■表紙
『近代の<負>を背負う女』 八木秋子著作集Ⅰ
■帯
・高群逸枝、住井すゑらと共に<女>の解放を目指して闘い、そして83歳の今日もなお、底辺の生活の中で自己の<問い>を背負い続けて歩む著者の初期評論集
JCA出版 1300円
■扉 本文
口絵 (著者近影)昭和53年(1978)3月撮影
◆目次
Ⅰ
婦人の解放
優れた女性
北海道の旅
柿をもってきた父
男性訪問 安部磯雄-安部さん答えざるの記-
言葉・表現
議会見聞 寒そうな肖像
略歴 八木秋子
チャルメラの記録
黙る
向日葵のある朝餐
公開状ー藤森成吉氏へ、曇り日の独白
無銭記 断たれた両面
一周年記念の芸術祭
「蒼馬みたり」評
九州旅だより-林芙美子・八木秋子-
簡単な質問 (藤森成吉氏へ)
人から聞いた話 黴びた西瓜のたね
凡人の抗議
ツェ伯号:女人芸術・連盟
隅田氏の妄論を駁す
ビルディングと鼻
文芸時評
神宮裏断片
留置場点描ーブタ箱風景
Ⅱ
一九二一年の婦人労働祭
書評 黒い女(高群逸枝著)
ウクライナ・コムミュン
ーネストル・マフノの無政府主義運動ー
嬉しかったこと
調査欄 日本資本主義の鳥瞰
社会時評
調査欄 資本主義経済と労働婦人
詩 薪の火を焚く
満州新国家建設とは
Ⅲ
回想の女友達・吉屋信子
明るい肯定の人・高群逸枝
大平洋戦争下のアナキスト・八木秋子の場合
マルキスト永島暢子との思い出
八木秋子年譜
あとがき
◇あとがき
わたしの現在までに書いたものといってもほんの少ししか残っていない。なぜなら、あまり残したいと思うものがなかったことにもよるが、ほんとうは「生きたい」-というやむにやまれぬ力に押されて、なりふり構わず困難な道を歩きつづけてきた、という、そのことにも因るのかもしれない。真実に残したいものは『何か』を、永いあいだ知らずに生きてきたものと考えられる。その「何か」に気づいたとき私は、東京都立養育院という代表的な老人ホームに収容されて、老人達とともに、死にいたる一条路を正確に、無駄なく、歩みつづける最終訓練の日を送りつつある自分自身を見いだしたのであった。
私の若き日は困難な道を歩きつづけたというが、歩いた、というよりは闘いに明けくれたといい得るかもしれない。家庭にたいし、社会にたいし、そうしたもろもろの観念や道徳や、歴史にたいしても私一個の批判を向けて、みずから迷い、うたがい、苦しみ、反抗してひるまなかった。当然のことながら、非合法の生活環境の中で恋愛し、生活し、大新聞社の記者としても活動しながら、転々として居を変え放浪ともいえるような、無頼とも言える不毛のすえ、老年に身を置いて、いまさら感慨という言葉も奇妙と謂えるかもしれない。
ただ私は現在の自分自身を決して不幸だとも思えないし、長い過去の道程を、闘いを、失敗だの敗北だのとは思わない。私の旅は終焉に近づいたいま、自分にも信じられないほどの喜ばしい転換を、私に齎らしてくれた。私には私の知らないところで多数の、といっても私自身の想像にもよるが-私の過去の生き方や考え方の生んだ、従って歩みつづけ、現在生きつつある軌跡に興味と関心を抱いてくれる未知の、また既知の心の友人が『在る』という事実を知ったのである。
この新しい発見までには一つの道程がある。昨年春、私の心の友、相京範昭君が、常日頃私のアパ-トの部屋に足を運んで語りあった私との対話を、簡単な何かの形で文章として遺さないかという話を持ちだしてくれた。私はこの対話という申し出がどんなに嬉しかったか。だがこれの実現までには大きな困難があることが思われた。
相京君は大切な時間を都合して、足を運んで下さった。ある時は見とおしの樹立の下で、あるときは廊下の隅で、言葉を選びながら語り、あるときは情熱の赴くままに涙を押えながら語った。相京君の最初の言葉はわたしの胸を強く打った。
「あなたが若いときから思想やその運動で闘ったことは、或る程度雑誌その他に発表されて知る人もあることでしょう。だが、僕が思うに、あなたの生活や行動の原点となったのはわが子とのこと、即ち子との別離、愛なき結婚からの離脱であり、そのことがその後の生き方の常に立ち戻る基点になったのではないでしょうか。それをまず全部曝けだして裸になる、自由になることが必要ではないでしょうか、僕はそう思うな」
わたしはその言葉をうけいれ、それに従った。相京君の質問の言葉に励まされながら。ただ私の文章には妙な独りよがりのくせがあり、飛躍がある。その文章の印刷も一切彼をとりまく友人達の温い友情による協力の賜物であった。そして小さい6頁ほどの小冊子が私たちの友情から生まれ、『あるはなく』という題名のもとに八木秋子の『通信』として2、3ケ月に1回の不定期刊行で知人に送られることになった。その通信『あるはなく』も第5号を重ねることになり、その反響には眼をみはるものがある。ただもう言葉以上の感謝を感じないではいられない。
こうした愕くべき経過を辿りながら、相京君はこんど、私のふるい時代の刊行物を調べて私の執筆を拾いあつめ、全集とまではいわないが「著作集」を出版することに意欲を燃やして下さることになった。今かつての著作を目前にして愛着のあるものとしては「一九二一年の婦人労働祭」「ウクライナ・コミューン」をあげることもできるが、その他は書いたという事実以上特別な感懐も浮ばない。いずれも荒削りで、素材として発表したもののように思われる。
わたしは、現在の環境の中で、校正もろくにせず、発送にも手を出そうとはせず、事務的な処理など何もせずに歩いてきた。共同生活・集団生活にはおのずから規律があり、秩序があり、自分勝手な自由な行動、生き方には規則という束縄があって勝手なことはゆるされない。私にとって最大な悩みは読みたい本が、いつでも手近なところにない、ということ、考えたいときに孤独の静寂がなかなか得られないことなどではあるが、図書室の備えはあり、そこである時間を過せるということはあり難い。
通信『あるはなく』は、私が書物や原稿のはしきれまで失って、屍のような老人の姿を部屋の中に置いたとき、私の若い友が心に閃いた私のよみがえりの幻像であったかもしれない。
老人の幸せとは何であろうか、私はそれをおもいつづけている。
1978年3月 八木秋子
◇編集人相京範昭
この本をお読みになった方は、現在発行されている八木秋子通信「あるはなく」(B5判)を是非購読して下さい。1978年3月10日現在第5号まで発行されております。第1号の一部分は聞き書きですが、他は各号八木秋子が執筆しております。第1号(10頁) 「発行にあたって」(八木) / 聞き書き「私の生きざま常に私の戻るところ・負のバネ」 第2号(8頁)「 わが子との再会」(八木) / 協力者の一人として(相京) 第3号(8頁)「 わたしの近況」(八木) / 八木ノートよりー (1)/ 父八木定義のこと(1)(八木) / 八木への通信(西川) / 八木秋子著作リスト 第4号(16頁) 独房(八木) 第5号(8頁) 転生記(八木) / 父八木定義のこと(2)/ 八木への通信。
左記住所へお申し込み下さい。各号150円です。
東京都小平市花小金井南3ノ929相京範昭
▽振替東京4-40972
この本が計画されたのは、かつて八木秋子という女がいて、それゆえその著作集を発行するということではなく、83歳の現在もなお波乱万丈の体験を引き摺りながら、それを一つ一つ刻み記している八木秋子がおり、その書かれた言葉に込められている彼女の世界を識る一つの方法として、著作集の計画が生まれ、こうして発行することができたということです。
著作集が発行されるにあたっては、「あるはなく」の読者の方々から温かい励ましのお手紙をいただきました。また年譜を作るにあたっては京都の鷲巣典代さんの御協力をいただきました。そして東京の関陽子さんの自費出版された『埋もれた女性アナキスト・高群逸枝と「婦人戦線」の人々』から八木秋子の文を転載させて頂きました。そうした方々の残されたお仕事もこの本ができるうえでの重要な条件であります。最後に、植字から製本に至る工程に直接、間接参加された方々、および販売を引き受けていただいたJCAの根来さんに感謝いたします。
■奥付
著者略歴
1895年長野県木曽福島町に生まれる。
松本市立女子職業学校卒。結婚し長男出産するも小川末明、有島武郎らと接触し結局「家」出す。東京日日新聞記者を経た後「女人芸術」「婦人戦線」の編集陣に参加し誌上に執筆。農村青年社運動で逮捕。渡満。満鉄の留守宅相談所勤務。引き揚げ後、母子寮の寮母。
現在東京都立養育院在住。
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近代の〈負〉を背負う女
-八木秋子著作集・Ⅰ-
1978年4月20日初版発行
著者 八木秋子
編集 通信「あるはなく」
発行 JCA出版
東京都千代田区神田神保町1-42日東ビル1F
A5判 上製本 204頁