103歳の南澤袈裟松さんの軌跡をたどった『栗ひろい』の出版記念会は浅間山の麓、島崎藤村ゆかりの小諸城址の近くのホテルで催されました。
記念会は出版に関わった身近な人たちが南澤さんを囲んで祝おうというものでしたが、朝日新聞による取材の後、地元の信濃毎日新聞などいくつかのマスコミで報道されたため、熱い余韻の中で行われたともいえます。
実際、反響は予想を上回るものでした。『安曇野文芸』(安曇野文芸の会発行)で八木秋子の評伝を発表していた望月武夫さんからは、「数年前に八木秋子の資料を求めたけれどその手紙が転居先不明で戻ってきた、相京さんの住所を教えて欲しい」との問い合わせが入り、その後「あるはなく」『パシナ』(Ⅰ~Ⅵ)、そして保存していた『八木秋子著作集』などを送り、行き来が始まりました。ていねいに八木秋子の軌跡をたどった文章をこれからも読ませていただけると思っています。また、東栄蔵さんが「八木秋子」についてお書きになっていることも知りました。八木秋子の出版に夢中になっている頃に出版された東さんの『伊藤千代子の死』(未来社1979)がとても印象的だったので、その方が書いた「八木秋子-精神の軌跡」(『索34号』2004、後に『信州の近代文学を探る』信濃毎日新聞社 2007に収録)をさっそく読みましたが、『八木秋子著作集Ⅲ』に収録した「八木秋子の日記」に対し、「秋子の最も優れた作品だ」という東さんの見解はわたしの編集意図に添うものでした。
103歳という長寿がその報道の話題を提供したといえますが、わたしは「長寿も一つの闘いだ」と記念会での挨拶で言いました。その記事が契機となって望月さんとの関係も生まれ、八木秋子の世界が濃く語られることになったからです。
南澤さんは酒も呑み、食事もし、挨拶もされました。帰りの挨拶をしようとしたら、廊下のソファに座ったまま、和服の裾をめくり、下に着ている「祭り衣装」を見せましたので、思わず顔を見合わせ大笑いをしました。相変わらずの「カブキ」具合です。さすがです。
さて、第47夜は、以前、南澤さんの聞き書きを中心にまとめた文章をこれから2回にわたって掲載します。
●気配を残して立ち去った人たち -信州佐久の農民と農村青年社
アナーキズムに共感を持って戦前活動した人たちが逝ったあとにある気配が残る。それに対する感情として私は「哀慕」という文字をあててみた。私たちはその余韻の中で生かされ、新たに生きる勇気を自覚する。死者によって生かされているのである。こういった気配を残して立ち去る人たちは、日本でも、彼らに特有の雰囲気ではないだろうか。
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これから読んでいただくのは信州佐久で活動され、現在もなお気配を放っておられる南沢袈裟松さん(長野県小諸市在住)の聞き書きである。十数年前に聞いたものだが、昭和6年に設立された農村運動グループ「農村青年社」(以下農青社と略す)の同志である八木秋子からの手紙が1986年、半世紀ぶりに発見されたと聞き、私がご自宅を訪ねた時のものである。1934年(昭和9年)10月22日、隣の群馬県での陸軍特別大演習に天皇が観戦するに際し、長野県下のアナ系18名は一斉検挙され、11月18日まで警察署に予防拘禁された。その直前、押収を避けるために八木秋子の手紙類を兄の家に隠して、それが約50年ぶりに発見されたのである。その時はすでに八木が亡くなってから3年ほど経っていたため、八木秋子の個人通信『あるはなく』や著作集全3巻には収録できなかったが、その後、星野凖二さんと一緒に作った『農村青年社事件・資料集』全3巻(同刊行会発行)のうちの「Ⅱ・資料」に収録した。八木秋子の手紙は二通あり、一つは最愛の同志であり中心メンバーであった宮崎晃の逮捕前のもので、満州事変後の緊迫した状況下で闘いもいよいよ決死的になりつつあるとする認識を示すもの。もうひとつは農青社の理念をあらためて主張するもので、長野県下の深刻な状況に応じた具体的な実践活動をより積極化するという決意表明である。これは宮崎逮捕直後のため悲壮感あふれる内容であった。
まずは南沢さんの略歴を簡単にまとめたい。
南沢袈裟松(みなみさわ・けさまつ)
1905・7・10~ 長野県北佐久郡南大井村生まれ。25年東洋大哲学科に入学。クロポトキン、バクーニンの著書にふれ、アナキズムを信奉するようになった。27年大学を中退し、地元へ帰る。農業のかたわら、農民自治会長野県連の闘争、長野県下全県水平社運動、製糸労働組合運動、電灯料値下げ運動等に関係した。31年2月、東京の宮崎晃、星野凖二、鈴木靖之、八木秋子らによる「農青社」設立に呼応し、3月、長野県内での同志間の連絡網を確立、創造的コミューン運動展開の方針を決定したと小県郡大門村の同志鷹野原長義から伝達をうけ、参加に同意した。8月、伊那の伊沢八十吉、諏訪の島津徳三郎や山田彰、鷹野原らが八木秋子を浅間温泉に迎え、県下全村運動の地区別連絡責任者を決定した。この日出席できなかった南沢は、数日後、鷹野原を訪ね、南・北佐久地区責任者になることを了承。10月6日、岩佐作太郎、八木秋子を講師に招いた小県アナキズム講演会(小林茂夫、鷹野原主催)のあとをうけ、ついで8日、南大井村・十念寺で佐久地方講演会を林定直らと開催。12月、「アナキズム運動に対する2、3の実践的見解」(筆名藤代高雄)『農村青年』3号などに寄稿。32年3月、長野地方機関紙『信州自由連合』刊行決定を知らされ、4月20日創刊号(望月秋幸 仮発行人)に主張「信州農民の進むべき道―自由連合主義の精神」、6月20日第2号に「多収穫は生活を楽にするか」を執筆(『信州自由連合』は星野、八木、望月ら在京グループの逮捕により2号で廃刊、9月27日鈴木靖之が「農青社解散声明」を発表)。33年7月10日発行『自由連合新聞』82号に「全農全会議派の批判とアナキストの動向」を寄稿。34年3月、鷹野原らと協議し、信州自連廃刊後の長野県下全村運動再建のため、「信州アナキスト連盟」創立について合意。しかし島津らの上京により機関紙発行は延期。34年10月22日、群馬県での陸軍特別大演習に天皇が観戦するに際し、隣接長野県下のアナ系18名は一斉検挙され、11月18日まで各署に予防拘禁された。35年6月、信濃日日新聞経済部記者として入社。11月27日、無政府共産党全国検挙で岩村田署に拘引され、 農青社事件を追求された。36年12月31日、長野地裁予審終結し保釈出所。37年4月12日地裁判決で懲役2年執行猶予4年となった。46年アナ連設立とともに加盟。72年『農青社運動史』刊行会発足に際し、長野県の資料収集に努力し、以来その同人として参与する。著書『「平家物語」の原作について』(AC研究会、89年)。別名=藤代高雄。(星野凖二作成より抄出)◇
【聞き書き】南沢 袈裟松さんよくこんなものが残っていたものだと思いますね。(注:次回に掲載予定)
ほかの、その頃のいろんな本やビラなんか、ゴッソリ持っていかれてしまって、何一つ残ってはいませんが。こういうこともあるんですね。先日、一番上の兄、もう死んでますが、そのせがれが、叔父さん、こんなものがあったよ、そういって持ってきたんです。聞くと、屋根裏にあったといいますから、私のために農家の屋根裏にでも隠しておいてくれたのでしょう。見ると、もう50年以上も前の手紙類で、特に八木さんからのレポートは達筆で、しかも当時の生々しい事情が書かれていまして、それであなたに連絡したんです。宮崎さんたちが捕まる前と後で、緊迫しています。本当にみんな真剣だったと思います。実に農青社の人たちは真面目の前にクソがつくような人達だった。
農青社に連絡の通信を出したと八木さんの手紙に出てくる、この中村浩子という女の子は可哀想な娘でした。私が当時住んでいた南大井村の娘でした。彼女が運動の中にいるということは重要なことで、紅一点だったもので、われわれの運動のカモフラージュにも使いました。まあ、囮といったら語弊がありますが、一種の看板みたいでしたね。連絡した3ヶ月後ですが、私の関係で小作争議なども支援したと大井隆男さんの本に(『農民自治運動史』409頁)書かれています。
それが、われわれの知らない間に、売られっちまったんですよ。群馬県の桐生の女郎屋に。父親が実の親じゃなかったこともあったけど、そんな警察沙汰になるようなことをやってるようなら、売り飛ばしちまえ、てなわけで、母親、これは実の親だけど、それも知らないうちにね。ひどい話だけど、われわれが知ったときはもう売られてたんです。それで向こうから連絡があってね、高橋定市君という同志が、奪還に行って、一度は連れ戻すのに成功したんだ。それで終ればめでたし、めでたしだが、そうは行きませんよ。みんな、あの頃、検挙されたり、飛び回ってるうちに、警察が介入してきましてね、高橋君が「警察じゃ、人身売買を認めるのか、太政官の布告の中にちゃんと出ているじゃないか、人身売買は禁ずる、やってはいかんということが」と言って、警察の連中がやって来た時、「金は十年年賦で返す」とか、タンカ切ったんですが、まあ、今の時代と逆です。人権なんてなものはなきに等しいようなもので、それが世の中のしきたりとして当然だ、といった考え方でしたから、いってみれば牛馬に等しい扱いでした。20歳ぐらいだったかな。結局わかんなくなってしまって、部落の人で知ってる人もいたようだけど、私たちには全く情報が入らなくなっちまった。
本当に、どうにもならなかったね。人一人が生きてくのに精一杯の時代だったから。奪還の勇をふるった高橋君も、その後、満州へ行ったまま行方不明になってしまったんです。
あの頃のことは、どう話しても伝えきれません。本当に農村の暮しは貧しかったし、そりゃあ今とは生活のレベルが全然違います。決定的なことですよ、これは。だから、と言うか、だけど、と言おうか、今は、人と人とのつながりも難しくなってしまったように思えますね。あの頃は「われわれ」っていえばすぐ通じるものが、それぞれの気持ちの中にありました。思想的立場とかいったものじゃなくて。
あなたがそこに関心を持っていて、ひとと人とのつながりで、変わったものと変わらないものを考えたい、とおっしやるのだから、やはり、もう少し具体的に話してみましょうか。鷹野原長義という男は実にさっぱりした男でした。ああいう男を、だから、河原でケツを洗ったような男というんでしょう。同い年ということもあって、本当に、親しい、まあ親しさを通り越して、刎頚の友といってもいいでしょうね。おたがいに気持ちを許して、私も彼の家へ行って泊まり、彼も私の家にきて泊まって連絡しあいました。
考えてみますと、気が合ったのでしょう。彼は自然児でした。何でもやったが、岩魚を取る名人で「おい、手伝え」なんて言うので、行くと、そのへんにある山葡萄のつるを捕って、幾つにも枯れている枝の先に付けて、岩魚を追ってきて、私が下で待ち受けていて何匹も取ったもんですよ。いやぁ、全く自然児でしたねえ。彼のところは大門村でも諏訪に近い小茂谷という部落でしたが、よく行ったものです。もちろん今みたいに舗装なんかされてませんから時間はかかりました。そこまで自転車で2~3時間。諏訪まで農青社の会合で行くときは、朝、家を出て、その日のうちに帰るなんて出来ません。冬の雪が降ったときなんか、峠を越えるのに自転車をかついで上りました。1日がかりでしたよ。たいてい大門峠を行きました。若い時代でしたからやれたのでしょう。
鷹野原は若い頃、諏訪で製糸工場に勤めたことがあって、そのとき、海野高衛という同い年の男からアナキズムの影響を受けたようです。海野という男は、これがまた、もの凄い男で、昭和の初めに死んじゃったんで、私は残念ながら会わずじまいでしたが、素晴らしい男でした。鷹野原はその頃、爆弾を作っていたんで捕まったことがあったそうです。ピース缶にダイナマイトを仕掛けていろいろ実験したようでね。実際、やっていたようだけど、よくボカせたもんです。ちょうど大正天皇が死んだ直後のことだったので、検挙されたけどウヤモヤのうちに特赦で出されっちまったんですね。(『農青社事件・資料集Ⅰ』233頁参照)
だから、鷹野原、その頃はタカ、大門のタカ、そう言ってましたが、「なあに、こんな人生なんて長いもんじゃあねえから、思い切って、一つ、やることはやらなきゃあだめだ」。もう、それははっきりしてるんだ、あれは。
おやじが大門で大工をやってたから、そこに戻って、生活してましたが、後で大門村の村長になった小林茂夫という男とバカに気が合って、『大門時報』など出して頑張ってました。パンフやビラなんか「とにかく読んでみろや」てなことを言って、地主でも何でも片っ端から配っていくような男で、本当に素晴らしい男でした。彼は結局昭和53年、八木さんの著作集が出た年になくなりました。戦後も開拓団などとやってました。満州から引上げた連中しか着ないような外套を着てきたから、お前、満州の連中みたいじゃねえか、なんて言ったら「こりゃあそうさ、満州のさ」なんて言ったこともありました。
その頃の、彼の思い出はつきませんが、八木さんの講演のことを話さなければ進みませんね。昭和6年10月6日、鷹野原の依頼で八木さんは、アナキズムの先輩としての岩佐作太郎と一緒に大門から小諸まで歩きました。たぶん馬車か何かを利用して回ったと覚えてます。まあ、この丸子町まで出れば、大きな製糸の中心地でもありましたから、何でもありましたが、丸子あたりまではみんな鷹野原が連絡してやったもんです。女工さんの町でもあったので、もうそれは大変な集まりだったですね。
八木さんは着物で、女の人の講演なんていったら珍しいから、どんなことを言って話すんだろうか、興味津々といったところですか。そのへんの電柱にビラを貼れば、ワッショイ、ワッショイとやってきましたね。みんな生活に追われていたから、どこかではけ口が必要だったし、そういった講演に対してみんな一生懸命に聴こうとしてました。
そういった、まあ、社会情勢にたいする見方を求めていたんです。生糸不況で、使われていない蚕糸会社の集荷(場)で話しました。たしか長窪古町だったですね。そうですね、400~500人集まったでしょうか。会場満杯で、主に女工さんだったです。いやあ、人が出ましたね、その時は。
八木さんの話は地道でしたよ。過激な話なぞ全然しなかった。女の人もいろんなことに関心を持たなけりゃいけないとか。そういった啓蒙的なことだったように記憶してます。八木さんの出版記念会のときお話したように(1978年4月28日)、講演だけじゃなく、村の人を訪ねたときの座談に八木さんは説得力がありました。女の人にも人気がありましたね。人に対しては優しさがあって、まあ、権力には強かったですがね。
そのときの岩佐の講演もうまかった。それぞれの境界なんかがあるから生産的じゃないんだ、だから、境を取ぱらっちゃって共同耕作をすればいい、てな話に持っていっちゃって、実にうまいんだね。7日は、小県郡滋野に唐沢定市君というのがいて、そこでもやりました。あとは、8日南大井村の十念寺に林定直っていうのがいて、ずっと講演して歩きました。林定直君はきまじめ一点張りのキミで、私のところと隣り合っていました。全くウソもゴマカシもない青年でありましたね。
こういった東京の知名人を呼んで講演会をするのは随分盛んでした。その前には農民自治会や全国水平社運動の拠点でもありましたので、まあ、だれでもいい、そういったら語弊がありますが、わたしらにとって何とかこの情勢を変えなけりゃあだめだ、その糸口を見付けるためにとにかく真剣だったですから。
その頃は満州事変が9月19日に起きて、翌年1月には上海事変が起きる、そして、世界的な不況、そういった騒然とした、どうなるか分からぬ不安が世間を覆っておりましたから。まして私たちは、昭和2年に、農村モラトリアム運動を起こして「モラトリアムの人たち」って、あとあとまで、今でも知っている人がいるほどで、自信も気合いも入っていました。
とにかく高い飼料代を払う一方、まゆが安くなるので、生産すればするほど借金が多くなっちやうんですよ。だから、モラトリアム――支払延期を何でもかんでもやれって、当時としてはセンセーショナルな勝利だった。わたしの義兄に当たる小山四三さんや関和男さんに小山敬吾、井出好男、さらに水平社の朝倉重吉さんら錚々たるメンバーが運動しました。私もちょうどこちらへ戻ってきたところで、その人たちの運動に参加して受けた影響は大きかったといえますね。
もう一人、私たちの兄貴分に竹内圀衛さんという人がいます。文治さんと兄弟です。この圀衛さんという人は徹頭徹尾、私らと気が合う考え方をしていましたね。後で聞くと、ともあれ変革をどうしてもしたかった、それしかねえんだ。いちいち、ああだ、こうだ、いっちゃあいられなかった。そう言ってましたね。それが本当の気持ちだったと思います。われわれもそういった所はかなり割り切っていました。関和男さんと四三さんは御牧ヶ原の開墾地に小屋を借りて「土の家」というのを作って共同生活をしていました。そもそも農民自治会はその人たちが火付け役ですよ。
この関さんという人が実にユーモラスなエスペランチストでしたね。ある日東京で石川三四郎さんたちの会議があるって言うので、誘われて、いや、まだこんな支度だよ。素足にワラジじゃあ。いやそのまんまの支度でいこう、ほらほら、てなこといって東京へそのまま着いたら、やっぱり珍しいからみな一生懸命振り返っていく。で、その会議の中で、いろんな話が出て、そのうち関さんが、あんたがた、インドの独立運動の話を知ってるかい、これがそうだよ、素足にワラジだから、スワラジの運動だ。それが受けたそうですよ。いやはや、全くユーモラスなん人でしたね。ヒゲ、ボウボウとした人でね。
その人たちの運動の影響は、全国的でした。竹内兄弟は特に、ほかの人たちからも尊敬されてましたね。大井(隆男)さんの本は丁寧に、その辺りについて書いてますよ。しまいのほうは、特に私たちの気持ちを書いています。私たちと同年配の男で、羽毛田正直という男がいましたが、この男も素晴らしい。人間的にも素晴しいし、頭も良かった。弁舌も立ち、実に真面目な人間でしたね。ほかのものもそうでしたが、いずれも私生活が本当にしっかりしていて、自分を律しているところがありましたね。田舎はそれが悪いとついてこない。信用されません。都会と違いまして、私生活が悪かったら絶対人はついてきません。それが都会と田舎の違いでしょう。
まあ、一緒に運動をやった連中の中には、ものを先取りして議員になりたくてやったりするものもいましたが、すぐみんなに分かりますから。あれは駄目だよ、そうすぐ分かってしまいます。
私たちが農青社運動であげられたのは、やっぱり一人の男によりますね。無政府共産党事件、黒色ギャング事件と芝原淳三殺しで神戸から逃走中の犯人、二見敏雄を長野県警は逃がしてしまうんです。
ですから全員捕らえてみる。アナ系と見られるものを全員です。弱ってしまったわけですよ、逃がしてしまったわけですから。そこへ、かもがネギしょってきたのが金子広只という男だったんです。金子がその後死んじゃったか、どうか知らないけど、まあ二見を取り逃がした手前、何とか事件にして手柄を立てようとしたんでしょう。金子がどこから来たものか、よく知らないんですよ。印刷工だったことは違いないんです。小諸でも働いていましたが、疫病神みたいなやつですし、得体の知れない素姓です。そういった人間は必ずいますね。
なに、いつだって鉄道ぐらい遮断できるっていう話しを金子にしたことがあるんです。話したら金子のやつ、たまげっちまって、こりゃあ本当だわい、そう飲み込んだらしいんだね。だから、東京に出たとき、いろんな話をしたことにそれを加えたんだろうね。だけど、運動をやっているものが集まれば、ちょっとは過激なことを言うのは当たり前ですし、4年前のことを根掘り葉掘り聞かれて、筋道を付けられてはたまりませんですね。その列車を止める話ですが、私は竹内圀衛と一緒にその場所まで実際行ったことがあるんです。昭和5、6年ごろといえばこのあたりは騒然としていましたから、そんな話は事実あったことですよ。
もう、その頃、竹内は共産党に転身してました。でも、われわれはどちらでもよかったんです。力関係でありましたから、あまりとらわれずにいました。ソ連の場合もレーニンが素晴らしい組織力を持っていた、というわけです。現実的にものを考えていて、とにかく現実の体制を打破すべきだ、そのためにはあまり細かいことにとらわれてはいかん、そういった考え方です。ロシア革命といった大きな教訓がありましたから、ナロードニキにひかれていましたね。
そうだ、八木さんの出版記念会の時、歌ったでしょう、ナロードニキの歌を。私たちはナロードニキの歌をよくうたったもんです。私たちの雰囲気はそんなもんでした。
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運動したという理由で女郎として売られた中村浩子は今のところ、記録上ではたった一度、本牧村小作争議を南沢さんの関係で支援したとされているが、その消息は不明である。また彼女を女郎屋から一度奪還した高橋定市は昭和6年から7年、佐久地方の水平運動、製糸工場争議、小作争議などの記録に名前が出てくるが昭和14年、満州に渡った後、消息がない。
ごらんのように南沢さんと行動を共にした仲間には盟友、鷹野原長義をはじめ、たくさんの魅力ある人間が多い。このユニークでもある活動家群像は佐久におけるそれ以前の歴史、農民自治会活動の影響も当然ある。そのあたりは文中に出てくる『農民自治運動史』(大井隆男著 銀河書房 1980 )にたいへん詳しい。南沢さんによれば、その著者の大井さんは「最後のまとめの部分などは我々の精神をたいへん良く汲み取って書いてくれた」といっている。
ところで、その当時、なぜ彼らは困難な闘いに自ら果敢に挑んだか、兄貴分であったという竹内圀衛が言うように「目の前に運動せざるを得ない出来事がある。そのためにまず行動したのだ」ということに尽きるだろう。また、大門村を中心にして活動した鷹野原は農青社運動についてはどんなふうに受け取っていたか、戦後、「農青社運動は農民の心理をよく捉えており、日常の生活に直接結びつき、大衆自ら求めているものであり、それ自体生活手段であった故、急速に運動は進展していったのである。言うなれば、人肌に合ったやわらかい感じの運動で、農民なら誰でも反対しないものでした」(1971年5月5日付け宮崎晃あて私信)と語っている。
これが東京で結成された八木秋子らのグループと農村で運動しているものとの「現場を共有する」相互理解であった。信州の佐久を中心とした彼らの水平社・労働・農民運動は、「戦前におけるぬきんでた運動」として再評価する必要があると私は思う。