●第34夜 先達からの眼差し


 「パサージュ」と「アブダクション」。
 もう少しこの二つの言葉にこだわってみたいと思います。
 まず、千夜千冊からあらためて引用します。

■パサージュ

★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
          ◇千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン

 ■アブダクション

★パースは、すべての認知と認識のプロセスが相互に連携的で、総じて連合的で、すこぶる関係的であることに、すなわち【編集的である】ということに確信をもっていたのだった。
 このことをパースは思考における「シネキズム」(synechism 連続主義)ともよんだ。
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★パースのアブダクションは、帰納法をとりこんだ仮説形成型の推論の総体を示していった。与えられているものから与えられていないものに思考が進むのが推論であるのだが、アブダクションはそのプロセスを順逆両方に動きまわり、「本来はこのように与えられていた仮説があったのではないか」という方向を仮想的に樹立してしまうのだ。
 そのためパースは、アブダクションにはレトロダクション(遡及的推論)の特徴が濃くあらわれるというふうに見た。
 これはたんなる推論の理論ではあるまい。むしろ「発見のための推論」というべきだろう。実際にもパースはアブダクションこそが「発見の論理」ではないかとも考えた。ぼくがもっとはっきりさせるなら、アブダクションは【仮説の創発】なのである。
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★【新しい認識はアブダクションによってこそもたらされるという可能性】を示したのである。それならアブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ。そしてそうだとすれば、演繹や帰納はそのアブダクションの出来映えをテストしている役目をはたしている助さんと格さんということなのだ。
          ◇千夜千冊1182『パース著作集』チャールズ・パース

 この二つの言葉はわたしが八木秋子に出会い、そして通信の発行から著作集製作へと通過してきたことを振り返っている今、気分良く納得融合できる言葉です。出会いから現在までの八木秋子との世界は「パサージュ」であり、彼女との関係は「アブダクション」の連鎖であったと思います。

 これまで書いてきたように、東京郊外のアパートに独り住む八木秋子(80)とわたし(26)の出会いにはそれぞれ理由がありました。全共闘運動の余燼の中にいたわたしの問いに対応する、彼女の毅然とした姿勢には感応するものがあり、「触発連鎖」の連続でした。そのころ、彼女の半生を詳しく知っていたわけではありませんが、まずは信頼し、その世界に関心をいだき、彼女の未知なる世界を発見したいと、個人通信発行に突き進んで行ったのでした。その際の心境は第33夜に書いたことにも理由を見つけることが出来そうですが、それとやや違った視点からの未発表メモが見つかったので、ぜひ掲載したいと思います。

■相京メモ(1983)

 八木秋子に関わって以来、ずっと続いていることなのだが、何か大きな力によって私が動いているような気がしてならない。その大きな力は、「宇宙意志」という言葉があるかどうか知らないが、宇宙線のように日々私たちの体を突き抜けているような気がしている。銀河だったか小宇宙だったか忘れたが、その周囲に膜がありその外から眺めると人間の細胞に似ていると聞いた時、「宇宙意志」は確かにあるに違いないと思った。

 波に身をまかせ、流れにさからわず、気をため、一気に駆ける。気配を感ずるというその皮膚感覚のようなものを、私がずっと小さいころから体験してきた気がする。記憶として確認できないころ大人が語りかけてきた言葉は、後に想像の世界で甦る。

 いつも意識していることだが、その時点で自分が考えていることは、70~80歳ぐらいの人からみてどうなのか、様々な人生を歩んできた人から見るとどうなのかと、その視線は意識している。彼らと対面する時、彼らはその体験の中から私<たち>の表情と心をたちまち読み取る。だからそのような人たちの前に出ると自然体で、ある一点に集中しないと嘘の上塗りをしてしまう。その人たちは全て哲学者である。特に、言葉にならない世界を沢山もっている人は、やさしくて、凛としている。怖いところだ。

 それまでに得た地位、知識が、どれだけその人の血となり肉となりえているか、どれだけ<気>となっているか、その全てを瞬時のうちにさらけ出す。私はそこの世界を基底に置こうとしてきた。それを強く意識することで自分の選択肢を決めてきた。

 言葉でものを表現するということを考える。どれだけその言葉に切実さがあり、身体に沁み込んでいるか、それがまた滲み出るように言葉となっているか、そこが問われるのだ。

 私はトタン板の上に砂があって、その上に裸足でのぼる感覚がたとえようもなく嫌だ。そういうリンチをされたらまずオシマイだな、と考えている。上京したてのころ、学生運動内でもつ言葉の世界がたまらなくいやだった。<知らない>ということを<知らない>と言わない空間だったように思う。連合赤軍の結末は充分すぎるほど感知されていた

 その頃、政治にほんの少し関わった時、自分は何か特別な人間で、たいそうなことをやれる人間であるかのように思い、突出することだけで人との差を見て、満足していた。その満足したという虚像が現実である実像を衝き、やりきれなさを感じ、学生をやめた。印刷所で働き始めても、無力感を隠蔽するかのように、逆に観念的、先鋭的言葉を使って消耗を繰り返していた。いっそう苛つくばかりだった。

 そんなある日、印刷所で仕事を終え、新宿の新田裏の交差点にやってきた時、電柱にその年の3月に新日本プロレスを旗上げしたアントニオ猪木とカールゴッチ戦のポスターが貼ってあった。歩きながら、ふと、そのポスターを見た瞬間、お前はただの印刷工じゃないか、それでいいじゃないか、たいしたことをやろうと思うからいけないんだ、と思った。その途端、気持ちがいっぺんに軽くなった。新しく旗上げすればいいじゃあないかということだ。村松友視の本を見たらそれは1972年の10月とある。夕日が照りつける中を、西口の菊屋でビールを飲もうか、などと思っていた。

 その気負っていた部分を意識できたことはよかった。その時その時を精一杯生きられたらそれでいいじゃないか、ということだった。だから八木秋子の文章の中でも通信第3号の文章が好きだ。

『83歳というじぶんの年齢もわきまえ、前途には老衰と死があるだけだと思う。その覚悟を肚に据えて、まだすべての終焉までにはいくばくかの時間的余裕もあろうし、わずかな能力の残滓も生活のなかに身をおいて老衰と退歩に抵抗する、抵抗を継続するその闘いの中に、現在の私の命が光りを得て燃えることもあり得るにちがいない。ちがいないという楽観的な予測は、私が過去80年に経験し、思考の中で摂取し、生活の中で模索しつつ闘ってきた、その闘いのなかで徐々に蓄積してきた現在の八木という存在を善かれ悪しかれ信ずるほかないと思う』

 ここには、いろんな困難な状況に直面しながら、決断する場面において間違ってこなかった八木秋子の強い自負と責任のもちようが書かれている。組織や理論や時代のせいにせず、自分の所で処理している。わたしは八木秋子のこの文章に出会うために「在る」のだと思った。うれしかった。

 以上。

 


 このメモにある個人通信「あるはなく」第3号「わたしの近況」全文は、次回に掲載する予定ですが、今回この一文を先んじて載せた理由は、「第33夜:アブダクション」に続き、当時の心境を書いた数少ない文章だったからです。八木秋子とのアブダクション=推感編集や通信や著作集の編集を生まれて初めて行っていたわたしにとって、「宇宙意思」や「先達からの眼差し」というこの二つの言葉が当時のわたしをどれほど支えていたか、30年後の現在から眺めると、そのことの重要性がはっきりとわかるからです。八木秋子との「パサージュとアブダクション」を支えた原点をみつけた思いです。

 ともあれ、1977年の夏から秋にかけては「あるはなく」の予想以上の反響に喜び(第29夜~第31夜)、「八木秋子」の位置づけを必死に考えていた時期だったので、「アブダクション」という言葉に感応し、その時の気持ちを2回にわたってまとめてみました。続く秋から翌年の春にかけて、彼女は「父・八木定義」の執筆に専念し、わたしは「八木秋子著作集」製作に向けて奔走することになります。その後は、通信・著作集の編集発行を進めつつ、彼女に襲ってくる老いと病への抵抗と折り合いをつけつつ、二人とも精一杯の4年間が始まるのでした。

■2007年7月28日 
猪木と対戦した「プロレスの神様」ことカール・ゴッチの訃報が届いた。享年82歳。

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