●第29夜 対話1977年9月23日


 第28夜で予告しましたが、1977年9月23日の「八木秋子と相京の対話」を掲載します。第1号の反響に応えて八木秋子は「子どもとの再会と別れ」を一気に書き上げました。その第2号は9月20日の発行でした。この会話は、発行直後の秋分の日の連休に、わたしの家に来た際の、興奮気味のまさに渦中での会話といったもので、八木秋子との共同作業がもっとも熱気をはらんでいた時期だったといえます。
 
 以下の文章は、1987年にまとめ、そのころ発行していた八木秋子に関わる文章で構成された冊子「パシナⅤ」に掲載したもの。下記の文章で触れていますが、10年前の1977年におこなった八木秋子との会話をテープ起こししたものです。今回の掲載にあたり、一部加筆訂正しております。なんだか入れ子状態で読みにくいかも知れませんが、その点、ご理解下さい。


◆1977年9月23日 八木秋子・相京範昭 
 (パシナⅤ 1987秋 より)

 このテープは、1977年9月23日、秋分の日に、八木さんがわたしの家へ2泊3日の予定でこられたときのものである。今からちょうど10年前、八木秋子通信「あるはなく」第1号を7月に30人前後の人たちへむけて発送し、その反響が何人かの方々から送られてきたころだった。文中にある西川祐子さんの私信というのもそのひとつ。第2号(77・9・20発行)は八木秋子が「わが子との再会」、わたしが「協力者として」を書き、この日、八木秋子は刷りあがったそれを手にしたばかりだった。

 今からふりかえって見れば、通信発行についてわたしたちが互いの意見を最もぶつけあっていたころでもあった。それまで通信発行に及び腰だった八木さんを説得していた半年あまりの雰囲気がチラチラと垣間みえる。中断もあって、話がかみあっていなかったり、話題が飛んでいる所も少しあるが、実際、八木さんはしばらく黙っていて突然話し始めるときがよくあった。それがいつものことだった。わたしたちにとっては、互いのズレがあればそれを確認しつつ、残された時間の少ないことを了解していたから「あるはなく」発行を急いでいた。その一点、どういう内容で発行するか、それだけだった。

 通信を通じて、生の八木秋子をどう伝えるか、書く、話す、あるいは書きためていた古い原稿やノートで「通信」を埋めてゆくとき、その順序の中で最善を八木秋子に求めた。そのため、このテープのように活字になるタイミングを逸っしたものも少なくない。しかし、そのころの考え方を知る上でも必要と思い、掲載することにした。


【八木】ドストエフスキーの中で一番読んだのは「死の家の記録』だった。あれはもう自分の体験したことであるから、だいぶ読んだ。『罪と罰』をどれだけわたしが読んで理解しているか考えてみると本当に貧しいんだ。理解が貧しいんだ。それをどうこうして、どういうふうに生かすなんてとても。そう考えてみると、本当に目的は遠い所にあるような気がするけど。もっともっと読まなければ。いい加減な所まで、そういうことになったという所までね。
 むしろ、西川さんが書いたように(西川祐子さんの私信-註)、わたしはひとつひとつ感覚的につかまえて、それを何でもないことのように表現してゆく、それが何かの面白いものがあるんじゃないかなあという気がする。それくらいの所だ。まだ、それをどういうふうにする、なんて所はとてもとても出てこない。だけど、これで絶望しちゃだめだけどね。本当なら、わたしはねえ、別れた子供と再会するまでをもっと長くして、そして、あれが死ぬっていうことより、死ぬことに終わりを持って行かず、その前に、もっとあるべきはずだと、それは本当にあっけなく死んでしまったんですがね。そう考えてくると、まだまだだな。
 だけど、あんた、本当によく書いてくれた。あたしは本当に感謝する。

【相京】いやあ、ぼくはこういう物を書いて、文字にして載せるなんてね、いままでないから。
【八木】ただね、わたしはね、あんたがこれだけ期待してくれてる、これだけの期待とわたしを持ちあげてくれる、その、持ち上げるっていったらあれだけど、わたしのもっているものをフルに生かさせようとする、それとあんたの腹の据え方、それになんとかして、応えなければならない。
【相京】ぼくは逆に、八木さんのこういう仕事をやってるでしょう? それには腰据えてね、本当にその八木さんの書かれる、話す、持っている思想というか、それを受けるには、そこに且分を据えないとだめだから、こう書いたつもりなんですよ。
【八木】腰を据えなければ出来ないと?
【相京】八木さんの考え方を受け止めることができないと。

【八木】 ただねえ、あんたに悲観しないで下さいといえることは、読めば日頃の鬱積したものがそこに出てくる。
【相京】 そうですよ。
【八木】そのきっかけを作る、それをしなければいかんと。
【相京】八木さんはそうにね、いつも謙虚に、自分のことをそうにね。まあ、ここで書いたように「変わらなければ」といろいろおっしゃるけど、それはそれとして、姿勢として本当に素晴しいと思うんですよ。ただ、同時にね、八木さん自身、今までに物を書く、1号に書いてあるように、物を書くということの情熱においては誰れにもヒケはとらないと、あるいはそれについての腰の据え方については十分確かなものを持っていると、あるいは、今まで本をいろいろ読まれてきたし、行動してきた中でね、八木さんの中にもう蓄積されたものがあるわけですよ。八木さんが無意識に。
【八木】無意識だね。

【相京】それがね、例えば普段いろいろしゃべる中で出ているわけですよ。だから、ぼくは八木さんがいろいろ書いて、それはそれなりに、もし八木さんを全然知らなくてもね、読んで驚くけどもね。だから、尚更、一緒に会つて話をしたり、こういうふうにうちにきて泊ったりすればするほど八木さんかもっているものがわかるんですよ。もっと深いと思う。
【八木】そういうふうに感じますかねえ。義兄が言ったんですよ、どうしてもっと早く書かなかったんだとね。それについては何とも言いようがない。

【相京】あそこ(養育院)へ入ったのがひとつのきっかけで。
【八木】内容がなくて、ただ書くっていうこと、こんな冒険、こんなおそろしい、これ以上おっかないことは、あれですよ、ないですよ。
【相京】ぼくからみれば、八木さん自身、体系化されてなくてもね。
【八木】そうです。
【相京】八木さん自身の中にもっているものの見方、考え方ですね、そういうものはかなりのもんだと思うんですよ。ぼく自身見るときね、だから、とりたてて何かこう書こうというようなんじゃなくて、思っていることを吐露することがね、それがもう、何ていうか、みんなに訴ったえるんじゃないかなあって気がしますよ。それだけのね、自覚というか、自負をですね、それをもう、自我とは裏表だから。

【八木】自負をもちたいと思っている。それを持ちたいといつも考えている。だけど、強いものに圧倒される、そういう立場だな、今のあたしはね。
【相京】それに、これを書いたのはぼく自身のひとつの生き方ですか、あるいは思想っていいますか、それと八木さんの思想みたいなものをこう、ぼくの中から八木さんを見るという形ですから、特別八木さんを持ちあげるとか、八木さんを素晴らしいとか何とかっていうのはね。自分の思想の中でとらえているつもりですからね。だから誰れが読んでもそれはわかるんじゃないか、そんな気がするんです。

【八木】正直なところねえ、今度の息子の死、あそこで終らせたってことは、読む人は物足りないんじゃないかと思った。だけど、死によって親子のつながりがもう1度、強いものになったことは確かだ。息子の死によってそむいた母親が何を確信をもったかっていうことを強調しなけりゃね。

【相京】ぼくは感じたんだなあ、1号でもそうだし、今度の2号もそうなんだけどね。なんかこう、ひとつひとつ不満はあっても、それは次に書く為の材料になっていくような気がするんだ。(材料か―【八木】)。
 それを全部通して、たとえば5号、10号ってね。全部とおして読んで行ったとき、ああ、なるほど、そしてまた1号を読み返す。そういう何か、もののような気がしてきたんですね。だから、大きい意味では自然の、こう、意識するしないにかかわらずにね、何か大きいひとつの流れの中に伏線がいくつもある、そんなね。

【八木】なにか潜んで流れているものがあるというのは確かだ。それをどういうふうに自分で悟って、それを鮮やかに表現しなけりゃあ、ただとらえただけじゃだめだからね。それをこれから力を入れなけりゃだめだ。だけどあたしはね、あんたが、ねえ、息子が飲み屋をやるっていったってことに賛成したでしょう? あんときにハァーそうかなあ、あたしはガッカリしたんだけどなあ(笑)。そういう気かして、あれはよかった、最後の結末はなあ。
【相京】案外ねえ、八木さんねえ、文章っていうのはそうかなあっていう気がするんだけど。八木さん自身はあまり意識しなくても、書いた結果、読む人が、八木さんがたいしたものじゃあないって書いたものがね、みんなにピンとくるものがありますからね。書いたものが思うようには読まれないっていうか。
  (つづく)

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