4月30日は八木秋子の命日です。24年前のことです。
昨年の命日、第10夜は、周辺にいた人たちのひとり、川柳作家の児玉はるさんのことに触れました。児玉さんには今年の年頭も飾っていただき、その作品を紹介しました。第32夜は「八木秋子の周辺の人たち」というより、「あるはなく」発行に協力してくれた人物であり、このような「場」で一度は紹介してみたかった一人、バルカン社という零細印刷屋を経営し、アナーキズムに関して少なからぬ翻訳をされた「はしもと・よしはる」さんへの追悼文を再録したいと思います。
1970年、わたしは友人の永井正道がつとめていたその印刷屋にバイトで入りました。大学解体から労働現場へなどということを大上段にかざすつもりはなく、ただ、飲み代、馬券・麻雀代を稼ぐため、そして「マンガ」のような同棲生活を送るため、それが理由でした。ただし、4~5人の小さな印刷屋だったのでレイアウト・製版→オフセット印刷→並製本まですべてをやらざるを得ず、しっかり本作りを体得しました。2年後、「石川三四郎を偲ぶ会」だったか、そこで橋本さんと知り合った競馬人白井新平さんがバルカン社へ印刷の仕事を持ってきました。競馬をやっていたわたしは、たまたま彼の持ち馬「ネロ」が川崎開設記念を勝利したので、それを祝いましたが、それがキッカケとなり、結局会社を移ることになったのでした(競馬新聞の常識である「馬柱」や「◎○▲」は白井新平さんのアイデア)。
白井さんの会社へ移って3年後、彼と八木秋子をたずねるわけですから(☆第5夜)、わたしが八木秋子と出会うという偶然の出来事に橋本さんは関わっているのです。その恩義もあります。しかし、緩慢な自死としか思えない彼の死は、決して彼個人に限ることではなく、異質を排除するという共同体が抱えている問題は、この社会を現在も色濃くおおっている風潮であり、わたしに<はしもとよしはる>さんを八木秋子のそばに送りたい、そんな気分にさせるのです。
はしもと・よしはるさんへの追悼文を送ります。
なお、掲載冊子「パシナ」については、第28夜八木秋子関連出版物を参照。
1985/春 『パシナⅡ』より
★追悼橋本義春さん
死ねば死にきり
相京範昭
死ねば死にきり。
橋本義春さん。あっけなく逝ってしまったあなたへの追悼の言葉として、やっぱり、高村光太郎の詩の一節を思わざるを得ません。
ここ数年、死に急ぐように駆け抜けて行ったあなたは、その<緩慢な自死>としか思えない道をなぜ選んだか、その少年時代に遡ると思われる理由を、もっと、はっきりと言葉にするべきだったと思う。なぜなら、<死ねば死にきり>の舌打ちしたような顔に、他人に見せることなく沈めていた口惜しさをみたからです。
最後の作品となった『死出の道草』は雑誌「リベルテール」に連載され、永遠に中断したままです。明治国家権力がアナーキストを狙い打ちにし、12名を殺した大逆事件に題材をとったその戯曲は、翻訳を主として活躍されていたそれまでと違い、新しい世界を開拓するかのように思え、毎号楽しみにしておりました。しかし、その表題が、同事件で処刑された管野すがの遺稿と同じ『死出の道草(艸↓草)』だったことは、たとえ傾倒していた幸徳秋水の愛人がすがであったことによったにせよ、やはり不吉な戸惑いを持たざるを得ませんでした。それが今だからそう思えるといった類いのことなのか、あるいは意味を持たしていたのか、ここで問うつもりはありません。しかし、気に掛かっていたことは事実です。
同様に、以前から気になっていた文章に『トルストイの家出』(本文末に転載)がありました。7年前の暗示めいたその文章は、今でも妙な切実感があります。82歳のトルストイは<孤独と魂の平安を求めて家出をし>、<最後まで、国家・教会と和解しなかった。妻との和解もなかった>と断言し、最後に、その生涯の賎の言葉として、「個人は失敗し、死ぬ。理念が勝利し永遠である」というへーゲルの「理性の好智」で結んでおります。
わたしはその二つの文章を手操っていくと、ただ1度しか見られなかったけれど、はっきりと想像できる、40年前の中学生であった橋本義春少年に巡り合えるように思えてなりません。国家権力が有無を言わさず押し潰していったあの時代で、あなたは深く傷ついた。しかし、その体験を直接被害者として語ることはなかった。だが、<理念が勝利>するとは余りにも美くし過ぎる。よそ者として入ったふるさと=村落共同体は、なぜ閉鎖的で人を差別するのか。その反発として、あなたは異境の言葉を次々と獲得していったのではなかったか、それをもっと語りたかったし、また書いて欲しかった。
そのことをわたしが考えるには、まず、わたしたちの出遭いから始めなければならないでしょう。
橋本さん
わたしが学生をやめ、働く道を選んだ1970年、友人が勤めていた印刷所、バルカン社に、あなたは社長という立場でおられました。しかし社長とは名ばかりで、似たような境遇の素人の青年が数人、ゴロゴロしているような実体では、満足な印刷物なぞ望むべくもなく、運営されていることすら奇跡としか言いようのない状態でした。そこに2年間、わたし<たち>は20代の前半を言葉を吐き散らしながら勤めました。わたしにとり、未だ応答できない問いを投げつけたまま、しかも、わたしの「ままごと」のような日常生活を例に引きながら、佐々木幹郎に「なぜ書くのか」と問いて自死した、詩人奥村賢二の死を聞いたのも、あの松喜ビルの2階にあったバルカン社でした。わたし<たち>の生硬な言葉を、あなたは丹念にヨーロッパの思想体系から説き続けました。それは、自由連合風な組織形態をとった全共闘運動の余儘の中から語っていたわたしには、ただ自己の枠組に固執するアナーキズムの理論啓蒙者と写りました。その時のわたしの主張は、人との関係において、自分と人の現在置かれている立場を批判的に問い、その差を違和と認め、どうしたら共同作業ができるかを性急に求めていたように思えます。それは始末の悪いものだったでしょう。
一方、各々の個性を認めなければならぬこと、しかし1人では生きられぬこと。だから、その為の多くの作業が言葉などを媒介にして、長い時間にわたって積み重ねてこられたし、続けてゆかなければならぬこと、それをあなたは語っていたと思う。橋本さん
それはわかります。いま、そのことはわかります。しかし、それぞれの個性というには余りにも自閉的な、他人の入る余地のない世界が、あなたを深く、多く支配をしていることも、その頃、知りました。8月15日
あの敗戦を境にして見たこと、体験したことをわたしは確か1度だったかと思うが、聞いたことがありました。朝鮮で生まれたあなたは、具体的な事情は知りませんが、家庭環境の全く違った四国で育ったといいました。それゆえ、共同体に自分から反発するようになったからか、それとも共同体が相容れなかったのか、その先後はわかりません。しかし、愛国少年が多数を占める中で、橋本義春という一中学生が、理由はともあれ、異質なものを許さない共同体に対し、抵抗したことは想像できます。勤労奉仕やら何やら、共同体としてすべきことをサボタージュして何度も殴られたこと、また自分が直接加わっていないそういったことに対しても、やはり率先して殴られる途を選んだということ。そして、8月15日。
その日を境にして、愛国少年も愛国教師も衣装を変え、やはり元のように愛国少年、愛国教師の役割を演じてゆく。またしても押し出されるようにして取り残される方を選んだとき、一方で、彼らへの不信は抜き難いものから決定的なものへと変わって行ったに違いありません。いつも”愛国”です。国家とは何なのでしょうか、あなたのような少年を排除するのが国家の役目であり、イデオロギーがそれを補完するのでしょうか。民衆のしたたかな生活力という言葉があります。当時、満州の各地で見られた、日本、ソビエト、八路軍、国民党軍の支配に応じ、それぞれの旗を用意して振り続ける民衆に、わたしは「したたかさ」を思います。しかし、あなたの周囲の人々をそう見ることはできないように思える。なぜなら、彼らは国家や組織にもたれかかることで異質の人を排除するのだし、中国の民衆は根底の所で、国家というものを信じていないと思えるからです。
国家や組織と結びついてゆく人間はどこの国にもいるかも知れない。しかし、日本の国家・組織を深く、つよく、支配している共同体の構造は、戦後の民主主義社会で前近代的遺物として否定され、切り捨てられたとはいえません。むしろ、進歩史観を柱にすえている左翼の組織に旧態依然として残っていることは周知の事実です。そのような組織が「反核」のように、誰れもが反対できないようなスローガンをかかげ、政党活動に利用するのは、陳腐というよりも、結果的に異質の人々をあぶり出そうという風潮を起すならば、橋本さん、あなたが苦闘した世界をもっと知らなくてはならない。
その後、英語の翻訳を主な生業としながらバルカン社に参加しましたが、外国語を独学で、フランス語を皮切りに、中国語、ギリシヤ語をマスターし、最近はロシア語まで手を出していたと聞いておりました。彼方の思想、異端とも言える思想の紹介に精力を尽し、どんな組織にも半身でしか関わろうとしない意思を感じます。いってみれば、あなたの魂は異境の世界を漂流し続け、共同体の空間には決っして降りようとはしなかった。戦後の民主主義社会に対して一歩も二歩も距離をもっていたと思う。
橋本さん
しかし、はっきりいって、印刷所の社長としての業務はあなたにとって不得手な分野といってよいでしょう。従業員がやめ、1人っきりとなった部屋で自ら機械を動かしているのは、知識人らしからぬ姿でした。知識というものが、人間の能力の限界を説く方法の一つであることからすれば、むこうみずな荒蓼たる<無>知識の世界としか言いようがありません。それほどまでして、仕事にならぬ仕事を独り続け、意地を張ることはわたしの理解の埒外にありました。零細印刷所がワンマン経営か共同経営になるのは当然です。性格的にワンマンの道を選び難いのですから、共同経営、共同作業を各自が分担してゆくのも自然の成り行きとわたしは思ってきました。ところが逆に独りの道を選択してしまった。そこがわたしにはわからない所でした。しかし、同時にダブって浮んだ情景があります。それは讃岐の海をぽつねんと眺める橋本少年の姿でした。どうしても共同性から弾き出される(弾き出る)変わらない姿を、です。橋本さん、
あなたが言葉を獲得しようとしたのは、独りになることではなく、あるがままの事実が語り伝わる世界を信じようとしていたからのはずです。
”相京さん、意地で1年やったけど、やっぱり駄目だったよ”と、倒産した事務所の片付けを手伝いに行ったとき言われました。「そりゃそうでしょう」と冷たく言い放ちながらも、自滅の淵が先に待ち受けていることを知らないはずがないのに、やみくもに進まざるを得ないという過去に遡る共同性への意地が解るだけに、その言動を見ることはつらいことでした。同じように、あなたがインテリにからむ姿を見るのも忍びないことでした。大杉栄の肖像を描いた林倭衛の娘さん、おせいさんが経営する店へ、覚束ない足取りで階段を降りていき、ドアを押すのを楽しみにしておりましたが、そこに棲息する文化人を相手に何を語ろうと、消耗こそすれ、心を満たすものがあるはずがありません。そこに加わって駄弁を弄するのではなく、それを射つことにこそ、あなたの戦後の戦さがあったはずだからです。
しかし、そのころ、もはやあなたの肉体は病魔におかされていたのでした。病いが酒を飲むとしかいいようがない飲みっぷりは、わたしたちが<場>を持つことすら困難にしました。そして、家庭内においても、絶望へとひたすら向って行ったのだと思う。この2年ほど疎遠になったのは、進むしかない道を加速度的に突進してゆくのを眺める、精神的タフさをわたしが持ち合わせていなかったからにほかありません。
昭和5年生まれの、54歳。
しかし、ハタチの頃から15年、間断なく飲み、語り合った人がいなくなったことを認めなければならぬとは悲しいことです。しかし、また、しかしです。しかし、あるいは、そうなるしかなかったかも知れない、というのも偽らぬ心境でもあります。ですから、その8月15日に関すること、八木秋子のことで言えば、出版記念会で”文体を持っている”と評した橋本さん、その通信の印刷と製本をやって下さったという事実のみわたしは記憶することにします。サヨナラ、はしもとさん。
わたしに出来ることは、伝え継がれるべき言葉をおし黙ったまま逝ったあなたへの勝手な想いをないまぜにし、決っして卒直でなく、自説を曲げず、そして「相京さんはいいよなぁ」という言葉を議論の果てに投げた橋本さんに、このように別れを告げるしかありません。この『パシナⅡ』に乗る切符を買うことが、わたしの餓別です。
行先のない、だから、どこにでも行けなくはない『パシナ』にのせ、送ったっきりの彼方へ向うあなたを見送るしかありません。サヨナラ、はしもと・よしはるさん。
◆レオ・トルストイの家出
はしもと・よしはる
1978/12「1910年1月7日、アスタポポ。今朝6時レオ・ニコライヴィッチが死んだ。私は彼が息を引取る最後まで、入室は許されなかった。私の夫にお別れの言葉を言うを許されなかった。残酷な人たちだ」(ソフィアの日記より)
19世紀ロシア文学史上の偉大な作家、思想家、神秘家(パスカルを好んだ人)宗教家レオ・トルストイがあの宏壮なヤスナーヤ・ポリヤーナの家を秘かに遁れ出て、巡礼の旅に出てから、死ぬ迄の経過を、当時世界中の知識人が息をのんで見守った。何がトルストイ家に起きたのか? <幸福な家庭はどこでも同じだが、不幸な家庭の葛藤は千差万別である>小説「アンナ・カレーニナ」の冒頭でそう述べた作家の家庭の事情を読者は好奇心に駆られ見守ったのだ。
ロシア貴族の一員に生まれ、幼少からフランス語で教授され、プリンセス・クロポトキン (クロポトキンの娘は<戦争と平和>の英語抄録版を作り、1960年代に米国で出版) の記述によれば、あの小説「戦争と平和」に出て来るロシア貴族は、フランス語を語り、フランス語でものを考え、ロシア語で表現できないものがある程! それ程、フランス的であったと言っている。トルストイの教養の大部分がさように形成されていたというのは興味深い。
この点もうひとりの作家ドフトエフスキーとは対照的である。ドストエフスキーは落ちぶれた中産階級の出で、ロシアではピヨートル大帝以来プロシア的戦士を作るのがロシアをヨーロッパから守る方法と考えていた。それ故、彼は国費でまかなわれる軍官学校に学びドイツ語で会話できる程であった。ロシアの近代は教養においてフランス的で、実務においてドイッ的厳格さを要求したのだ。むろんプラグマティズムも入ってはいる。
しかし瞑想と人のよさを特徴とするロシア人、地理的に東洋を含むロシア人が世界史で何らかの役割を果たすには、英米のプラグマティズム<最大多数の最大幸福>を受入れはしたが、やはりドイツ的観念論とフランス的ユートピア社会思想をインテリゲンツアの滋養分としたのである (マルクスはその点で一つの典型だ)。ロシア革命を準備したのはそれだった。
しかし更に重要なのはトルストイが西欧文明に不満を表明したことであろう。西欧の思想としてのエゴイズム、科学技術の作り出す世界、そうしたものを拒否し、否定したのがロシアの偉大な作家、思想家達だった。ロシア的なものこそ世界を教うであろう。トルストイ・ドストエフスキー・ゲルツェン、バクーニン、クロポトキンの思想はそう宣言している。西欧は病んでいる。世紀末のニヒリズムとはエゴイズムの当然な成り行きである。
1881年以前に書いたものにつきトルストイが著作権を放棄したのは自己の作品の芸術性を拒否する程に彼の倫理性が高まったからだろう。しかしそれでも内的矛盾があった。ゴーリキが道徳的に<ポルノ>をどう評価するか訊ねた折、彼は答えている。「真の才能はいつでも二本腕だ。一本は倫理的で他の一本が美意識である。もし倫理的腕前の方が余りに上ると、美意識の腕は同じだけ落ちる。当然その才能は不幸になる」現代を通じて公的ソビエト文学の不幸はこの発言の範囲に含まれよう。
40数年トルストイに連れ添い、4人の男の子と2人の娘をもうけ育てた妻ソフィアの夫に対する不満は、著作権の放棄もさることながら、トルストイアングループも我慢できなかった。特にトルストイの秘書であり、グループの指導者チェルトコフについては、ソフィアは夫に対し、妻と秘書とどちらを選ぶのかと迫ったのである。その意味は思想運動と家庭の幸福のいずれを執るかと言うに等しい。その緊張の高まりの中でソフィアは心理的に傷つき狂的になる。彼は日記に書く。「狂気はいつでも正気よりその目的を達するものだ。何故なら狂人を引きとめる道徳はないし、恥や真実、良心、まして恐怖すらないのだから」。
娘サーシャに映った両親の確執は、トルストイと共に訪ね、精神病院でみた患者の生活を描いた映画のようだった。「父がよく言っていたのは、狂気はエゴイズムの1つの極端な形式ということです。エゴイズムの人は、すべての考えと利害が自己に集中すると言うのでした」。ソーニアは病んでいた。専門医師2人の診察でもパラノイアとヒステリーであった。ヤスナーヤポリアーナの家は近代文明の病気で侵され、彼が家出の際、読みかけにした本は「カラマーゾフの兄弟」であった。彼の遺言は、夫が妻に宛てたものとして立派である。「…当時、性的に欠陥があり放蕩者で、既にその青年期を過ぎていた私は、18才の純潔で善良、知的なきみと結婚した。私の悪い過去にもかかわらず、きみは私と共にほぼ50年を生き、私を愛して生活の苦労を共にし、子供達を生み育て、私を含め世話して呉れた。きみのような女性によくある誘惑にも負けず、いつも美しくしっかり者で健康を保っていた。きみの生活につき、私が非難するものは何もない。きみが私の道徳的発展について来なかった事実は特徴的であるけれども、だからと言って、それできみに反感はもたない。人間の内面生活は彼と神の間での1つの秘密なのだ。他の誰もが彼に対し、何らかの説明を求めることはできないのだ。私はきみに我慢できない。私は間違っていたし、ここに私の誤りを告白する……」
結局彼は孤独と魂の平安を求めて家出をしたのである。死の床での言葉は「…社会…理性」であり Fais ce quedois, advienne que pourra であった。ソフィアも妻として子供の母親として<その結果がどうなろうと、しなければならないことをせよ>というものをしたまでであろうか。1919年11月4日、肺炎での死にあたって彼女は娘に許しを求めている。「サーシャ、ごめんね、私はあの時期には自分の内に何が起きているのか判らなかったのです」トルストイは最後まで、国家、教会と和解しなかった。妻との和解もなかった。彼の生涯の餞になる言葉を見付けるとすれば、H・マルクーゼが紹介しているへーゲルの<理性の奸智>しかないと思う。
「個人は不幸な生活を送る。彼等は働きそして死ぬのである、しかし決してゴールは現実のものとならない。その苦しみと敗北こそ、真理と自由が進む手段である。人は決して自分の労働の果実を収穫することなく、収穫は次の世代のものになるであろう。けれど彼の情熱と興味は決して屈しないだろう。それこそ (情熱と興味) 彼が至上の力と至上の利益のために働く道具なのだ。<それが理性の奸智>と呼ばれるもので、理性のために働く情熱を仕掛けるものだ。その存在(理性の奸智)が発展するにつれ、衝動は報酬を支払わなければならず、失うもので苦しむのだ。個人は失敗し、死ぬ。理念が勝利し永遠である」
■参照『トルストイ』アンリー・トロイヤ著、『理性と革命』H.マルクーゼ著
『リベルテール』1978年12月15日発行、第107号 特集「トルストイ」より転載
☆はしもと・よしはるさんの主な翻訳
『社会主義の下での人間の魂』」オスカー・ワイルド 『政治の正義-財産編-」ウィリアム・ゴッドウィン 『今日のアナーキズム』ニコラス・ウォルター 『「大地」に発表された幸徳事件』 『フランス人よ、共和主義者になりたければ、更に努力を!』マルキ・ド・サド 『個人.社会・国家』エマ・ゴールドマン 『女性解放の悲劇』エマ・ゴールドマン