● 第48夜 南澤袈裟松さん逝く



 八木秋子の同志、信州小諸の南澤袈裟松さんが、春まだ浅き3月29日午前10時12分、103歳と8ヶ月の「闘いの軌跡」に終止符を打たれました。

 第46夜で、南澤さんの著作や記録をまとめた『栗ひろい-南澤袈裟松の軌跡』の出版と反響、そして八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』出版記念会での発言を掲載し、第47夜では小諸で催された出版を祝う会での「傾きぶり」に触れ、以前まとめた聞き書きを掲載しました。

 そして、第48夜には訃報を載せなくてはなりません。思えば、出版を祝う会の終了後、帰り際に「和服の裾をまくって祭り衣装を見せ得意げに笑う表情」が永遠の別れとなったのでした。

 信州小諸は、まだ梅の花が咲き始めた季節で、風も冷たく、北の方角を見ると、真っ青な空に、噴煙なびく浅間山が、雪に覆われていました。

 南澤袈裟松さんの戒名は「鳳仙院徹翁禅綱居士」。

 小諸商業で16歳の時、安曇野出身の溝口義雄教師からクロポトキンの相互扶助論にまつわる話に深く感動して以来、「百歳萬歳記念碑」に至るまで、クロポトキンに「徹した精神」はまるで「太い綱」のようだと戒名の意味についてご住職は話しました。

 200人ほどの「灰寄せ」という故人を偲ぶ会食の席では、葬儀委員長の小山正邦氏(戦前に鶴見祐輔らと活動をともにした国会議員で、戦後小諸市長にもなった小山邦太郎氏のご子息)も、お寺のご住職も、昨年作った私家版『栗ひろい-南澤袈裟松の軌跡』をおおいに讃えてくれました。そして「百歳萬歳記念碑」に書かれている「クロポトキンの相互扶助論」について、地球との共生を語るその碑文には「相互扶助の精神こそ現在必要とされている」という一貫した南澤さん姿勢が見られると深い共感を持ってご挨拶をされました。

 昨年の出版報道以来続いていることですが、袈裟松さんは死しても「クロポトキンと相互扶助」をたくさんに人々に伝えた、まさに「生きることも闘いだ」と思い知りました。

 そのこと自体はまことに気分壮快な別れの場となりました。

 しかし、

●第47夜 気配を残して立ち去った人たち -信州佐久の農民と農村青年社
アナーキズムに共感を持って戦前活動した人たちが逝ったあとにある気配が残る。それに対する感情として私は「哀慕」という文字をあててみた。私たちはその余韻の中で生かされ、新たに生きる勇気を自覚する。死者によって生かされているのである。こういった気配を残して立ち去る人たちは、日本でも、彼らに特有の雰囲気ではないだろうか。
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 ご自身もとうとう気配を残して立ち去ってしまった、戦前の八木秋子を知る人が一人もいなくなってしまった。

 集まりの場から出ると、すぐ傍には古城がありますが、帰京してそこで詠まれた島崎藤村の「浅春の詩」を読み返しましたら、まことに、心に滲み入りました。まいりました。

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☆小諸なる古城のほとり

小諸なる古城のほとり   雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず   若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡辺    日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど   野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて    麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか    畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず   歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよう波の    岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて    草枕しばし慰む

☆千曲川旅情の歌

昨日またかくてありけり  今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく   明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の   消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば   砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り   岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ    百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて      春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて  この岸に愁を繋ぐ
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 途中の車窓から見える上州の山は、妙義山をはじめとして、傾ぶいています。それらを眺めながら革めて読み耽った千夜千冊『神もなく主人もなく』【0941】は クロポトキンの葬儀から始まっています。

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 1921年2月8日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる5マイルの道に、チャイコフスキーの第1と第5が流れた。その葬列には黒旗が林立した。
 葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には200人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。
 「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ!」。  
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 これまた、まことに、身に滲みる千夜千冊でした。

 昨年発行した『栗ひろい』には、1984年と翌年の8月に上州へ帰省した時に南澤さんの自宅を訪ね、聞き書きしたテープが陽一さんの手によってまとめられました。南澤さんが敬愛した「クロポトキン」について、わたしと交わした箇所に少し手を加えてここに載せたいと思います。お読みください。



■南澤袈裟松、あの頃のことについて語る

★小諸商業時代、溝口義雄先生の影響

相京 南澤さんが小諸商業時代、溝口義雄という先生からの感化を大きく受けたとのことですが。
南澤 溝口先生は安曇野出身の先生だと思う。
相京 この人はキリスト教の洗礼を受けているのではないでしょうか。
南澤 受けているかも知れない。この人がたまたまそういう話(クロポトキンの相互扶助論にまつわる話)をしてくれたのが私に素晴しい影響を与えた。
相京 安曇野というと井口喜源治の研成義塾が。
南澤 そういうことであるいは研究していたかも知れない。
相京 商業の先生がクロポトキンの話をする。
南澤 そういう話をするということは大きいことですね。若い人の一生がそういう人によつて一言の話で左右される程大きいこと。
 その話を聞いた直後に、ちょうど今頃の八月はじめの朝五時頃、たまたま私が自転車ですっ飛ばしてきた村はずれで、雀が一群団湧き上がるように出た。その時鷲だか鷹だか藪の中へすごい勢いで飛んできて飛び込んだ。すると、雀がその後追ってワーッと来て、見ていると、ヒョイヒョイヒョイヒョイと鳴いていて、一方は潜ったきり出てこない。しばらくして雀が退散していった。雀を捕らえて鷲づかみで藪の中に飛び込んだのを追ったんだと思う。百数十羽いたかもしれない雀が黒くなるほど来て襲って藪の中へ飛び込んだ。
相京 象徴的なことでしたね。
南澤 そういう光景を見て、たまたまそういう本を読んでいてなるほどクロポトキンは偉い人だなと、私は若いときで非常に感じやすいときだから強く思った。普通なら相手は猛禽類だから雀が一対一では負けるけれど。
相京 それが小諸商業に通っている頃、溝口先生の話を聞いた直後だけに鮮明に残っているのですね。
 この人は何を教えていたのですか。
南澤 当時「博物」と言っていた。理科の系統。クロポトキンは科学者でもあった。

★現在の思いを

相京 今いろいろなものが便利になって、どう思われますか。
南澤 今生活が豊かになって、そういう運動とかそういうものに対する理解とか薄らいできている。中流意識とかが横溢して。頭はますます後退しているのでは。(それに対する危機感は)危機感はなければおかしい。
 老人会で核兵器反対運動、長野県老人会が全国で初めて。取り組み初めて一年になる。新聞などで取り上げた。
 私達老人は二十一世紀まで生き延びることはできないだろう。しかし、その次の世紀を担う若い人たちが核戦争を受けたら大変なことになる。文化もへったくれもなくなる。焼け野原になってしまう。若い人たちをそこへ持って行かないために私達は証人でもある、戦争は絶対にやるべきではない。少なくとも核戦争だけはとにもかくにもやらないようにすることが第一だ。今の緊急の問題はそれではないかと言ったら、老人会の役員が両手を挙げて賛成だという訳。偶然でしたね。私に意見発表してくれということで、当時の会長の支持もありました。
相京 戦争というのは、人間・人類が生きている限りなくならないと思いますか、それともなくなると思いますか。
南澤 人間の醜い姿ですね。(争いはなくならないか)それを避けて通れないものは、ダーウィンの進化論を待つまでもなく、あるけれど、クロポトキンに言わせれば、だからこそ人間の文化を維持し、人間の生活を守ってきたものは相互扶助だったというのですね。それに力を合わせてきたものは栄え、やらなかったものは滅びたと言っている。生存競争は生物間に避けがたい宿命。宿命と言ってしまえばそれまでだが、なぜある生物は栄え今日まで命を繋いできたか。相互扶助の原則を守ってきたものは栄え、そうでないものは滅びた。しかも私が言うだけでなくて、ダーウィンだって『人間の由来』の中で書いているではないか。ダーウィンは最初は『種の起源』で生存競争について書いているが、『人間の由来』で反省している。クロポトキンはダーウィンに対して理解を持っている。

★「コンチャン」と呼ばれる

相京 ファーブルは読まれましたか。大杉栄も翻訳していますが。
南澤 あれは生物の生き方の仕草を巧妙にとらえ、しかも彼はそれに深遠な哲学や詩を歌っている。
相京 ファーブルの昆虫記で、ファーブルは動物自体がそれぞれが共存しているという言い方をしています。やっつけるというのがあるけれど、全体の自然の昆虫の世界・動物の世界をみれば、それは相互扶助というか奇妙にバランスがとれている。だから、ダーウィンはファーブルをとっても気にしていたらしい。
南澤 そのような素晴しい姿勢と叡智を彼等はいつ身につけたかという驚きを禁じ得ないものがある。それがたいしたものだ。やっぱりファーブルという人は偉い人ですな。
相京 その頃一生懸命翻訳して紹介したのは大杉栄だというのは、ぼくは一つのあれがあると思う。
南澤 もっと訳したりやりたかったと彼は言っている。
相京 大杉栄は、南沢さんは随分と読まれたと思うのですが。
南澤 あちらこちらしか読まない。信濃日々新聞社にいる時分、仲間から私のことを「コンチャン・コンチャン」と言われた。私はその頃昆虫記を放さず読んでいた。他の社会思想は持てないから。

 以上です。
 
 サヨナラ 南澤袈裟松さん

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