第26夜は、第10夜に続き、川柳作家児玉はるさんの聞き書きを載せたいと思います。
まず、彼女のプロフィールです。
★1906年(明39)東京生まれ。18歳ごろ印刷解版工となり、アナ系の東京印刷工組合運動に参加。74歳まで仕事を続ける。夫と娘を病でなくしてから始めた(昭11)川柳は、多くの女性作家に影響を与えた。1984年、川柳界の仲間によって句集『むらさきの衿』が編まれる。
1988年3月22日逝去
第10夜で書きましたが、児玉さんは八木秋子がなくなった1983年の時点において、彼女の満州新京時代を知っている唯一の方でした。そのため、満州での生活環境などについてお話を聞きたいということが訪問する最大の目的でした。
ところが、八木秋子について聞くうちに、紹介された児玉さんの川柳作品にもわたしの関心が向って行きました。その滋味に富んだ句から浮かんでくる潔さ、意思、哀愁、温か味、ユーモアなどはたいへん魅力的なものでした。その後、何度か埼玉県の西部にある高麗団地のお部屋を訪ね、「パシナ」(八木秋子逝去後、彼女に関わるものをまとめた小冊子:編集人相京)に数回児玉さんの聞き書きを掲載したところ、作品を読んだ多くの方から反響をいただきました。
児玉さんは1988年になくなりましたが、その後、わたしは国会図書館に通い、彼女の作品を収集し、句集を作りたいと考えてきました。しかし、ただ単に「児玉はる句集」を編むにはなんとなく抵抗があり、どういった形の本が「児玉はる句集」としてふさわしいか、時機を待ち続けていたといえます。そういう点からいえば、これも「パサージュ」感覚だったのかも知れません。今回掲載するものは「パシナⅢ」1985秋、「パシナⅣ」1986秋 に発表した文章を再編集したものですが、もう一度、この一人語りをまとめ、立ち上がってくるものを見届けたいという、2007年初春の気分です。
このように、八木秋子の周辺にいた人たちを加えたいのは、「大正から昭和-戦前・戦中・戦後」を通過してきた「アナーキズムに共感を持ってきた人たち」の、たくさんの感性の重なりを伝えたいと思うからです。わたしが出会ったその人たちの面影は、たとえば「無邪気」「律儀」「一途」であり、「旺盛な好奇心」の塊をもちつつどこか「諦観」の雰囲気が漂っていました。そして、その人たちがわたしたちの前から去って行った後に残る気配を、かつて「哀慕」と名付けました。
☆彼らが立ち去った後には<哀慕>と名付けるしかない、何とも言い難い気配が残る。もちろん<哀>は悲しみではなく、しみじみした趣があることで、それを慕う気持ちが残るということである。幸いなことにわたしたちは、その人たちの立ち振る舞いや言動を間近に見てきた。その包み込むような<景色>の中で生かされ、忘れ物を取りに行くように新たに生きる勇気を自覚しているのだ。『黒』№10 04/6
児玉はるさんの作品にはそれが在るとわたしは思います。
●福寿草かたむく五芽三が日
(談:児玉はる。文責相京)———–どうにも説明しづらいんですよ。景色でも、気持でも、妙にあとあとまで引っかかって残るものがありますね。そういった気持をそのまま句に読むんです。すると、おや、何だろう、なんでこんな気持になったんだろう。自分の内にあるナゾといったらいいか、そうなった気持を、あとで出来た句をみながら考えるんです。あたしにもこんな気持があったのかな、なんてね。
廊下もう沼津の開いたのがきこえ
とうとうたらりたらりゃ春の足拍子ひとりになりましてから、本当に、なんていいましょうか、きまりが悪いくらい、好きなことしよう、そう思って、お芝居、好きでしたから、よく見に行きました。このね、三番の足拍子はとてもいいんです。ご存知ないですか? 特徴のある足拍子をするわけです。三味線もね。初春だったんです、それに溶け込んだように思ったんです。ですから、とうとうたらり、それが始まると見えるわけです、あたしにすれば、三番叟が。それが大変うれしかったものですから。
とび込んだ雀入ったとこをでる
実際みた人ならわかるんじゃないかと思うんですが、家中とびまわっている雀をどこから出してやろう、そう思ってあれこれするんですが、出せないんですね。そしたら、入った所から出ていってしまったんですよ。それまで手を尽して人間は考えているわけですが、ホッとするような、あわてた自分がなんだかオカシイような。それが川柳だと思いますね。
晴ればれとして何か起きるのかも知れぬ
きれいに晴れた時の感じというのは、何かいいことがある、と思うのと、しかし、どこか、何かこわいことの前兆でもあるかのように、期待と不安に満ちてますでしょう。結局、聞く人の想像力の問題でしょうが、想像する力がなかったら、ああ、そうですね、で終わっちゃうんです。川柳っていうのは、そのあたりのこともありますね。そのまま聞き流すこともできますから。
わたしは人間っていったらオカシイけれども、ごく普通の「日常」、これが一番有難いことで、大事にしているのは、日常のなんてことはない、いってらっしゃい、おかえりなさい、煮炊きして、笑っている、これが一番大事なものなんだと思いますね。なんでもなくて、あたりまえのことですけどね。
だけど、それをあまり強調しすぎるとまた変になってしまうし、そのまま聞き流してしまうのもオカシイし。ですから、その実の凄さをよくみることじゃあないでしょうか。蚊遣火秋の気配に流れたる
これは始めた頃の句ですね。川上三太郎先生がやっていた『川柳研究』に、まとめて30句ほどのせた時の句でしょうか。勤めていた印刷所の人が誘ってくれて始めたんです。独りっきりになってからですから、もう、かれこれ50年ちょっとになりますか。
そうですか。これもある瞬間をとらえたような句だとおっしゃるんですか。あたしは、さっきいいましたように、ふっと出来っちまうんです。まあ、大変いいかげんなもんですよ。その時はとくに意識しません。だけど、あとで考えると、こういった感じの句が割合好きですね。ただ、そのあとが続かないんですよ。
あれも、これもと、いうんじゃなくて、ひとつのことに絞って作ってみたい、そういう気持は確かにありますね。そうかも知れません。〈削ぐ〉ことかもしれません。感情を抑えて海苔の裏表
海苔を焼く時って、ご存知でしょう。二枚重ねて、慎重に慎重にやらなけりゃ駄目です。それまで、カッとしていても、じっと抑えて焼き過ぎないようにするんです。そのあとどうなろうと、その焼いている時間だけは、冷静に、自分が自分じゃあないように。その感情のもち方、動き方が面白いでしょう、そう思いませんか。
香一縷さればゆき逢うはずもなく
決っして、とむらう気持がないんじゃあないんです。ですが、しばらく逢わないけど、どうしているかな、なんて思う人がいますよね。その人がなくなっていた、しかも、もう何年も前に。なんていうと、ああそうか、そう自分で思い切って、気持に納めるんですね。なら、逢うはずがないじゃないか。そんな気持です。だって、そのあたりはどうにもならないことですし、だからといって、ただ聞いているばかりじゃあなくて、ちょっと強く気を持つ、そんなとこでしょうねえ。
ものおのおの かかわりもなき たたずまい
往き往きて親も子もない果てにいる
あたしばっかりじゃないと思うんですが。まあ、いろんなことがあって最後に、最後といっちゃなんですが、ある所にきて気がついたら、親とか子とか、そういったことと全く離れた、それぞれがかかわりのない所にきてしまった、そんな所があるように思えます。何か、行きついてしまった、全くふだんと違った離れた世界があるような気がするんです。そこに自分の気持が。そうです、男でも女でも、何でもないような、ただいる、というように。ああ、そうですか。八木さんもそう言ってますか。でもね、あたしの場合は、少し観念的だったような気がしますね。本当のことをいって、その頃は実際的じゃなかったですから。つまり、別の考え方みたいに、もう一つ世界があるんです。
「それぞれ男と女が、しっかりしたものを持って生きている者同士が一緒にただいることが夫婦だと思うのよ。親子だってそうだと思うのよ。本当はね」
八木秋子個人通信「あるはなく」第1号信頼のひとみの中へ遅刻して
池に降る雨子に親に縁うすく
そうかそうかそうだったのか巣に卵
そうですか、これを気に入って下さいましたか。調子がいい? そうですね、鳥のあわただしさも。
秒針が耳に悲しいひじ枕
しみじみと壁の厚さへ寄りかかり
奉天に着いた時の句です。満州の壁は厚くて、それに寄りかかって。行ったばかりの頃です。こんな気持は、自分でわかっていても、人にはわからないだろうな、そう思ってました。ああ、ここまで来たんだな、そういった気持がやっぱりあったんでしょうか。
目を閉じて本土の果ての映画館
映画館で目を閉じるなんてヘンだと思うでしょう。奉天へ行く時、下関でちょっと時間待ちするんで、映画館へ入ったんです。自分としては、もう映画なんて見ているんじゃなくて、ただ時間待ちで、ああ、ここまで来たんかなあ、そういった感じがあって。目を閉じて映画館に、なんていうと、ちょっと、あたしも真っすぐじゃあない所がありますかねえ。青空に電線もよし退院す
何年かしてふっと思い出すことがございますね。これなんか、実際入院していたのはずっと前ですが、かなり経って、あんなことがあったな、そう思い出して作ったものです。ピーンと張りつめたものが感じられますか、たしかにそうですね。三太郎先生に、「この人の句は彫刻だよ」っていわれたことがあるんですよ。絵じゃあないっていうことでしょうか、どうでしょう。
濃あじさいなしもありしということの
八木秋子さんの通信「あるはなく」、あの表題の意味を知って、この川柳を思い出しました。「いまはないけど、たしか在ったと思う。通りすぎたことだけど」。そんな気持を詠んだのですが、やっぱりそうか、と思いました。