた。シベリァでの収容所体験をつづったそれを読みたかったのも事実だが、彼女にはラーゲリーを連想させるものがあった。人を寄せつけない凍土、シベリア。ラーゲリーの体験を描いた香月泰男の「点呼」を、7年後、八木秋子が養育院を出るときに発行した『休刊号』の表紙に使ったのは理由がないわけではない。「点呼」は日本に戻れるという喜びの余り、列も乱れがちになる収容所での最後の点呼であった。
八木秋子は迷っていた。閉ざした世界を語りたい、しかし、人に伝えられるか、それが表情と言葉に複雑に表われていた。しかし、皮肉なことに、八木秋子の老人ホーム入り、という彼女にとって、意にそぐわない出来事が、あるものを断念させ、表現することを決意させた。貧困をきわめながらも気ままな独り暮し。読書と物を書くことが自由に出来る環境から、一切の私物が制限される「前途に安全はあっても道のない老人の国」へ。
「通信『あるはなく』は私が書物や原稿のはしきれまで失って屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない。老人の幸せとは何であろうか、私はそれをおもいつづけている。」(八木秋子著作集『近代の〈負〉を背負う女』あとがき より)
事実、老人ホーム入りを聞き、何か手伝うことはないかと、入院の数日前に訪ねたとき、雑然とした部屋の中で、独り呆然としている八木秋子がいた。
人はたいしたことはやれないし、やれると思いあがってはいけない。想いだけが先行しすぎると、とかく、他人も自分も傷つく場合が多い。その時も老人ホーム入りについて、親族の方々との問題がありそうなので、わたしは何ら関わりを持とうとは思わなかった。手をさし伸べることが真のやさしさにならぬことがある。それよりむしろ、やれることだけを徹底的にやることが、わたしが信頼する八木秋子の「老人ホーム入り」に際してやれることだった。
この時の気持をいま考えると、そのまま一人で暮し続けたり、どこかの家庭に引きとられたりしたなら、通信は発行されなかったろうと思う。それまでと同様、八木秋子との関係は続いたとしても、通信を発行するためのそれではなかったからである。だから、通信は「老人ホームに入っている八木秋子が表現する場」として成立した。
「老人ホーム入り」という、彼女にとって不本意な、マイナスの方向へ事態が動いたから、一気にプラスにしようとするエネルギーが生まれたのである。その時、バネとなったのは、「表現したい」という欲求であった。それがなければ、やはり発行は不可能だった。
しかし、改めていうまでもないが「八木秋子は信頼することができる」それは全ての前提条件であった。前にふれたように、なぜ、彼女を信頼したかという、自分の直覚を問うことが、あるいは、その後の作業のパトスになっているかも知れないが、一言でいうことは全く困難なことである。おおげさにいえば、自分を発見する作業、存在証明は、一つ一つ考えてゆかなければならない。
なぜ子供のことから対話は始まったか
通信発行に際し、契機となったことについてはもうふれた。では、なぜ「子捨て」から対話が始まったか、を考えてみたい。
常に戻る原点であるということは、それが彼女をがんじがらめに縛っているということでもある。生まれた時代のせいもあるだろうし、キリスト教の影響、あるいは母親としての感情かも知れないが、わたしには過度に、自虐的に身を責めているように思えた。何度も繰り返される自問は、空まわりする。彼女はその呪縛から脱っしようとしていたが、飛び立とうとして翼を広げたとき、おそらく「子捨て」という冷厳な事実が頭をもたげ、梢然として翼を閉じていったのだろう。八木秋子の身にそくしていえば、何かを始めるには「子捨て」を避けて通るわけにはいかなかった。
一方、わたしが八木秋子を清瀬のアパートに訪ね始めた頃、「子供のこと」は身に迫っていた切実な問題であった。「あるはなく、馬頭星雲号」で触れたから繰り返さないが、わたしは「生活」を始めようとしていた時期だった。
長女が生まれたのは、初めて会った年の翌年7月だった。子供とは何だろう。もともと他人同士の男と女である夫婦では、ただいる、という関係が想定できても、子供は違う。人間の幼児は生物の中で一番弱い存在だから、大人が見放せばすぐ死んでしまう。ならば、いくつかの通過しなければならない儀礼を経るまで、子供は親の自由な生活時間を制限するのではないか。子供との距離をどうとったらよいか、そこを考えていた。家庭としての問題では主夫であるとか、主婦であるとかいっても、そこで問うていたのは親と子のことだった。
八木秋子が何度となく繰り返した健一郎との対話、それとわたしの問いは重なることもあったのだろう。問うことは自分を整理することである。わたしにとって、産もうとする子供の問題は、動き出すためにどうしても通過しなければならなかった。つまり、互いに子供のことは動き出すために避けて通ることができない共通の課題だったのだ。
手探りで進み始めるとき、頼りとする感覚は「見えない糸」にたとえられる。糸の両端に触れれば音信可能な回路がなりたつようなものがあって、それで相手を確認することができれば信頼がうまれる。言葉も「見えない糸」を探すための一っの伝達方法である。表情やら語調、目の動き、視線、それらへの直覚が全て総合されたうえで、わたしは八木秋子を信頼したのだと思う。八木秋子もわたしを信頼してくれた。
■20年前と30年近い前の文章を読みましても、現在の自分とそれほど変わらない考え方をしています。おそらくわたしにとって、八木秋子という人物と連なって無我夢中・熱中したあの時間と空間感覚のまま現在を突っ走っているのかもしれません。ここで、わたしの心構えにぴったりの言葉を千夜千冊からまた一つ引用して、2006年最後の通過点としての「注釈八木秋子」をまとめます。
「パサージュ」と同様、たいへん気に入っている言葉である「侠」です。この二つの言葉に出会えた2006年にわたしは感謝したいと思います。
★千夜千冊1149夜『中国遊侠史』
司馬遷は、遊侠はその行為が仮に社会の正義と一致しないばあいでも、言ったことは必ず守るし(守)、なそうとしたことをやり遂げる意志があって(破)、なにより自分の身を投げうつところに、「存と亡」の境目を奔走する爽快感のようなものがある(離)、と評価した。つまり挟み打ちではなく、連なっていく。それが侠なのだ。賊か侠は紙一重のところもあろう。けれども、その紙一重を超えていかないで、なんで人生、面白かろう!
■ 愛侠としては まったく 異議ナシ です ■