八木秋子通信「あるはなく」に連載した都立養育院での日記を、なぜ「転生記(てんしょうき)」と名付けたか、その理由を何度か聞かれたことがありました。実は、ちょうどそのころ出会った本、林竹二の『田中正造の生涯』に思うところがあったからでした。ここでは詳しく触れませんが、足尾鉱毒事件の田中正造は、最晩年に「思想的大変化=回心=自己否定」を行います。彼女の日記名を決める時、その「回心」から連想して浮かんできた言葉が「転生」だったのです。
転生とは甦り。第36夜について、次のような感想をネットを通じての読者の方からいただきました。『八木さんの文章、世の中のたくさんの人に読ませたいと思いました。気負いがないのにこれだけ気迫が充ちる、とは・・。それが「老人ホーム発」という背景。そういう場にこういう言葉がしずかに、当たり前に、はっきりと在りうるんだということ・・』。このように彼女の声が新しい読者に伝わっている、この八木秋子の時を超えての多様な「甦り」をわたしは発行当初から願っていたのです。
さて、今夜は「通信あるはなく」の発行に関わる転生記を一気に掲載しようと思います。長いです。1977年8月に第1号が出来上がり、翌年の3月に発行される第5号までの期間にあたりますが、第35夜で触れたように、この期間はわたしと八木秋子が最も頻繁に共同作業を進めた「熱っぽい雰囲気」に充ちた時期に当たります。第29夜~第31夜はその頂点というべき「対話」を掲載しました。そして、秋から春にかけて、八木秋子通信は読者の要望に応えて八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』の刊行に向けて疾走したのでした。
では、お読みください。
第1号(1977年7月17日発行)
発刊にあたって ★第13夜
私の生きざま
常に私の戻るところ、負のバネ
★第16・21・22夜
キリスト教の影響について
直前で諦める事は無意味なこと
セックスというのは大きいことだ
飛び出たけどそれからがね……
それぞれが生きるということ
再び家出する
衝動的な直観と偶然を信じて
跳び越えたいけど”我”が
第2号(1977年9月20日発行)
わが子との再会 ★第27夜
協力者の一人として 相京範昭 ★第25夜
第3号(1977年11月20日発行)
わたしの近況 ★第35夜
八木ノートより1 ★{割愛}
父・八木定義のこと ★{割愛}
八木への通信 西川祐子 ★第24夜
八木秋子著作リスト
第4号(1978年1月10日発行)
独房 ★{割愛}
薪の火を焚く ★{割愛}
第5号(1978年3月10日発行)
転生記(てんしょうき)
父・八木定義のこと(2) ★{割愛}
八木への通信 相京
<松本市・牛山>
<小金井市・赤松>
<厚木市・しのだ>
■八木秋子日記「転生記」 秋子(82)相京(28)
1977年8月15日
1昨日、相京君が私のパンフレット、「あるはなく」が刷れて、30部程養育院へ届けて下さった。体裁はさながら教会の通信類と同じ。どんなに薄っぺらで、表紙もなく、奥付もない貧弱なパンフレットでも、これは最初から相京君が骨折って世に出して下さったもの。読んでみると、私の気になっていたテープの写しとしては断片的な、そして浮いている感じがわりに少なく、少し筆の走りが早いくらいなことでガマンできる。私も養育院に入所してから、とにかくこれだけの仕事をなし得た、という感謝と満足が私を落ち着かせる。
なかなかよい。
9月1日
「あるはなく」は相京君が私の知人に何部づつか送ってくれて、その反響はたいしたことはないけれど、かなり明確な共感と、賛辞をもってよせられた人も多い。多いといったところで、根が少数の人々であるのだが、松本の渡辺映子さん、京都の西川祐子さん、『婦人戦線』で一緒だった大道寺房さん等である。西川さんは、相京君に宛て(内容は私あてのもので。註:第24夜)これまで私が書いた「婦人戦線と高群逸枝」に書いた永島暢子とのこと(註:八木の親友。敗戦直後に満州にて自死)、私が過去友捨てと子捨てで深刻な自己否定の結果、自己を捨てきったところに救われた最も純政治的な女性(註:これは八木秋子の誤解【原文:八木秋子はもっとも政治的でない人で】)―と評価し、しかし子捨ては内容がちがう、とその私の自己否定を評価している。彼女は、かって、農青運動の頃の日本の社会状勢を反省し、今日何が満たされているか、何が少しでも救われているか、その不分明なところに仮の安定を感じている内心の恐しさを表白した。彼女は、かって私が婦人戦線に書いたファシズムの鳥瞰図社会時評(註:著作集Ⅰ159p)を高く評価し、私の図式の明晰さを認めている。そして、この小冊子「あるはなく」の発刊を喜んでどこまでも続けて欲しいと。この人の「あるはなく」の次号からの期待にぜひ応えたい。
さて、では今後の執筆の方針は、根幹はどこに置くべきか。子捨ての途中、親と子の再会まできてとまどっている私は、今後の執筆の方向を決めねばならぬ。ただ母と子の泪―子の死、人情といえばいえる後半について迷いかつ苦しんでいる理由だ。1号を繰り返しくりかえし読むうちに、古山との結婚生活において、私の感じた性への絶望と嫌悪、性とは何ぞや、の考察をもっと私なりに深めていったらどうなるか、私の絶望なるものは、あくまで浅く、ほんの入口でしかない。子を捨てるまでの絶望は単なる心理的な理由だけでなく、もっと肉体的な、生身の生理の理由がなければならない。男と女との絶望にはもっと肉体的な性的な原因があるのは当然であろう。私のあたまに、その代表的作家として性を重視した人に坂口安吾・太宰治、という2人の作家が頭にのぼった。
性―無頼な生涯、といえば、まず2人が挙げられよう。私の小冊子第1号は夫婦の性のほんの僅かだけ覗かせたに過ぎない。そして私のペンはその小さな入リ口しか描いていないが、性こそは自己否定の、全否定の、つまり全きか然らずんば死、という生命の問題の鍵である。いかなる否定も、いかなる苦悩も、いかなる愛も、この性を避けて通れない。性こそは人間存在の鍵なのだ。仮に<罪と罰>をとりあげてみても、あのラスコーリニコフに性のかけら、性の匂いだけでも加わったとしたら、あの作品はどれだけ様相が変わるだろう。主人公の否定に、もしくは主人公の絶望にどんな影を投げかけるか。<カラマーゾフの兄弟>に、もし神の子というべきアリョーシャに、一切を否定する2男に性を体験として与えたならどういうことになるだろうか。これは想像しただけでも巨きな問題である、これ以上の宿題はないだろう。あまり巨きな宿題を持ち出すまでもない、ただ私は小冊子に何もまだ書いていない。まだ嬰児でもない胎児でしかない。私はこれから生きる残り少ない余生を、いっぱいの勇気をもって私の生命をかけて書いてみたいのだ。今からどんなことがあっても悲観することはない。どこまで書けるか書いてみょう。性に眼が届き、性を少しばかり覗きみたうえはためらわず書こう、書き続けよう。羞ずることはない、おそれることはない。どんな女でも子を生もうと思えば、子は簡単に妊れる。女である以上自然のことで可能だ。意志によらず、否定の理性によることもなく。
しかし、性の深化、芸術的昂揚、美化はむづかしい。これからが問題。斜陽、人間失格、グットバイ、などを熟読すること。変わり者、変質者、人間失格はそれでゆけ。これからの生き方はそれしかない。周囲との違和感。孤立、抵抗に対する魂のあり方、全て自らの自己否定で押し進むこと、他者に働きかける捨身の抵抗と積極性。
八木秋子は生きている、まだ死なない。死んではいない。ここに生きているのだ。
9月×日
こんどの「あるはなく」で私の肉体と霊魂の中に僅かに残されたエネルギーがあの短い一文の中に絞りつくされた感じ。この短文の続きについて相京君から示唆を受けた。あの子別れをもっと続けること、農村青年との当時の理解、共感、活動など―。あの当時の農村の惨状は必要だ。―しかし、それの詳述には私の知識蓄積ではとても不足なのだ。そして、実際問題としてあの1930年代のアナキズム運動をありのままに列記するには憚るところが多いのだ。運動と名づけられない憚るところの多いのも事実だ。
とにかく―「あるはなく」、を読みかえせばかえすほど、あれは八木の自己否定そのものだ。そして、どこにも理性や完結性のない、破滅への転落そのものである。情熱と瞬間しかない衝動そのものだ。子を捨てて後の生き方において、他人を説得できるような理性や指針となるものが根本的に欠けている。坂口安吾や太宰治のような旗色鮮明な没落や破滅はよほどの蓄積と混迷の上に立たなくては生まれない。私の「あるはなく」―の出来はよほどの険しい断崖を跳び越えぬ限り、生と死を越えた、否、死をみつめ、死を覚悟した上でないとその破滅に至りつけそうにないと知るべきである。こう考えると、破滅の先にあるもの、現実畏怖、現実暴露の先きにあるものは性の再評価と性の再生でなければならぬ。性は人間にとって、殊に創作を志す者にとって避けて通れぬ人間性の昂揚であるといわねばならぬ。ことに、性は飛翔したことの経験のあるものにとって墜落の体験ともなり、そこから人間の自由が生まれる。自由は死より。死は復活を生み、その復活は絶望とともに美しく自然。死を眼前におくもの、見るものは何物よりも自由で、それゆえ美しい。
「あるはなく」の構想が子との再会まできて行きづまり、苦しんでいたとき、「あるはなく」で知人の評価をうけたことが起死回生のバネとならんことを。否定と絶望から起きあがるバネとならんことを。
さて、「あるはなく」を書き活字となったことが私の心の眼をひらいた。書くこと、書き進め、書き続けることは終焉を意味する。私は前途を顧慮することなく書きすすめよう。まず太宰の斜陽を読み、人間失格を、さらに死に近づいた頃のものを読むこと。性の芸術的昂揚には古山時代からの道程を、小川未明氏の残せるものを、生田春月の不徹底さを宮崎(註:宮崎晃は八木秋子のアナキズム実践運動「農村青年社」における中心人物であり同棲していた同志)との思想と性の破局を。在満日本人の、ことに永島暢子の脆弱性を、半官半民という生温い生活の可能性を衝いて性の不徹底さを不変の志向に。生活の生温い依存と帝国主義の圧制の双股生活の不安。あのひと(女)の姿勢にはくずれたところが見えますね、の千葉課長の言葉―くずれた、といった言葉。
満州事変の深化―皇旗のもとに満州開拓農民の選出、満州民族の冷静さと知恵。日米戦争の迫る気配のもと、ナチの没落によっても目をさまさない日本。戦争の恐怖を知らないのは性の奥態を知らないから、性の混乱が戦争を生み、その混乱が家庭の秩序をかため、その秩序の破綻から変革の曙光が射し表われる。革命運動と性の自由、最後の一線を越える民族、民族の独立、民族の自由と性―。源流は食糧よりも性の志向と渇きの混乱、秩序よりも性の本態の生理的混迷、経済の視野に潜み秩序と生産の機能を動かすもの、視野の拡がりによる生理的把握。終末と死の断崖に脚をおく危機感(観)と自己解放。自己解放による政治の死滅、政治よりの解放は性に原点(食と)、組織や機構を変えるのは枝葉末節。
9月21日
「あるはなく」第2号出来。やはり相京君の意見をいれて健一郎の酒店のこと。その死で終わったのは返すがえすよかったと思う。あれを理論や他のものにしたら、とても収拾がつかないものになったろう。母と子の再会の行くべき道としてよかったのだ。
★参考:第27夜、25夜
9月24日
23・24日と相京君宅へ2泊。相京君の勧めで共同保育、ディン・ダン・ドンのメンバーなるママたちと半日を送り、団欒と理解のよき時間をもつことが出来た。どの人も若いママで、どの人も在るがままの人、若い母、若い妻で、さまざまの話題で語り合った。
なかには思想の科学に執筆している「大御心と母心」の筆者(註:加納実紀代さん)で、鋭い人。高群逸枝の全集から、あるいは思想からの話題が多かった。話の中で、高群の書いたものには天皇制の否定はなく、むしろ夫婦とも擁護の理論であり、その点どうだろうか、という意見だったので、それは高群夫妻の擁護者であった下中弥三郎の思想傾向からきているかも知れないが、もっと深く、高群が女性史執筆の原点をどこに置こうかと考えたとき、彼女に閃いたのは本居宣長だった、本居の思想がそれであったのではないかナァ、といったら皆肯定した。高群全集を貫く思想はそういうところに発想があったのではないか、といった。
皆の質問は高群夫妻の生活、その常識を越えた生活だったようだ。メンバーの女性達がどう感じたかは知らないが、奥さんの話しでは、どのメンバーも何かを私から感じたらしい。帰りには全員玄関前に出て、さようならを叫び、手をふっていた。
9月25日
日曜。相京氏に送られ、帰途につく。花小金井駅まで、それから清瀬まで、判かっているようで判からない。わがあいまい模糊とした頭脳に腹が立つ。清瀬―池袋―大山と送って貰って明々寮へ。何のことなく帰った。責任のない私は外出にも心は軽いはず。部屋の間断なきおしゃべりには閉口。
9月27日
私の返事を書かないのは小事を強いて大に何でもないことを深刻に考える性行によるものだ。他人に会いたくない、孤独が好きだという私の考えはエスカレートして、生活上に必要な事務的なことまで白紙のままだ。通信のたえること、無音がどれほどの損失と誤解の種子となるか、よく知っているが、とにかく手紙を書くのがいやなのだ、手紙の文章と原稿としての文章とは違うのだ。
12月6日
どこも、部屋は変わっても大同小異、私はただ希望棟へ行く自由を確保したつもりである。この界隈の人達は、相京君の面会に来るのをだいぶ問題にして噂の花を咲かせているらしい。
12月11日
相京君が来た。私の部屋で話す。通信第3号の刷れたのを持って。今度のは私の冴えない頭のせいか、書き終わりが尻きれになって映えない。相京君は次号に私の内面と宮崎君との公判廷における陳述、私の運動に対する幻減、運動全体とアナキズム運動の批判(男と女の相距たる相違など)をぜひ書くようにと繰り返し要望して去った。
それを書こうとして、なんとしても筆がとれない。宮崎君との決裂、逮捕されたときの彼の最初のハガキ、差し入れとして岩波の植物学全集からその純学術的な終わりのない専門語、ドイツ語の困難さ、生活の問題を書かねばならぬ、何よりも宮崎君自身のアナキストとして指導的、指導者としての適否、アナキズム運動の空虚な実像―。農青イズムに目ざめた意義、そこで地方同志を知った実効などをとおして実感した農青イズムの実像などを書かねばならぬ、これは考えても大変なことだ。とても雑報に書けない、書ききれない。そこで低迷にまたしても落ち込むことになって何も書けない。
■参考=「あるはなく」第3号 後記(相京)私の可能な限りの『目録』を作成した。その他、読者の方で補足されるものがありましたら是非御一報載きたい。読者からも指摘されることだが、通信の限られた枠内では彼女を識ることに一定の限界がある。そこで、ここに掲げた彼女の著作を復写印刷で来年3月を目標に発行する計画を進め、それを通じて、彼女の現在の一つ一つの言葉に込められている「闘いの中での蓄積」を感得する一つの手段にしたい。正直いって、僅か数号で彼女を識ることはできないし、何十号と継続する間でまた始めに戻って読み返せる通信を求めて行きたい。また、彼女の文はそれに充分答えうると思う。私が身近で接っする彼女はまだまだ充分に紙上で暴れ回ってはいない。読者が期待するものもそこだと思う。次号は彼女が書き溜めておいた活動中のものを一気に掲載し、12月中に発行したい。
12月24日
けさ、ようやく書いた「八木定義Ⅱ」が書けたので相京君に電話した。24枚だ、あす行くかも知れない、だったが今朝きた。父定義のは選挙に勝って、病院で大沢と八木との対話などを書き入れ、判検事の来たこと、などをからめてやがてくる没落と悲劇について予告を試みた。
12月24日
西川さんの手紙は何度読みかえしても倦きない。だが分析が利いて本当に理解するのはむつかしい。
12月28日
1時頃相京君から電話、午后2時にいつもの喫茶店で会おうという。いま駅前の喫茶店で待ちつつこれを書く。帰ってきてから書く、相京君から届けられた葉書により熊本の弁護士庄司進一郎氏(註:庄司宏弁護士の父)が熊本市内の病院で急性脊椎炎のため急逝されたそうだ。よい人だった、いよいよ、あの世へ急行する人の多いこと。
1977年12月31日
大晦日である、思えばことしは私にとって特に記念すべき年だった。「あるはなく」私はむつかしいことは一とおり相京君にまかせて、ここの生活にふりまわされながらうろうろと書き続けた、文体にも自信とはいえないまでも落ちつける気持。日記を書くことに気がついて、相京君の賛成を得てからずいぶん気持に活気をとり戻した私だったが、肝腎の日記になるものの材料が少ない、まるで無意味みたいな日常なのだ。日記にしても現象がはっきりしていること、材料に興味と面白みがなければ。だがその出来事の羅列では仕方があるまい。ただその雑事、出来ごとと、人間のこころを指し示す認識なのだ。これは技術的にもむつかしく、永久に絶えない課題であろう。
1978年1月1日
年賀状が沢山来た。85枚ほど。配達してくれた寮母がおどろいている。年賀状は書くのが苦痛だ、きまりきった型どおりの文句なのだ。テレビでシャガールをみる。シャガールが現存の画家とは知らなかった。彼はロシヤ生れ、大河の辺りで貧しく育った、ポーランドに居住しているとき世界大戦、ナチによるユダヤ人の迫害でユダヤ系の彼はアメリカに脱出するが、そのまえパリに行き、労働、ただ絵画にたいするおそろしい情熱、そして恋愛。そこでシャガールの原像、原色彩を発見、アウシュヴィッツの悲劇を知る。ピカソを知り、またパリに行きそこでゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」―農民を見出す。彼は画くこと、そこに生きた―。
1月2日
年賀状がちっとも書けない、短い文章を―と思っても思い浮ばない。
1月4日
終日年賀状を書き50枚を越す。
相京君から来信、帰郷し5日頃帰ろうと思う。来年(ことし)は<父・八木定義と養育院における今の日記><読者よりの手紙><古いノート>をのせて行こうかと思っている。いずれにしても、先日書くように勧めた八木定義・小川未明・有島武郎、女人芸術、農村青年社―満州、母子寮、の自伝とこれから始める日記の連載が主柱になります。続けてお書き下さい。私は5日に帰ってきます。15日前後に私宅にきて下さい。私は八木さんのお蔭で、生まれてこんな充実した月日を過したことはありません。私の内で言葉にならなかったものが、八木さんを通じて自身の中で整理されてきたような気がします。感謝いたします。(12月30日)
私が相京君に発見されたか、相京君が私を体得してくれたか、奇縁、妙縁。どちらも似通ったものがあり、触発されたか。ようやく雑煮からごはんへ切り換え。やはり我々は米と味噌汁へと辿りゆく民族だ。わたしも希望棟行きを中止して久しい。いまはダンボールの箱を使っている。相京君から電話で、田舎から昨日帰京した、ついてはこんどの4号をすぐにも出したいので、未決での父親との対面の校正ができているか、との問いにイエスという、きょう4時すぎにとりに行くからいつもの喫茶店で落ち合おうとのこと、諾と返答。IはきのうMに頼まれて50円金を貸した、返すでしょうか、とバカみたいな心配をしている。夕食が遅くなるので、Iにごはんをとっておくことを頼んで例の喫茶店にでかける。
相京君は私の仕事のことしか頭にない。実に若々しい、記憶がいい。私がしっかり書けばあとはスムーズにいくばかりだ。銀行事件-、崩壊の発端、新聞。村有林売却の7万円の件。町のさわぎ、銀行の取付事件。町の発狂者、家出人。ついに父の言葉により30冊の日記が下の小舎から出る。長野妾宅における悲劇、大沢の拘引、××病院長の声明。八木父の召喚状-長野行、汽車は闇の中を光りの尾をひいていく。
諸々方々へ電報で-。見舞客、福島祭のタ。長野から大沢茂、杉本紀平など到着。弁護士の件、長野の大沢の容態、馬市の馬。教会の青年教師。木曾川の洗濯。保証人各家のさわぎ。初秋、大正4年秋半ば。
その他、独房での父との対面。大正4年秋半ばーその前夜、長野の父より電話、朗々たる声。明夜帰る。手分けして道々に迎えに出る。電球、いろり。父・母・姉達、兄、父の眼。父は独房で差入れあり、三河屋のコック面会。私の書いた父との監房での対面、対話の原稿が出てきたおかげで随分助かる。これのおかげで4号は早々と出そうだ。相京君によると星野君は(註:八木の同志、後に『農村青年社事件・資料集』全3巻を共同編集した。94年刊行)、「あるはなく」について好意ある批評と援助を送ってくれた。山田よし子さんの不幸の時は一言もふれず冷たい態度と思っていたがやはりそうではなかった。沈黙の間に見守り、声援を送ってくれたのだ。うれしかった。
1月8日
午前カレンダーを何気なくみると1月12日になっている。Mがたくさん日付をちぎることをして、本当は8日であったから日記を安心した。『傷ある翼』を読む。こういう平板な感じの文体は私はそのまま真似ようとは思わない。
私信をみる。西川・渡辺・宮木氏からの来信はなかなか良い。きのう、相京君には古い関係の人に通信を送付するようたのんだ。注目のうちに帰る。異性の訪問者ということだ。
1月12日
日取りがよくわからない。相京君から電話で、いま4号の仕上げで大忙がし、とのこと。明日は土曜日、明後日は祝日(成人式)、だから、土、日と僕の家へ泊るつもりで出かけてきてほしい。14~15日と泊る予定で-という。明日の14日に私宅へ来る予定で出て、ひばりが丘で降り、駅で待っているように。妻か、ディンダンドンの一人が迎えに行くから、という。いつまでたっても道順が不安な私を羞じる。
1月13日
カレンダーの先千断りでよく日付がわからない。今日は13日だ、14日は土曜日、15日は祝日(成人の日)で日曜日。だから16日は休日で連休なのだ。カレンダーが判らないので事務所へ日付を聞きに行ったら、一ヶ月先まで千断ったことの理由を聞かれて、話した。くだらないことだ。我ながら。
相京氏宅へ行く支度を考える。ズボン、セーターなど、よそゆきのもので一つもろくなのがない。ズボン二つのうち、茶よりも黒い方にしよう。セーターは、末明さんの御3女、岡上夫人からいただいたものにしよう。お菓子の残り3箱。1月14日
14日午前9時頃、Iさんの片脚痛、病身の人を残して、相京君宅へ向い出発、ひばりが丘下車。ディンダンドンメンバー林さんの自家用車で出迎えを受け、共同保育所に行く。2階に上り、相京君が買って下さった有島著『惜しみなく愛は奪う』を読む。私の目ざす有島の言葉はこれにはなさそうだ。李枝ちゃん成長しており、おどろく。当番のママがおひるにうどんの温くおいしいのを作って出して下さる。あとで聞いたら香代子夫人の手料理とのこと。○○の気しきり。心地悪く老衰を感ず。3時近く2人の若いママ来り、2階で話す。私の結婚上京頃の伊藤野枝、などの人物像など聞かれる。親疎さまざまの肌理で感想を語る。そのうち、私の記者時代の話になり、入社試験のこと、神近市子女史の記者像。断髪洋装の実行へ。その認識から木村泰賢博士【千夜千冊96】のサンスクリットの質問、芥川龍之介氏【千夜千冊931】の訪問など。記者時代の明暗を語る。インタビューの感触など。あと、林夫人の車にのせて貰って相京家に回る。林夫人は現在日劇に出演中の有名無名の俳優を相手にさまざまの面で接触しつつ、2人の幼児の母としてたいへんな活動だ。相京君は帰宅していて、さっそく通信の第4号をみせてもらう。こんどの号は「独房」という題名で、未決の独房の装置を描き、そこで15年ほど前の父・定義と再会する。
その父と私との対話を16ページに載せている。父と娘が父と女児らを語り、母ときを語り、宮崎を語り、そしてアナキズム運動を批判、運動の思い出を、私自身の情緒過多、そのあとの運動者としての自己批判、再生への道などの考察について語っている。最後は尻り切れだが、そのあとに私の唯一の詩「薪の火を焚く」が附加されて16ページ、厚みがあり付記として「ダンボールの空箱を机がわりに一字一字刻むように書き綴っている姿を想像されたい」と記してある。長すぎた感もあるが父と娘の気楽な対話の中に語られる思想、思想運動、そして夫婦、愛人、社会愛など語ってのん気な中にも面白い感情がある。
全部を通してみると決っして感傷に溺れた訳でもなく貧弱の中にも真実があり、私もうれしい。
★参考=「あるはなく」第4号 後記(相京)
黄ばんだ原稿用紙が糸で綴じられ、何度も手を入れた跡にまるで彼女の心の襞を垣間みた思いがした。しかし、基本的にこの通信は彼女が現在綴る文章で埋めてゆく方針に変わりはない。部屋の片隅でダンボール箱を机代わりにして言葉を刻む姿を御想像願いたい。次号から現在の彼女の日記を連載しゆくので御期待を。
会計報告(77年11/17~12/30)
収入
新規定期購読料 11250円
賛助金 27460円
支出
印刷費(第3号) 12600円
発送費 4100円
複写代 2350円交通費他 3220円
1月15日
午后(赤松)という中学の女教諭が私に会いに来られる、理性的な冷徹ともいえる教育者だ。いろいろ語るのを聞き質問、説明など現代の教員の性格をみる。この女性が周囲の友人・知己に「あるはなく」を話し、購読に力を貸して下さっているときいた。すじ道を立て組織的に考え、語る。現代の教育者の考えのキメ細かさを感じる。夜、コタツで相京君と(通信)の今後のことについて相談する。私はこれを機会に少しジャーナリストの間に持ち込んだらどうか、と云ってみた、(農青運動史刊行のとき、私は新聞社の書評係へ出かけ、毎日を除く3社へ掲載して貰った。だがA君は反対、個人の結びつきを主張する。
1月16日
午前、ざっと室の掃除などをしていくらか気持よくなる。同家で借りた身障児収容施設の事態と収容児が綴った本を読む。
朝から李枝君が風邪気味、その子をおんぶして私をひばりが丘まで送ってくれる。ママは今日休日だが、おんぶして出かける。池袋で降りて西武の地下でパンケーキをコーヒーで食べる。そしてのりかえ、午後4時近くに帰寮、何ごともなし、平和、平凡。
実際、こういう広い施設の建物から見るとまず民家の暖房のない建物の寒さ、狭さが今更のようにピンとくる。日本人の住宅に改革の眼をむけよ。1月18日
今日は希望棟へも行かず、一日通信への執筆を考える。4号の独房での八木の父上と私との会話も寓話みたいで思想の核心をぼやかしてしまった感じがあるにはあるが、結局ああ書かずには行き場所がなかったのだと思う。
次の号に予定されている彼と私との対話というか、最後の決裂への自我の独立を宣言、宮崎がよこした通信を発表しようか、それを出発点としなければなるまい。相京さん宅でいただいた菓子折をあけたらおせんべいで美味しかった。開けて2人に分けてあげたら、あまり貰っていて悪いわね、何かお返しをしなければ-と言った。Iさんの右脚ははれて病む、それでも病院に行かず内職に通っている。平田しげさん、しげさんの手紙で木曾福島の長福寺御老師が92歳でつい先日永眠、20日にお葬儀とか、御老師に弔辞を送ろうか。1月19日
「あるはなく」の第5号に書くべきことを考えながら文庫本を読み、雪のあとの春日でつい居眠りをする。私達と左隣りの部屋にかかっているボロカーテン。それがいつも気になっていたので2人に話し、隣室の人々に話してみたらみな同感だった。それで事務所のS女史に話し、新しい布を見立てて買って、その実費を皆で分担すればよいということで諒解した。1月20日
1ヶ月先までカレンダーをちぎったので日も判からないし、曜日もわからない。すべてがぼやけ半分居眠りの状態、何度も4号の独房を読む。16頁で随分長い、あれには私の本心が含まれている、同志は憤り軽蔑し、私の本態をみて呆れるだろう、知らない人はここまで恥をさらすとは-と嘆息するだろう。かまわないのだ。もっともっと暴け、もっと書け、秋子よ。1月21日
次号に書くべき原稿に、この生活の中の日記がある。ここの利用者で早大出の人で風変わりな人がいる。このまえいろんな話を聞かせてくれた人だ。その人に「あるはなく」の1号を見せたら、じっと読んで何か書き込んでいる。その書きこみ、ボーダーラインをみたが、別にピンとこない。話しをするために講堂-会議室へ連れていかれたが、自分の経歴ばかり果てしなく喋言るので呆れ返り、私は何の発言もしなかった。ただ、こういうものを書いたという事実が、この中の生活から生まれたというのは、これは驚くべきことだ、といって占師みたいなことを言っていた。私の文章にはおどろいたらしい。1月24日
相京君から速達がきて、私の年譜などで月日など不明なところを探せよ、というので調べて氏に電話したら、箱根へ行かれた模様、近く訪問して下さるのを待つことにする。
次号の八木父上の事件について書き始めようとしても、どうしてもペンが進まない、滑り出さない。あの4号は、ある人がみればふざけているみたいで腹もたつだろうし、情緒の人々はうなづけても理性には根が浅くて物足りない。しかし、あの文章にはたぶんに戯画化しているところもあるが、飾らず偽わらぬ私を出し、語り、踊らせているところに、人のよい私の真骨頂が出て面白いと思う。1月25日
どうしても独房の続きが書けない。書けなければ強いて書かなくてもいいじゃあないかと思う、その下から、ここまで歩みつづけてきてここで挫折するのかと思えば口惜しい。これからどんどん書き続けて、いくつもの障害をのりこえて歩むとしたらどんなことになるか。あまりに私のペンは、思いがけぬ変化によって、自分で思いもよらぬ境地に自分を引きずってしまうので、手が出せない気持になるのだが、まさにそれだからこそ、書き続け、書き続けよと自分に叫びたい、どんなものがいつどんな所から生まれるか、まるでわからないのだ。1月29日
日曜だ、日付も曜日も何もかも忘れてぼんやりしている、いまに自分を忘れてしまうときが来やしないか。2月4日
昨日電話したら、いま忙がしくて行けないが、土曜の紀元節に行けたら行く、との返事だったので、例の喫茶店で会うことにして待ったがついに電話も本人も見えず。やはり、私のサボタージュで立腹したのかと考えて心配になる。感冒で先月末以来のグズついたという事情はあったにせよ、私としては控訴院の言渡しのあと、宮崎との言葉のやりとりで受難の決着を考えなければならなかった。それをすませて、出所、東京での生活、就職運動、唯一人の満州への脱出(その前、彼との面会、会談の模様、その前、毎日の放送、出征軍人の見送りなど、そして奈良に降りて博物館の彫刻、出発など)一応書くべきことは多い。この大きな区切りに際し、宮崎との別離を書くことは必要だ。2月11日
日増しに春映温かしだ。3日ほど前、相京君が訪ねる電話をくれて、例の喫茶店で会った。彼は大きな紙袋にいっぱい校正の原稿をつめこんできた。『女人芸術』時代(註:発行人長谷川時雨【千夜千冊1051】)のこま切れ、アナ・ボル論争の端片、その他いろいろ。2月中に校正を仕上げてくれまいか、なるべく3月前に5号を出したいという。とにかく、あの幻影の獄中父子の会見、あれを境にうんとすべすべ角がとれ、円満解脱みたいな感じに傾斜しつつあることを銘記せよ。相さんの先日の話しでは、3月早々、早稲田あたりの小さい会場を入手して、八木さんを囲む会を開きたい、というわけで準備を進めるからそのつもりで、と言った。討論みたいになるかどうか、いつもの通り私はそのままの自分で出席するだけだ。準備としては、「あるはなく」に書いたものを読み返すだけ。
2月23日
午後1時、講堂で、一時間半のいねむり、2月22日、夕5時半、駅前の喫茶店で相京君と会う。『女人芸術』連載の藤森氏とのアナ・ボル論争、ツェッペリンの飛来、林芙美子【千夜千冊256】との九州講演旅行など沢山の校正を命ぜられた。なんとしても仕上げねばならぬ、出直せ。相京君は著作集に多大の望みと光をみつめている。私ももたもたした悩みを全てふきとばし、まずじぶんの足もとから出発せよ。
希望棟へ行き、まず校正に赤ペンのないことに気づき、さっそく区民会館通りの文房具店へゆき、赤ペン3本、帰って階上の静寂に身を埋めたところへ教会の小坂姉が現われる。大高姉と2人で来て待っているという。部屋に早くも大高さんとあの金丸さんが待っていた。雑談。Mは2人の信者に、お嫁に行ったことがあるか、子供を2・3人産もうと思うか、などと平気で聞き、自分の結婚せざるの弁を説き聞かせる、おどろいたことに。3月3日
女の児の桃の節句である。沢山の原稿-女人芸術の古い原稿でおちおち眠れない。全く相京君の熱意に押され、その希望と八木秋子著作集の校正と執筆と校正の為に何もかも消し去って夢中の日を送っている。
おひな様をきれいに飾り、午後2時からみんなのためにお節句のお祝いをして下さるとのことで、食堂は浮きだっている。こういう収容生活のことだ、あられ、草餅、じぶんのおはし、お茶わんなど持ちよりで集まる。職員の音頭で余興になる、因みにごちそうといえぱ、お昼は鳥肉のそぼろのごはん。まぐろのおさしみ、など。それぞれにさっぱりとした若がえりの姿、髪もどうやら整えた姿である。先日相京さんと行った写真。できてきて見たらやっぱり幻滅。老衰そのままの顔、姿だ。お節句の余興になって、司会者が私に何かやれと迫ってくる。木曾節をうたう、どうも一つっきりののど自慢、お国自慢。よそ行きに飾った老女たちを交えた余興には、7つボタンやここはお国を何百里などが、そして女の側では従軍のうた(看護婦のうた)などが得意そうに-。環境も時代も思想もきれいに無視している。口のよくわからないおばあさんが、箱根の山は-のあの明治調を歌い出す、あの漢文調の唄はむつかしい。同室のMがいそいそとしてやっている。おもしろい。配給のあられをさっそく平げて心細い顔をしているM老のためにわけてあげた。
3月5日
苦心惨憺だった原稿(八木著作集のはしがき)、八木父、の校正など、校正をのぞいて最も苦心したはしがきの原稿(11枚)を書きあげ、夜着いた相京君に渡して結果はともかくほっとした。八木著作集は通信「あるはなく」にひき続いて私の生んだ子供である。子供といってもこれは主として相京君の意志と熱意によって生まれるものだ、
その第1集が出版されようとしている。私の著作集が-。私はそれらの校正、正誤、その他の用務でまるで1日中夢中でおろおろと過している。3月10日
八木秋子著作集が、通信「あるはなく」に出版予告され、通信第5号が発行。その出版予告されてから、私はこの住居にあって心も生活もそれにつれて変わるべき運命というか、我が子が生まれるよろこびを感ずる。
■参考=「あるはなく」第5号
●八木秋子著作集Ⅰ 3月末完成
A5判 上製 1300円
本文200頁 9ポ2段組
口絵八木秋子の著作集がいよいよ3月末に出来あがる。収録したものは「第3号」に掲げた「女人芸術』(座談会は除く)「黒色戦線』「婦人戦線』『農村青年』そして『婦人公論』の「回想の女友達吉屋信子」、『埋もれた女性アナキスト「高群逸枝と婦人戦線」の人々』の中の「明るい肯定の人・高群逸枝」「マルキスト・永島暢子との思い出」である。そして、その他に小川未明らが発行していた『種蒔く人』の婦人欄に投稿した「婦人の解放」、また昭和2年『婦人公論』に載った「優れた女性」等、京都の宮木典代氏、西川祐子氏、東京の関陽子氏の御助言で加えることができた。一応彼女の著作集第一巻としては満足のいく内容である。
彼女の最大の魅力はその紀行文、文明批評的ルポルタージュにある。その予言者の如き言葉は様々な意味を持って私達に問いを投げることは、第3号の西川氏の文章の中でも語られている。中篇小説「1921年の婦人労働祭」、「ウクライナ・コミューン」はロシア・ナロードニキへの当時の血のたぎりを感じさせる。
私は現在の「あるはなく」の文章とこの著作を重ね合わせて是非読んで頂きたいと思う。また末尾に彼女の略歴を載せた。その必要なことは発行以来、耳が痛くなるほどいわれたことだが、「あるはなく」の出発が私信の延長線にあることで、つまり彼女を多少とも知っている人に送り続けてきた事情で今までは載せなかった。が、読者が読者を誘って下さり、もはや私信といってはいられなくなった。そこでこの著作集を購入して頂くことでその点も補うことができるかと思う。是非沢山の方に読んで頂きたいと思う。<相京>
★参考=「あるはなく」第5号 後記(相京)あわただしい一日が実感を伴って過ぎてゆく。しかし彼女の内にある時間には未だ及びもつかない。ぐっと地に潜む時は気を蓄え、一気呵成に空を飛ぶ、風を起し、そして批判を乞いたい。
私は彼女の何に一番関心があるかと尋ねられたら、こう答えようと思う。それは宗教と思想の混じり合った世界に60余年棲息してきたということだ。だから彼女の用いる「神」だとか「愛」だとか「絶対」とかは一般的な言葉でとらえられないと思う。たとえば健一郎さんのことに触れて「相京さん、わたしは本当に母性愛が無かったのよ」と突然私に語り始めた。私は丁度その時彼女と同時代に華々しく活躍したアナキスト詩人竹内てるよの超然的な母性愛自叙伝を読んでいたので、それと異なるという意味で「そうですか」と肯定の抑揚で答えた。があとで「はてな、彼女ほど他人に無償の愛を振りまいた人はいないし、まして子供にだって最後まで見守ったじゃないか」と思い不審だった。が前述の竹内てるよや高群逸枝の戦争中の問題と重ね、彼女が母性と母性愛の言葉を峻別する姿勢に気づいた。母性愛、父性愛、夫婦愛、郷土愛、祖国愛、そして同志愛。その世界を吸いあげて造りあげたのが国家であリファシズムであるなら、今一度私達は彼女の世界を探る必要があるのではないだろうか。彼女は少なくともその「愛」なるものの虚妄さを拒否して生きてきた、そして真の価値を求めて生きている。その秘密は第一号でいう「飛び超えたい』一線を、即ちその間合いを、彼女自身で切ることができるからではないかと思う。会計報告(78年1/1~2/28)
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