八木秋子が入所した「東京都養育院」は東京都板橋区栄町35-2、東武東上線大山駅から歩いて5分ほどの所にあります。今回、彼女が養育院での生活を書き綴った「転生記」を掲載するにあたり、思い立って25年ぶりに訪ねてみました。池袋から3つ目の駅である大山駅を降りるとにぎやかな大山商店街に出ます。踏切を渡り、商店街から路地を抜けるとすぐに、養育院の大きな建物が見えましたが、四半世紀前、何度も通った道筋はあまり変化が見られず、ちょっと不思議な感じが残りました。
しかし、院の敷地に入ろうとして門を見ると、看板には「養育院」を示す文字が消えていました。「東京都立養育院」は1999年12月に127年の歴史に幕をとじていたのでした。
門から入ってすぐに実業家渋沢栄一の大きな像があります。彼は92歳でなくなるまで50年にわたって院長をつとめ、月に一度は養育院を訪ねていたそうですが、その銅像のそばにあった案内図を見ると、いくつかの建物の名称は黒いテープのようなものが貼られていました。八木秋子が入っていた「明々寮」の表示も消えていましたが、あたりを見回し、見覚えのある建物の方に向かって歩いていくと、八木秋子が通った図書室のある「希望棟」がありました。しかし、周囲は夏草に覆われており、もう何年も使用している形跡は見られません。坂を下っていくと、今度ははっきりと記憶していた3階建ての「明々寮」が見えてきました。
八木秋子が大腿骨を骨折して瀕死状態で入院していた他の施設、「光風・和風寮」は現在も板橋ナーシングホームとして存続しているようですし、隣接する老人病院もたくさんの利用者が行き通っていましたが、しかし、八木秋子が入っていたあの明々寮は、廃墟のように全く人の気配がありません。しかし、この「転生記」をまとめているせいか、一瞬、あの「廃墟」特有の時間を超えた何とも言えないざわめきが聞こえてきたように思いました。八木秋子が居た1階の部屋、食堂、事務室、玄関、そして、よく車椅子で行った公園の藤棚の下、等々。25年振りに訪ねた建物が「廃墟」だったから幻影としてそれらが思い浮かぶものなんですね。いまこうして転生記をあらためて読み返すと、あの「廃墟」に一つひとつ情景が重なっていくように思います。「廃墟」は饒舌。行って良かった。
さて転生記です。この養育院での生活日記「転生記」は、およそ1年間にわたる日記で、彼女は何冊かの小さな手帳に書き続けていました。文字量は400字×200枚。そのうち、今回は生活に関わるものを抽出して編集しました。
八木秋子はその中で、日記について、次のように書いています。
1977年12月24日
私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。
わたしはここに八木の魅力の一つがあると思います。日記とは何でしょうか。彼女は1950年代半ばから1970年代前半まで、10数年にわたって日記を書き続けておりました。その一部は八木秋子著作集Ⅲ『異境への往還から』に掲載しましたが、大学ノートで20冊ほどの日記(独り居日記)が残されています。それらを前にすると、八木秋子独特の「日記に対する想い」を感じます。彼女は「生活を書くことで心が定着する、資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する」と書いています。おそらくそうだと思います。記録資料であり、独白もあります。しかし、彼女はただひたすら「書くこと」に憑かれて日記を書き続けていたのだと思います。周囲の「モノ」「ヒト」を見て書き、自分が「こころ」を開いて見たか、確かめていたのです。
「書く」という行為は何のためにあるのでしょうか。その時もいまも八木秋子の日記を読むたびに、彼女の自問自答に考えさせられます。それだけ、彼女の日記には何か不思議な「ちから」が満ち溢れているのです。
この文章の最終行「秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ」という言葉には、わたしは何度も励まされて来ました。天空に放げたもののうち、両手でつかめるものが「いまの自分にとって必要なものなのだ」。詰めに詰め、どうにも手に余って決断する時、振りかえるな、未練を持つな、余剰を捨てろ!
では、養育院での日記「転生記」(2)をお読みください。
転生記
1977年9月21日
明々寮へ引っ越し。昭和51年12月10日この東京都立養育院本院に入所以来、一ケ月の間に厳重な身体検査を受け、本来ならば新入寮は一ケ月以内に病者以外は凡てどこかの寮へ定着を命ぜられるのだが、私は1月早々脱走事件を引き起したせいか、その後一度も移動の話はなかった。明々寮食堂で「9月誕生会祝会」、ごちそう。事務所の係長のすすめで私は立って木曾節をうたう。終わりを待たず新入寮から荷物を運ぶ。肝心の借りた本の大切な風呂敷包みがないのに気づき、あちこち往復してもない。
新しい明々寮の室は7半帖、M、Oと私。これが私の終の棲家か。Mは目の覚めているかぎり喋言りまくって止むことがない。Oは沈黙で彼女の雑言と悪口に耐えている。この一階に先んじてきたSが訪ねてきて、相変らず食物をくれる。これからやはり食物のやりとりであろう。相京君から借りた吉本隆明の『最後の親鷺』が出てきて大安心したら、今度は返本、村上一郎の「無名鬼」『人生とはなにか』がそっくり不明(あとで古巣に預けてきたことを思い出す)。一方の饒舌がうるさいので希望棟へ-と思うが雑念、雑事で行かない。
1977年12月7日
Mに着衣を何枚も盗られたというO老婆、85、86才との戦闘はつづき、電話でよびよせたOの実妹が横浜から上京、事務所の寮母2人もここへやってきて、昨日の盗品の話になり、明日2人が付き添ってMが盗品を入質したという質屋へ実地取調べに行くことになる。ところが、被害者のOはあたまが呆けて品物の陳述がしどろもどろ、はっきりしない。当の私の下着類や着物などまるで少ない。それを言いたてたら事はますます面倒になる。誰もが記憶がうすれ、誰もがしどろもどろなのだ。バカバカしい争いに巻きこまれたくない、第3者として終始したほうが潔くて気持がいいではないか、そう思って私は被害者になることを避けた。Mの浪費癖は相当なものだ。いつもカラッ尻なので彼女は金欠病に骨まで蝕ばまれている。だから他人のもの、たとえば衣類、はきもの、下着類、などと大小を問わず、眼にうつるほどのものを我物として、何の反省もないのだ。一方のOはこれはもう激しい被害者意識で、あとからあとから幻のわが愛する着物、羽識、帯、時計、など思い浮べ、老いの説明を試みる。一方の加害者といえば、まるで底なしの水流のように滑らかな舌から阿呆だら経よろしくあとからあとからと限りなく言葉が流れる。2人の対峙の仕方がつくづくいやになる。Mは他に移そうにも引き受ける室がなく、この部屋を出れば住む所がない。最後の室だと断定せられていて行き場所がない。そんな人物の生きているこの部屋へ何故私を入れたか、どんな目的で押しつけたか、意味がわからない。私はどんな人物と同居したとしても大低意味が判っているので、最小限度、希望棟の図書室を利用させるよう押す外はない。どんな室だって大同小異、この建物にいる限り自由はないのだ。人間を変えることは至難中の至難だ。私などその代表者かもしれない。まずこの部屋の小宇宙で、なんとか生活の雰囲気を変えることが-と思ってキリストの愛を、罪の許しを体現せしめつつ来たのだが、何一つ実らなかった。空白、空虚のみ。新入寮の何ケ月かの私の体験として、ある病院からきて病院に追い返された高井女史との3、4ケ月の生活に対し、我が一切の自我を殺して、仮の、偽りの平和を生んだあの期間の忍耐が、あるいは事務所に逆の私の印象を与えたのかも知れない。闘いか忍耐か、一切をすてた私に一切の重荷がかかってきたのだ、私がもっと戦闘的で裁判官のような切れ味と重荷をもって、そして女の道に徹した敬慕される女性だったら良かったのだ。そういう模範的な老人だったら、そして善は善、悪は悪と峻別する独裁者の断定をもっていれば-これこそ私としては至難な道なのだ。こういう生活の中では指導的立場にある人は、独裁者の凍りつく冷たさと決断がある時には必要であり、おおらかな円味がなくては-という、私が間違いか。何しろ、ある場合には冷たい決断と、言葉以上の態度が人を動かすのかもしれない。といって支配と、決断と、大局をみる瞳が必要なら、それが一歩誤まればどんな誤りを招くか、悲劇の種子を蒔くことになるか-。
いま同室で争いの渦の中にいるO老、わたしに寄り添っているMも。私は少し濃密にすぎるようだ。いつもある距離をおけ。
こういう施設などでは盗難事件が起きたらまず品物の有無を調べ、それには質屋を調べる、その上での談判で、まず盗品を証拠として調べる。この順序というわけで事務所の寮母、それに被害者たるべきO、盗癖者のMと3人が何の質札もないMを案内して3軒の質屋へ証拠固めに出かけた。その結果、一枚の質札もない所から衣類3点を引き上げてきた。但しMの記憶によって選び出した3点で、その他には一点もなし。Mの発見した衣類は、その場で寮母が支払い、Mの物となった。Oは大分被害額を数えていたが、結局3点の品を買い戻して貰ったMの勝利となって了った。
どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。
1977年12月11日
私たちの隣室にすらりとした人で静かな人がいる。松尾輝子、という人。日本画を描き、書もりっぱで、希望棟の2階階段の上に大きな達磨の肖像-座像を描いたのと、その並びに立派な書風で達磨の心が書いてある。これが彼女の話した入選の画であろう。阿弥陀如来や仏の悟りが書かれている、この人となら-つきあえるかもしれない。
1977年12月24日
私は一年、ついに日記を書かずに空白の日を送ってきた、書けなかったのだ。この空費した一年の欠落は何とも大きい。私は日記をつけようと思いたった。このことの意義は大きい。抽象的なことよりか、ここの生活を書くことで私の心が定着する。生活に影響するところは大きい。資料として残す意義も大きいし、生活そのものが生きて躍動する。おもしろいものが出来るだろう、捉われずに踊らすのだ。それで私の重なる一年の迷いもどうにか定着するに違いない。
秋子よ、長い眼で物を、人を見よ、心を開いて見たものを一応天空に放げろ。
1977年12月31日
大晦日である、思えば今年は私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」-私はむつかしいことは一通り相京君にまかせて、ここの生活に振り回されながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。
この季節になって文字どおり、一文無しのMばあさんは興奮して弟にお金請求の電話をかける、電話番号が間違っていて、いくらしてもかからない、間違っている。事務所に泣きついてようやく通じた。その結果5000円速達で送ると、それを聞いたとたん歓声をあげ、とめどなく万歳の真似を演じ出し、とどまる所がない。飢え渇えた者への慈雨だ。やっと安心。日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来事、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。
1978年1月1日
年賀状が沢山来た。85枚ほど。配達してくれた寮母が驚いている。年賀状は書くのが苦痛だ、決まり切った型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき、世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、その前、パリに行き、労働、ただ絵画に対するおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」-農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた-。
1978年1月2日
年賀状がちっとも書けない、短い文章を-と思っても思い浮ばない。
同室のMばあさんは待てども弟からの送金が届かないのでめちゃくちゃの興奮とヒス、おしゃべりで手がつけられない。おひる少しまえ3階の沢田さんが年賀にくる。干柿とキャンディを出してごちそうする。一時間ほどして帰る。彼女は私が新入寮のとき同室だった人で、ヒス気のないおとなしい何でも手まめに出来る柔和な人だ。日医大教授で兄弟で病院を経営していた病院に20年勤め、15人ほどの入院患者の食事から一切世話をして働き通した。中途で脊椎になり、一年間下谷病院に入院加療、その末が院長たちの勧めでここへ来た。
テレビで野村万蔵・万之助などが花折りの狂言をやった。子猿がよくやって愛らしい。日本の能と謡に狂言があるのはおもしろい。Mが、つまらないとヒスを起しテレビをまわす、私がおこって直す、とうとう私は(つんぼの強情っばりばばあ)にされて、おこりながら終わった。あの人達の好むものはつまらなくて-。久木田さん、新聞のおばさんと廊下の小林君に信州リンゴを2つづあげた。
1978年1月3日
おもち、おぞうに、のごちそうだ。お昼過ぎお風呂から上がってきたら、息子-娘の家に帰ったIさんが娘と息子に送られて帰ってきた。せめて3が日は遊んでくるだろうと思っていたのに。息子は日大の夜学を出て警視庁に勤めている。母の自慢の種だ。「どうも、おっかさんがたいそうお世話様になります。なにしろ、ごらんのとおりの強情っばりで言うことを絶対にきかない年寄ですから」「ほんとうに困ります、この通りですよ」とこもごもいう。みかん、そして羊カンなど3個づつのおみやげ。その場でお茶のおかしとしていただく。いくら待っても弟から送金のないMばあさんはしきりに2人にとり入ってお世辞を言っている。こんな良いところにきて何もかもけっこうで、私たちは年寄りのうちでも一番しあわせ、息子と娘は、ああいうばあさんですからどうぞがまんして面倒みて下さい、と繰り返して夕飯少し前に帰って行った。賀状を書く手がだんだんふるえて字が下手になった。何が仕合わせか、ああいう人たちの集団生活の中で何が-。
言語障害の人がある。その人と私は食堂で隣り合わせだ。その人はやかましい人で、忘れものでお風呂でうんと怒鳴られたことがある。その人は病気でほとんど御飯を食べない。そのことで話し合って、気の毒とは思ったが他の人のように過食よりどれだけましか。帰ったらMに非常な激しさで、あんな女と決っして話しをするなと食ってかかられた、他の部屋にいた時、ひどく怒られたことがあるのだろう。そんなことに干渉される必要はない。ひとりで怒っている。愛もなければ喜びもない、テレビをみてゲラゲラ笑ってやまない。
1978年1月4日
終日年賀状を書き50枚を越す。
相京君から来信、帰郷し5日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は<父・八木定義と養育院における今の日記><読者よりの手紙><古いノート>をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社-満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は5日に帰ってきます。15日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月30日)
私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。
1978年1月6日
私はMと同室になってから、この生活に絶望し、書くというたった一つの生き甲斐にさえ絶望しかけている。3分毎にくるくると人間が全く豹変する人間のおそろしさ。これはもう人間ではない、人を一瞬時も安定させることのない変幻極わまりない獣の感覚である。感応するとか、受応するしないの区別ではない。
1978年1月11日
来信の中に三鷹の小谷秀三氏の手紙あり、前便に(美しく老いることを願っている)と書いてあったので、あの人にとって私の老い方など何の関心もあるものか、と思いながら読んでいくと、「あるはなく」に記された私のひたむきな生き方に大きい同意を示し、自分の生き方、一家の平凡な生き方は-
小谷秀三氏の手紙
-美しく老いることの難しさを乗り越えて、わが道をとことん追及しいてゆかれるお姿に心からの敬意を捧げます。小平の相京さんから貴女の人生記録と思想の通信3部を頂きまして拝読。お若い頃からご自分の人生を探究されて、その道をひたむきに歩まれた80年の人生の在り方に圧倒されました。私も私なりに若い頃色々な思いに迷いましたが、迷いをそのままにして、安易な人生を歩いてきてしまいました。-何か生活にコクがないようにも思います。比島での苦しみは-安易な人生で終始してきたことが本当の真実であったかどうかと疑問を持つことも-。「あるはなく」を拝読し、一筋の道を歩く貴女の姿に心をうたれます。
数年前の拙宅での郷土を偲ぶ集いは-やはり古稀をすぎてくると、回想を喜ぶことが中心となります。孫と遊んでいてつくづく、無事に過ぎる子供達はこれでよいのだろうかとさえ思います。平和すぎて回想さえもない老後になりはしないかとさえ思います。失礼な言い方かもしれませんが、貴女にとって理解されない良人をもたれたことは却ってよかったことではないでしょうか。麦踏みのように、逆境こそが人間を成長させるとか。何だかそんな感じがします。
相京さんはよくああいう事をされました。幾分の御協力をさせていただきました。またつづいて4号~5号を出版されることを待ちます。筆をとり、人生を考え、老いることなきお心に、重ねて敬意を捧げます。
乱筆失礼 小谷秀三
1978年1月29日
日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。
3度の食事を知らされ、卓について食べるということは一体何であるか、スチームがどこにも通って寒さ知らず、感冒の非を知ったら床をとって寝る。わたしなど年中お菓子だの果物などほとんど買わない。行住坐臥、ボリボリ、モグモグ口を動かし通しに動かしている人も相当ある。お茶は配給で、ただ。熱湯は時間によって汲んで来られる。この生活の子ども同士のような、単純な言葉のやりとりからくる争い、それさえなければここの生活は規則の中の自由、束縛の中の自由意志、などの微妙な兼ね合いでどうにでも加減できるみたいだ。規則を、束縛を感ずるときは感じ、用のないときは横を向けばそれで時の動きとともに流される、危機をのり越えるということもなく、環境慣れからずいぶん鈍化してゆくのだろう。おそろしいといえばおそろしいが、何よりも生理的に当然来る老化現象と解すれば-。とにかく私は老化に抵抗を、鈍化に抵抗する鋭化を-。意識してなるべく規則的に積極的にやらねばならない。とにかく近いうちに病院の眼科へ行く必要がある。老眼鏡の度が合わなくなって活字に骨が折れる。
1978年2月1日
2月だ。2月、怠け、さぼり、連絡も何もせず、する気もなくとうとう2月だ。何の変化もありはしない。このところわが部屋は無風で無病だ。いまは私も彼女を無視して気にせず、語らず。感情とは無縁に、要するに当らずさわらずで無視しているからだ。彼女がどうあろうと、無視して我がまま通すに限るのだ。自分の挙措に一々注意を向けられる気配がないと知ると、一度に緊張がゆるんで何も張り合いがなくなるのだろう。自分に注意を向ける周囲というものは、そのまま存在の価値がなくなるのだ。
とにかく忘却の速度の速いこと、この速度で記憶力が薄れてゆき、この生きている世界が茫漠と消えていく、そのことはおそろしい。
1978年2月5日
明々寮3Fの老婆が3階の裏側から中庭のコンクリートの床に投身自殺したことを夕方聞いた。浴衣のねまき、前もって脚立を手すりの前におき、その上に草履のはきものをきちんとおいて、手すりの下は人眼につきにくい芝生(私達の部屋からは裏側)に跳び降りて頭骸骨と胸骨を折って死んだのだ。76才と聞いた。聞いたのは告別式のあった翌日で何も知らないあいだの死であった。弟が一人だけ参列と聞いた。
1978年2月20日
ながく日記を遠ざけた。このあいだ感冒(流行性)というふれこみにしていたが、本当はスランプというより外ない状態であった。ここの空気になじんで生活の雰囲気に慣れてくるに従って、私の唯一の武器とも鋭気ともいうべき闘いの意志・意欲が少しつつ剥がされていくのはわかる。これではいけない。ここにいることが何物にとっても私には無意味に思われる。欲しいのは肝の底からの闘志、図太い闘志である。これがもし磨滅する、あるいは平和の旨酒に唇をふれること、これが一番の敵でなければならない。
ところがいまの私の状態はより多くより甘美な平和ではないか、常に絶対の現実に対する不満、孤独の不安、現実に対するというより自己に対する暗黒な不満、これが最もわたし自身の深部にある不満と焦燥ではなかったか。何も強く捉え得ない自己への不満である筈だった。ところが、この自己に対する不満の奥底には私自身の生活との強い繋りがあったのではないか、満たされざる幻想、内面とともに刻々と迫りくる貧と空虚との絶えまない追跡への闘い。内面の空虚との喝望との不毛の闘い。
そうした不毛の闘いであった、と思うようになった。では現在はどうか。それを想うことは私には大きい変化である。この異常ともいうべき他人との共同生活、心のふれあいもなく、言葉の喜びもない、美しいもの、温かいものへの感動のない、ただ生きているという物理的な、生理的な無感動な存在にしか過ぎないのではないか。変化から変化へとその時の感情のままに、感傷のままに生活を衝動的に生きてきて、いまこの人生の終焉に近づいて、これほどの空虚な場所に身を置いて、あたりを見回わして、「さて」と、わが安全な場所を改めて眺めまわす。
私自身、低迷、文章への懐疑などから、まず身近に迫っている問題、沢山の人々に対し返事も書かず、そのままにして省みないこと、この返書の負債感の重みはどうしようもない。この重荷をぶち破って一気に魂の接触に迫りたい。それを実行しなければならないという切端詰ったところに来ているのに、私自身の心理がどうにもならぬ沈滞の状態にきているのだ。どうにも打開できぬ沈滞、スランプでしかないのだ。
1978年3月5日
さて、年老いて、最後の終焉も近づいてきた私は、いま何を為すべきか、わがこととして、わが周囲のこととして、悦びも悲しみもともに感じ、ともに生きる、その生きることをいまここで掴み、いまこの時点で生きる出発点としなければならない。生物として、足りないものの一応ない。生きる条件の整って、別に不足のない今の境遇に安住していいのか。物足りて何か想う。与えられるものを感謝して受け、感謝の祈りを捧げつつその日その時を生きよ、と。衣食住、欲っするものは与えられ、たとえその質が問われたとしても、別に不満を洩らすことは許されるのであろうか。最低として許されたとしても、それを当然の恩恵として甘受していいのであろうか。
1978年4月4日
私は新入の人を迎えて感慨深い。この前、もう1人ふえる(部屋に)ことを宣言されたときから寮の職員たる人にいうべき言葉を用意していたのだ。「Mという女性とともに生活する限り私の生活は滅茶苦茶だ、この私を生かしてくれている<物を書く>という仕事は中絶しかあるまい」と思って、私はかなり強硬に抗議した、どうしてあの人を精神病者の思考構造者と同じの手つけようもないあの人をなぜ、いつまで私たちに押しつけて置くのか-。
しかし、事務所では忍耐の一点張りで押しつけたままであった。が、一緒に暮してみると堪えられない、というまでの嫌悪、一瞬も無言で過ごすことが出来ず、目のあいているかぎり何か喋べり通さなければ一時も我慢ができないのだ。その他、その粗暴な感情とふるまいは忍耐の底辺にいる同居者を苦しめて離さない。私は思考の上にも、この自己犠牲をもっともっと深めて行ってみようと決心した。そうして思った。彼女はいつも自己しかない、欲望にも喜怒哀楽の感情の上でも裸のまま、ありのままである。他人の目、耳、感情などに支配される必要を認めない、いつも裸のままのいつも感情をむき出しにしてどこでも独歩であった。その中に、何とはなしの致し方ない愛嬌がある。悪意の中の曲った愛嬌か。
1978年7月15日
昨日、14日、隣室の松尾輝子さんが歌集、逝かれし良人との思慕のうた、神、仏、幻影のあくがれ、そういう文集だ。まず亡き夫君はまだ30代ぐらいで永眠されたらしいが、愛妻を想うこと切。妻に寄せる愛絶の情はもう非常なものだ。その切々たる思慕を書簡に表現している見事さ。ここまで妻を識り、愛し得る男性は少なかろう。ただ、その愛絶の良人はヨーロッパ各地を回って自転車の売り込みを本分として、虚弱な肉体を酷使した人だ。しかも自転車の売り込みという強行日程で虚弱な体の不安を秘めつつ、大企業の利益のために早逝を覚悟の上で酷使し、その間自己の仕事にたえず不安を感じていたのだ。自動車ならぬ自転車の売り込み競争とは。どうしてそれを○○(2字不明)しなかったのか。しかし、この人の信仰は夫婦の愛を超え、さらに我が子の死さえも超えて全身が燃えていたのだ。歌集には随分自由な、佳いものがある、大きな何か、悠々たる何かを持っている人だ。
1978年7月16日
夜、隣室の松尾輝子さんと面会室で定刻まで話す。彼女は私が貸してあげた「あるはかく」の5号までを読んだという。そして、彼女は「アナキズム」とは何ですか、という質問から始まって、私の経てきた軌跡を話したら、何か感じたのか、何からどう聞いたら良いか分からないらしかったが、久しぶりで生きた社会の勉強をさせて頂いて、久し振りで人間社会へ帰ったような気がします、と言っていた。彼女は類いまれなよき良人をもち、熱愛され、富豪ともいえる家に嫁ついで、その夫が結核になり財産も凡て注ぎこんだ末に死なれ、子供も死に、ここへ送られてきた。幻影の仏さまは絶対である、夫の生前から、生花、茶湯、書道、俳句、日本画の修業をして、いまも相当その名残りが光っている。絶対の仏と神を信じ、その信仰に全く安心し没入している。その人が私の思想を知りたがり、興味をもっているとは。だが軽々しく人を信じてはならない。彼女は私の文章の若さと男性めいた断定の仕方などに興味をもっているらしい。