●第50夜 【注釈】をむすんで



9月6日は八木秋子の誕生日です。
八木秋子の注釈の第1夜から第49夜までを「むすび」、新たな出立としたいと思います。

この「注釈」を書き始めてから「八木秋子」に関心をいだいて問いかける新しい読者に出会う機会が多くなっています。それは、わたしにとって、ずっと心に期していた「八木秋子の甦り」であり、次の「ものがたり」が始まる気配が間近に迫って来ていることだと感じてきていました。

わたしが八木秋子に関わり続けて以来、ずっと心していたことは「アナキスト」「女流作家」「女流評論家」「女性農民活動家」などというレッテルを貼られて歴史年表に飾られ、セメントで固められて葬り去られるような無惨な姿にさせないということでした。

読むものに「どう生きるのか」と刃を突きつけて問い続ける存在として甦る八木秋子とずっと併走したいということでもあります。

その予感のようなものが世間に形となって現れてきたのは、残念ながら今年の春になくなった南澤袈裟松さんの『栗ひろい』・出版記念会や葬儀、そして「ちくま」での保阪正康さんの連載などがその一つでした。

そして、西川祐子さんの『日記をつづるということ』吉川弘文館 が発刊されました。そのサブタイトル「国民教育装置とその逸脱」の「逸脱」は八木秋子であると書かれていて、感銘深く読みました。特に、「性」=関係性という点はその通りで、わたしが八木秋子と接している時は、息子であったり、同志であったり、父親であったり、もちろん母性も入り交じった多重多層な顔を見せていたという自覚がありました。それは彼女が<「時」に踵をつかまえながら>疾走し続けた数年、出会ってからの八木秋子と一緒に走り続けるにはそうするしかなかったし、だからこそ、交叉した一瞬に化学反応を起こした相京と八木の世界が存在したのだろうと思います。しかもそれは、今回、西川さんの著書を読んであらためて思ったのは、わたしにとっては母親との関わりもそうだった、子どものころからそうだったと思いを深くしています。

さて、第50夜はこれまでの「注釈」を振り返って「むすび」、新たな出立のために備えたいと思います。なお、「注釈」本文の一部分をそのまま引用する場合が多く、以下を略していますことご承知下さい。また、少し読みやすいように手を加えています。

★第1夜
八木秋子のプロフィール(1895年~1983年)
1975年9月16日、八木秋子と出会う。1977年8月個人通信「あるはなく」発行へ。

★第2夜
毎日新聞などが伝えた訃報
1983年4月30日逝去。全国紙、特に毎日新聞は「戦前、婦人解放に活動」と。

★第3夜
脱走から通信発行へ
1977年1月30日、八木(81)老人ホームからサンダル履きで脱走。相京宅へ。

★第4夜
訃報の注釈
昏睡に陥る前の数時間「書いた、書けない、書きたい」と走馬燈の如し。

★第5夜
出会いと背景 その壱
突然アパートを訪問。競馬人社長、白井新平氏に同行。偶然の出会だった。

★第6夜
出会いと背景 その弐
森崎和江の影響。他者との裂け目こそ出立の原点では? 必然的な出会い。

★第7夜
出会いと背景 その参
1975年「ベトコンノート」。その「こころ構え」に今の相京も感慨深い。

★第8夜
出会いと背景 その四
清瀬の栄荘「4畳半独居生活」の八木秋子を何度か訪問。7月李枝誕生。

★第9夜
出会いと背景 その五
11月、李枝の初外出先は清瀬の栄荘。老人ホーム入りで八木秋子迷う。

★第10夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち-川柳作家児玉はる-

★第11夜
出会いと背景 その六 八木秋子の場合
老人ホーム入寮までの顛末。通信発行の動機は竹内好の死と埴谷雄高。

★第12夜
八木秋子老人ホーム養育院へ(1976年12月10日)
身の回りのもの以外は私物厳禁。原稿・日記・読書ノートの保管を引き受ける。

★第13夜
八木秋子個人通信「あるはなく」第1号
「あるはなく」第1号 発行にあたって

★第14夜
題名「あるはなく」への注釈。

★第15夜
八木秋子は投書がきっかけで新聞記者に

★第16夜
島崎こま子と八木秋子

★第17夜
島崎藤村と八木秋子

★第18夜
清沢洌と八木ふじ

★第19夜
小川未明と八木秋子

★第20夜
小川未明と大杉栄、そして八木秋子

★第21夜
家出前夜

★第22夜
家出

★第23夜
「あるはなく」第1号発行と有島武郎

 このように、並べてみると見えてくるものがあります。まず第一に、「八木秋子との出会いとそれぞれの背景」からこの注釈をはじめるには理由があったということです。

 ふつう、プロフィールとして注目されるものは、八木秋子にとって「女人芸術や婦人戦線」などの女流作家、評論家としての顔であったり、「農村青年社」時代の女性活動家としての姿です。しかし、わたしは評伝のように彼女の生涯にそって時系列的に一つひとつ注釈を加えようとは思いませんでした。というのは、わたしが出会った八木秋子は、都下清瀬市の4畳半に独り住む老人であり、老人ホームに入ることを余儀なくされていた世間的にいえば「ふつう」の人物だったからです。

 「ふつう」の人物である八木秋子が醸し出す格別の雰囲気を察知し、彼女との共同作業の場を作りたいとして始まったのが、八木秋子個人通信「あるはなく」でした。ですから、その出会いは偶然とはいえ、それぞれにとっては事情(背景)があり、必然化していったと言えます。だから当然この注釈も、「あるはなく」の発行が主人公となって進んできました。
 ついでに言い添えますと、その個人通信の内容にも優先順位があります。まず「本人が執筆したもの」「本人が話すことを聴き書きしたもの」「かつて書いたもの」。通信に掲載するにはこの順番を間違えてはならない、それに尽きました。それが、八木秋子の尊厳を踏みにじらないことだ、と考えていました。

 続いて、第13夜から第23夜までは「あるはなく」第1号についての注釈が続いています。第1号で触れている「なぜ子どもを置いて家を出たか」について、八木秋子がそのころに出会った小川未明、有島武郎、そして島崎藤村や八木フジ-清沢洌、大杉栄などからの、直接・間接的影響があったという注釈を加えました。その際、予想していたことより遙かに強く実感したことがありました。

 わたしは大正という時代、特に八木秋子にとっての20代-1915年(大正4)~1924年(大正13)-、とりわけ結婚して子どもを産み、健一郎をおいて家を出るころ、時代に大きな裂け目が見えたような気がしています。大きな時代であった明治が終わり、欧化思想一辺倒で覆われていた蓋がはずされ、垣間見えた「景色」があるように思えます。その後の軍部・マルキシズムの昭和にはまた再び、力によって押さえつけられていった世界、その世界が大正の真ん中の数年間に噴き出したように思えるのです。八木秋子が出会った人物それぞれが時代と格闘してわれわれに見せているのは、その「景色」ではないかと実感しました。それが何よりの収穫でした。

★第24夜
「あるはなく」第1号発行。その反響

 八木秋子通信「あるはなく」は1977年8月13日、老人ホーム養育院の4人の雑居部屋にいる本人のもとに届けられました。八木秋子の養育院での日記「転生記」には、それを何度も読み返し、次に何を書くかという構想に苦闘している状況が読みとれます。その際、力づけられたのは通信を読んだ人たちからの手紙でした。

★第25夜
パサージュと侠
第25夜は、「あるはなく」第2号(1977年)に掲載した、編集人としてのわたしの文章を載せます。そして、八木秋子がなくなって2年後の1985年に、第1号発行当時を振り返った文章を加えます。渦中にいた時は夢中でしたから当然ですが、およそ10年後に書いた文章も事情の説明にはなっているけど、いま一つぴったりしないという思いがしていました。ところが、この注釈を書く動機となった「パサージュ」という言葉に出会った時、八木秋子はここから考えることが出来るような気がして現在に至っています(第1夜)。

★パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン(全5巻)

 おそらく、その頃のわたしと八木秋子が共有した空間を言葉で表せば、ここで語られている「パサージュ」をかなり意識していたような気がします。それは「自在」であったり「自侠」という言葉も引き連れている世界です。著作集Ⅲを『異境への往還から』とし、帯文を「さらばわれ、わが生涯を不安と迷いに貫かん」とした理由もそこにあると、いま思います。

 帯の文は八木秋子の「独り居日記」から採ったものですが、まさにその八木秋子の日記自体が「日常への異常な興味」を書いたものでした。そして、いつも自己否定し「変わらなければ、変わらなければ」と言いつづけてわたしたちを刺激し、未完の作品を書き続けた八木秋子の時間はいいつも「通過点」であったと言えます。そして、「本になろうとしている過程そのもの」だったと思います。

「パサージュ」と同様、たいへん気に入っている言葉が「侠」です。

★千夜千冊1149夜『中国遊侠史』
 司馬遷は、遊侠はその行為が仮に社会の正義と一致しないばあいでも、言ったことは必ず守るし(守)、なそうとしたことをやり遂げる意志があって(破)、なにより自分の身を投げうつところに、「存と亡」の境目を奔走する爽快感のようなものがある(離)、と評価した。
つまり挟み打ちではなく、連なっていく。それが侠なのだ。賊か侠は紙一重のところもあろう。けれども、その紙一重を超えていかないで、なんで人生、面白かろう!

    ◇愛侠としては まったく 異議ナシ です◇

★第26夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち―川柳作家児玉はる―

★第27夜
わが子との再会 1977/9/20

 1977年8月13日、八木秋子個人通信「あるはなく」第1号は老人ホーム都立養育院にいる八木秋子のもとに届けられました。そして、「読者から寄せられた評価が起死回生のバネにならんことを願いつつ」と、82歳の彼女は力をふりしぼり、「親と子の再会」(敗戦直後のわが子健一郎との再会)を書き上げました。その原稿の完成は「9月11日」となっています。第1号が届けられてから1ヶ月も経たない日に完成させたその集中度は、わたしの予想をはるかに越えるものでした。これはやはり、一層きちんとつきあわなければならないと、気を引き締めた覚えがあります。読んでみて思ったのは、健一郎のことは心の中で何度も何度も繰り返して書いたに違いないということでした。まさに、時機を得た作品だったと言えるでしょう。

★第28夜
八木秋子関連出版物

★第29夜
対話1977年9月23日

★第30夜
対話1977年9月23日(2)

★第31夜
対話1977年9月23日(3)

 第29夜から第31夜までは、第1号発行の予想以上の反響に興奮している八木とわたしの対話(2ヶ月後)を掲載しました。そして、読者の反響に力を得て、わたしは翌年春発行することになる『八木秋子著作集Ⅰ・近代の<負>を背負う女』製作に向けて、八木秋子の著作物探索ためにあちこちの図書館を走り回っていきます。一方、八木秋子は長い間書こうと思ってきたものを、ようやく「あるはなく」という場を得て、その作業に向かっていきます。

★第32夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち-翻訳者はしもと・よしはるさん-

★第33夜
アブダクション
第1号の発行から翌年の春の著作集発行までの間、通信「あるはなく」の発行を続けながら、どんな思いを抱きながら八木秋子との関係を考えていたか、その根源と思われるものを探ってみたいと思います。結論から書きますと、人との「関わりの方法」という点において、パースの言う「アブダクション」=推感編集【千夜千冊1182パース著作集】ではないかということを書いてみたいと思います

 相手との関係の中において、アブダクション=推感編集しながら、その人物の歩む先を誘導し、「場」を提供してきたと思います。それがわたしは編集だと考え、そこを墨守してきました。
 その時、何を頼りにしたかといえば、それは言葉で確かめ合う以前の世界を、互いに信頼し合っていたと思います。ではなぜ、わたしは「言葉になる前の世界」にすーと入ったのかと考えました。『パースの思想』有馬道子 岩波書店 には、補論として「老荘の思想」が加えてありました。そして、「パースと老荘には言語と実在(または、かたちとカオス)について深く目覚めた意味の思想としての根源的な共有点」があると書かれてあり、あっ、そうなのかと合点がいきました。ここでわたしの好きな「老荘」が出てくるとは思いませんでした。
 土蔵で寝食をともにしていた祖父や近所の青木園長先生が、3歳や5歳だったわたしに語りかけたものは、おそらく人間の在り方に向かう大切なものであり、その雰囲気こそわたしは大事にして来た、言葉にしがたいその世界であり、そこに絶対の信頼を寄せていたのではないかと思います。
パースの思想・アブダクション。
 パサージュに続いて良い言葉にまた出会いました。

★第34夜
先達からの眼差し

「パサージュ」と「アブダクション」。
もう少しこの二つの言葉にこだわってみたいと思います。
まず、千夜千冊からあらためて引用します。

□パサージュ
◆パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
◇千夜千冊0908『パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン

アブダクション
◆パースは、すべての認知と認識のプロセスが相互に連携的で、総じて連合的で、すこぶる関係的であることに、すなわち【編集的である】ということに確信をもっていたのだった。
 このことをパースは思考における「シネキズム」(synechism 連続主義)ともよんだ。
   —————————————
◆パースのアブダクションは、帰納法をとりこんだ仮説形成型の推論の総体を示していった。与えられているものから与えられていないものに思考が進むのが推論であるのだが、アブダクションはそのプロセスを順逆両方に動きまわり、「本来はこのように与えられていた仮説があったのではないか」という方向を仮想的に樹立してしまうのだ。
 そのためパースは、アブダクションにはレトロダクション(遡及的推論)の特徴が濃くあらわれるというふうに見た。
 これはたんなる推論の理論ではあるまい。むしろ「発見のための推論」というべきだろう。実際にもパースはアブダクションこそが「発見の論理」ではないかとも考えた。ぼくがもっとはっきりさせるなら、アブダクションは【仮説の創発】なのである。
    —————————————
◆【新しい認識はアブダクションによってこそもたらされるという可能性】を示したのである。それならアブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ。そしてそうだとすれば、演繹や帰納はそのアブダクションの出来映えをテストしている役目をはたしている助さんと格さんということなのだ。
◇千夜千冊1182『パース著作集』チャールズ・パース

 この二つの言葉はわたしが八木秋子に出会い、そして通信の発行から著作集製作へと通過してきたことを振り返っているいま、気分良く納得融合できる言葉です。出会いから現在までの八木秋子との世界は「パサージュ」であり、彼女との関係は「アブダクション」の連鎖であったといえます。その言葉は同時に、八木秋子の通信や著作集の編集を行っていた当時のわたしにとって、相京メモ(1983)にある「宇宙意思」や「先達からの眼差し」というこの二つの言葉が持っていた世界を、30年後の現在から眺めると、そのことの重要性がはっきりとわかります。八木秋子との「パサージュとアブダクション」を支えた原点をみつけた思いです。

★第35夜
「あるはなく」第3号 わたしの近況
 養育院での日常が書かれてあり、八木秋子の自負としての「覚悟と抵抗の姿勢」が読み取れます。しかし、実際の日常は「いつでも目覚めれば手近な所に読み差しの手慣れた書物があり、ノートがあった」孤独を愉しむ生活から一変した、多人数での共同生活からくる様々な軋轢もありました。

 「あるはなく」第1号から翌年3月の第5号までの内容も掲載してあります。
この時期は77年夏から78年の春3月にあたり、30数名宛ての通信ながらも、予想を上まわる反響に、わたしも八木秋子も興奮しつつ気を引き締め、彼女は執筆に力を入れ、わたしは八木秋子がかつて著わした作品収集のために奔走しています。第3号「八木秋子著作リスト」はその報告でした。

★第36夜
転生記(1)
養育院での八木秋子の日記:「転生記」。
 第38号まで掲載するこの日記は、1977年8月に第1号が出来上がり、翌年の3月に発行される第5号までのもの。この期間はわたしと八木秋子が最も頻繁に共同作業を進めた「熱っぽい雰囲気」に充ちた時期に当たります。

★ 第37夜
転生記(2)
八木秋子が入所した「東京都養育院」は東京都板橋区栄町35-2、東武東上線大山駅から歩いて5分ほどの所にあります。今回、彼女が養育院での生活を書き綴った「転生記」を掲載するにあたり、思い立って25年ぶりに訪ねてみました。池袋から3つ目の駅である大山駅を降りるとにぎやかな大山商店街に出ます。踏切を渡り、商店街から路地を抜けるとすぐに、養育院の大きな建物が見えましたが、四半世紀前、何度も通った道筋はあまり変化が見られず、ちょっと不思議な感じが残りました。

★第38夜
転生記(3)
八木秋子通信「あるはなく」に連載した都立養育院での日記を、なぜ「転生記(てんしょうき)」と名付けたか、その理由を何度か聞かれたことがありました。実は、ちょうどそのころ出会った本、林竹二の『田中正造の生涯』に思うところがあったからでした。ここでは詳しく触れませんが、足尾鉱毒事件の田中正造は、最晩年に「思想的大変化=回心=自己否定」を行います。彼女の日記名を決める時、その「回心」から連想して浮かんできた言葉が「転生」だったのです。
 転生とは甦り。第36夜について、次のような感想をネットを通じての読者の方からいただきました。『八木さんの文章、世の中のたくさんの人に読ませたいと思いました。気負いがないのにこれだけ気迫が充ちる、とは・・。それが「老人ホーム発」という背景。そういう場にこういう言葉がしずかに、当たり前に、はっきりと在りうるんだということ・・』。このように彼女の声が新しい読者に伝わっている、この八木秋子の時を超えての多様な「甦り」をわたしは発行当初から願っていたのです。

★第39夜
八木秋子著作集Ⅰ  『近代の<負>を背負う女』

□表紙
 『近代の<負>を背負う女』 八木秋子著作集Ⅰ
□帯
・高群逸枝、住井すゑらと共に<女>の解放を目指して闘い、そして83歳の今日もなお、底辺の生活の中で自己の<問い>を背負い続けて歩む著者の初期評論集
 JCA出版   1300円

————————–
□奥付
 近代の〈負〉を背負う女
 -八木秋子著作集・Ⅰ-
1978年4月20日初版発行
 著者 八木秋子
 編集 通信「あるはなく」
 発行 JCA出版 東京都千代田区神田神保町1-42日東ビル1F
 A5判 上製本 204頁

★第40夜
八木秋子報道される:共同通信社配信 / 1978・6・21
□波乱に満ちた自立への闘い
 個人通信「あるはなく」発行  八木秋子さん
◆家を捨て子とも別れ 良心に生きる老女の叫び
          中村 輝子

★第41夜
埴谷雄高と八木秋子
 「あなたはキトクな人だ」という埴谷さんの声は今もわたしの耳に残っています。
1983年の暮、八木秋子が亡くなった報告をしたことで、5年にわたって故郷の生椎茸を届ける行為に、もちろんそれはわたしが勝手にしたことですが、終止符を打つように言われ、「はい、わかりました。いろいろありがとうございました」と言って、辞去する玄関先でかけられた言葉でした。
 「キトク」ってどういう字を書くのだろうかと思い、家に帰って辞書を引いたら「奇特=非常に珍しく、褒めるべきありさま」とありました。
 埴谷さんがなくなって10年たったこの秋(07)、県立神奈川近代文学館で「無限大の宇宙-埴谷雄高『死霊』展」が11月25日まで開催され、おだやかな秋の一日、横浜の文学館を訪ねました。会場の展示は『死霊』を中心にして構成され、埴谷さんの声が展示を見ているあいだ遠くから響いていて、とても懐かしい気分に充ちていったのでした。流されていた声は、「縊り残され花に舞う-閉ざされた現代を撃つ表現は可能か」(1976年於京都大学時計台ホール)と名付けられた集会でのもので、一緒に講演した吉本隆明が後に「一点一画も揺るがせにしない講演内容を聞いてびっくりした。この人は衰えを知らないなと思った」と書いていた講演です。また、その集会は5年前に39歳でなくなった作家高橋和巳を偲ぶ集まりでもありました。高橋について埴谷さんは「作家で妄想とアナキズムを共有する人物」と書いています。そして、その頃、清瀬の八木のアパートを訪ねていたわたしにとって「より深く考えろというバトンがリレーされる」という埴谷さんの講演のタイトル「精神のリレー」は、人生で最も重要な言葉となっています。

じつは、八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』を発行した年(1978)の秋、わたしは埴谷さんを訪ねて八木秋子著作集Ⅱの帯文を書いていただきました。

★第42夜
注釈:八木秋子の周辺の人たち-川柳作家児玉はる(3)-

★第43夜
アナキスト・八木秋子のこと 朝日新聞 1978/6/26
 ■アナキスト・八木秋子のこと -著作集Ⅰを中心に-
  ☆鮮烈な魂の軌跡-農村コムミュンを夢見て-
          堀場 清子

★第44夜
女性のアナ・ボル論争-『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状- 図書新聞 1978/6/24
 ■女性のアナ・ボル論争
  -『女人芸術』誌上で藤森成吉に公開状-
          江刺 昭子

★第45夜
著作集発行の経過と言うべきこと 1978/9/25「あるはなく」第7号
 八木秋子著作集『近代の<負>を背負う女』は、発刊後、予想を上まわる反響を呼び、いくつかの新聞や書評紙、冊子に紹介され、八木秋子への取材が重なりました。

 その書評を3夜にわたって紹介してきましたが、わたしにとってそのことはたいへん嬉しかったと同時に、本当にこれでよいのだろうか、八木秋子の生涯は正当に評価されているのか、わたしが編集した「八木秋子の世界」は彼女の尊厳を冒すようなことになっていないか、その不安はわたしの内部に沸々とわき上がってきました。

 そこで振り返ったのがこれから掲載する文章です。八木秋子はわたしへの感謝の言葉を「転生記」で書いてくれましたが、わたし自身、自分の立つ位置を見誤ってはならないという戒めの文章です。爪先立って、必死に、無我夢中で時代に向かおうとして緊張した時間の連続をいまでも思い出します。誤解を恐れていては前に進めない、自負を持とう。しかし、一方で傲慢になってはならないという気持ちでした、それはいまでも変わらない「八木秋子から教えていただいたことの一つ」です。

★第46夜
『近代の<負>を背負う女』出版記念会-南澤袈裟松さん

 1978年4月29日。東京文京区立新江戸川公園会館で出版記念会が行われました。出席者は約30名。第5号まで発行された八木秋子通信「あるはなく」の読者がほぼその数くらいだったという意味でいえば、京都の西川祐子さんや信州の渡辺映子さんなどをのぞいて読者のほとんどが参加されたといえます。戦前からの同志である「農村青年社」の仲間、婦人戦線や女人芸術の同人、女性史研究の方々、八木さんの親戚や縁者の人、そして私の友人たちが集ったのでした。
そこで交わされた、それぞれの方々と八木秋子とのつながりや著作集出版への祝福などは「あるはなく」第6号にまとめてありますが、今回は参加者の一人、「農村青年社」の同志であった信州佐久の南澤袈裟松さんをご紹介したいと思います。

実は2008年9月15日、朝日新聞(長野版)に大きな見出しで南澤さんのことが報道されました。

★第47夜
気配を残して立ち去った人たち(1)-信州佐久の農民と農村青年社

 103歳の南澤袈裟松さんの軌跡をたどった『栗ひろい』の出版記念会は浅間山の麓、島崎藤村ゆかりの小諸城址の近くのホテルで催されました。
記念会は出版に関わった身近な人たちが南澤さんを囲んで祝おうというものでしたが、朝日新聞による取材の後、地元の信濃毎日新聞などいくつかのマスコミで報道されたため、熱い余韻の中で行われたともいえます。
 実際、反響は予想を上回るものでした。『安曇野文芸』(安曇野文芸の会発行)で八木秋子の評伝を発表していた望月武夫さんからは、「数年前に八木秋子の資料を求めたけれどその手紙が転居先不明で戻ってきた、相京さんの住所を教えて欲しい」との問い合わせが入り、その後『あるはなく』『パシナ』(Ⅰ~Ⅵ)、そして保存していた『八木秋子著作集』などを送り、行き来が始まりました。ていねいに八木秋子の軌跡をたどった文章をこれからも読ませていただけると思っています。また、東栄蔵さんが「八木秋子」についてお書きになっていることも知りました。八木秋子の出版に夢中になっている頃に出版された東さんの『伊藤千代子の死』(未来社1979)がとても印象的だったので、その方が書いた「八木秋子-精神の軌跡」(『索34号』2004、後に『信州の近代文学を探る』信濃毎日新聞社2007に収録)をさっそく読みましたが、『八木秋子著作集Ⅲ』に収録した「八木秋子の日記」に対し、「秋子の最も優れた作品だ」という東さんの見解はわたしの編集意図に添うものでした。

★ 第48夜
南澤袈裟松さん逝く

 八木秋子の同志、信州小諸の南澤袈裟松さんが、春まだ浅き3月29日午前10時12分、103歳と8ヶ月の「闘いの軌跡」に終止符を打たれました。

 第46夜で、南澤さんの著作や記録をまとめた『栗ひろい-南澤袈裟松の軌跡』の出版と反響、そして八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』出版記念会での発言を掲載し、第47夜では小諸で催された出版を祝う会での「傾きぶり」に触れ、以前まとめた聞き書きを掲載しました。

 そして、第48夜には訃報を載せなくてはなりません。思えば、出版を祝う会の終了後、帰り際に「和服の裾をまくって祭り衣装を見せ得意げに笑う表情」が永遠の別れとなったのでした。

★第49夜
気配を残して立ち去った人たち -信州佐久の農民と農村青年社(2) 

 4月30日は八木秋子の命日でした(第2夜 毎日新聞などが伝えた訃報)。そして、農村青年社のただ一人の生存者であった南澤袈裟松さんも、浅春の3月29日、「気配を残して立ち去り」ました。

 『ちくま』5月号「農村青年社事件:10」(筑摩書房発行)には「地方同志・南澤袈裟松の革命と人生」が保阪正康さんによって書かれています。

 30余年前、信州小諸の自宅を訪ねた際の南澤さんの印象は「骨格のしっかりした、そして知的な風貌」だったと描写し、103歳まで生を長らえた南澤さんのことについて「連載の中で触れようとしていたが、書く前になくなってしまったことにたいへん申し訳ない思いが残る」と追憶しています。

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■第50夜をむすぶにあたり、西川祐子さんの『日記をつづるということ-国民教育装置とその逸脱』吉川弘文館 「女性が書く内面の日記-『八木秋子日記』に再度触れたいと思います。

☆引用-「女性が書く内面の日記-『八木秋子日記』-

 日記を公開しながら、八木秋子は書かれたテキストだけでなく、生身のわたし自身が読むべきテキストである、読むことによって物語を創るのは読者であるあなたたちなのだ、と宣言しているかのようだ。
 内面の日記は、八木秋子の場合、ながいあいだ現実のこの世では出会えなかった読者と交信するためのほとんど絶望的なコミュニケーション手段であった。しかし、この日記作者は生涯の最後の瞬間に、戦後復興と高度経済成長にたいする異議申し立てをした学園闘争世代の少数の人たちと出会うことにより、他人に見せないはずの内面の日記を自ら開示して、読者との交流の望みをはたす。日記にくりかえし書きつけた、形ある作品を書きたいという願望さえもその一部を著作集全三巻によって実現させた。『八木秋子日記』は、他人に見せない内面の日記とは、同時代の読者を拒否しながら、じつは遠く未来時間の読者にあてて書く手紙ではないか、ということを考えさせる。(P 278-9)

 この文章を読んだ時、ほんとうにうれしかった。八木秋子に関わって良かったなぁと心底思いました。八木秋子通信を発行して以来32年、一貫して励ましてくださった西川さんをはじめとする伴走・並走のみなさんに感謝します。

「呼吸を長くして時を待つ」と八木秋子が書いたように、私たちは30数年間にわたって彼女と併走してきました。そして、時機が熟してきたように思える2009年の現在こそ、『八木秋子日記』を読み返し、30数年前の八木秋子と相京からのメッセージを受け止め、未来の読者に「精神のリレー」を届けたいと思います。
これからも、みなさん併走をよろしくお願いします。
 

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