◆八木秋子の著作集U 朝日新聞1979年2月25日 八木秋子著作集第二集『夢の落ち葉を』がJCA出版から発売された。(一八〇〇円)。 昨年六月、本紙読書欄で堀場清子氏がとり上けた第一集『近代の〈負〉を背負う女』では、昭和初期の農村コミュン運動にかかわったアナキスト・八木秋子の既発表作品だけがまとめられたが、今回は、満州引き揚げ後で母子寮で働きながら書きためた未発表作品四十数編を収録。六十歳を過ぎ、通勤四時間、早朝から夜十時すぎの帰宅まできびしい仕事の中から生み出されたこれらの作品群には、ふるさと木曾福島で小学校教師をしていた青春時代、教え子たち、自伝風な家族点描、子どもから見た日露戦争……などが、みずみずしい情感をこめて描かれている。先駆者としての運命を生きた女性のユーモアと愛に満ちた意外な一面に触れることができる。 (JCA出版=東京都千代田区神田神保町1ノ42 日東ビル) ◆信濃毎日新聞 1979年2月28日 故郷の思い出つづる 木曽福島町出身の八木秋子さん 自伝的短編集め出版 木曾福島町出身の八木秋子さんのふるさとにまつわる著作を集めた『夢の落葉を−八木秋子著作集U』が、JCA出版から発行された。  八木さんは、一八九五年(明治二十八年)生まれ。松本市立女子職業学校を卒業し、結婚して一児の母となったが、家を捨てて離婚。その後は、上京して東京日日新聞の記者をしたり、昭和初期には、『女人芸術』や『婦人戦線』の編集に参加。アナーキズムの姿勢を打ち出して華々しく活躍した。また、「農村青年社」運動に加わり、県下を中心に講演などの活動を展開するが、そのために逮捕、投獄されるという体験をしている。戦後は、引き揚げ者などを収容する母子寮の寮母などをしてきたが、八十三歳になった現在は、都立の養育院に入寮して、個人通信『あるはなく』を、相京範昭氏の協力で発行しつづけている。  昨年四月に刊行された、著作集T『近代のく負>を背負う女』では、婦人の権利を主張して雑誌などに寄稿した評論・小説が中心であったが、寮母時代に書いたというこの『夢の落葉を』には、木曽の思い出をつづったものが集められている。  内容は二部構成で、明治から大正にかけての木曽福島が舞台。Tでは、祭りや風俗、貧しい山の人々の暮らしぶりを描き、Uは、子供時代の著者とその一族について、自伝ともいえる物語が、それぞれ短編を寄せ集める形で編集されている。  明治、大正、昭和−。この激動の時代を、ひたすら自己の生に忠実に、自由に生きようとしてきた一女性の心の中に、深く根をおろし、生き続けてきた「ふるさと」とは何か。幼い日の著者の目に映った木曽の風俗や人情、父母の姿や女の生き方などと共に、その思想の原点に触れるようで興味深い。` なお、「夢の落葉を」は、A5判、334頁、1800円。(JCA出版=東京都千代田区神田神保町1ノ42 日東ビル)。 ◆八木秋子と『夢の落ち葉を』 阿部浪子  信濃ジャーナル 1979年2月号  昨春、八木秋子さんの初の著作集『近代の〈負〉を背負う女』が上梓された。  その出版記念会が四月下旬におこなわれたが、お祝いにかけつけた人たちのスピーチはほとんど、八木さんの誠実で、きびしい人となりをたたえるものであった。  また、それとはちがう角度から、五十がらみの男性が、八木秋子には文体がある、といった言葉が、私にはとくに感銘ふかかった。  彼は、八木さんの著作集と個人通信《あるはなく》の印刷をひきうけている印刷屋の主人だそうだがまことに鋭い意見だ、とおもう。  八木さん自身も、この言葉がたいそう気にいったようすであった。  その後、新聞紙上に、『近代の〈負〉を背負う女』と八木秋子を紹介する文章がかかげられたが、それらは、著者が、昭和初期にアナキストとして長野県下の農村青年のコムミュン運動に身を挺したこと、八十三歳の現在もなお己れを<燃焼し続ける女>であること、<波乱に満ちた自立への闘い>を一貫しようとすることなどを、高く評価するものであった。  もちろん、こういう評価に私も賛成である。  「別に弁護する気にもならない。怒る気にもなちない。こういうふうに生きてゆくより仕方がなかった。生きるすべをほかに知らなかったのだ。それで一応いいと思ってやってきたんですもの……。」  八木さんは、このように、みずからの、<闘いに明けくれた>すぎこしかたを回想する。彼女の長い長い人生を要約すれば、このたび刊行された二番目の著作集『夢の落葉を』へ推せんのことばをよせた埴谷雄高氏のいうとおり、<酷しい自立の道>のひとことにつきるであろう。そのかけがえのない人生の軌跡に惹かれないわけはない。充分に魅力的だ。  しかし、それよりも私をつよく把えるのは、彼女がいまもなお文章を書きつづけている、ということである。  私が、東京都の養育院に住む八木さんを訪ねたのはおととしのことだから、彼女のわかい友人にさせていただいてから、まだ日は浅い。彼女と同郷の平林たい子のことが知りたくてお会いしたのが、そもそものきっかけである。しかし、八木さんには、平林さんは五十年の作家的生涯をまっとうしたところがエライわね、ということぐらいでたい子との直接の想い出はない、とわかってからも、私は八木さんをたびたび訪ねることになった。  四人の雑居部屋に、八木さんが畳に腹這いになって、書き物をしているすがたを目撃したとき、私はなによりも愕いた。そのかたわらで、三人の老女が昼下りのテレビをぼんやり見ている。私はすぐに八木さんに声がかけられなくて、しばらくその小柄な躯を見つめていると、なぜだかせつなくなってきた。そして、ものを書くことの恐しさと、その執念を見せつけられたように思えたのであった。  また、八木さんが文章を書く人であるためか、彼女の記憶の宝庫からとびでてくるさまざまな想い出が眼にみえるように、いわば描写的にかたられることも、私には注目させられた。  そんなわけで、八木さんと何度かお会いすることになったのである。  八木さんは、昭和三年から五年にかけて、《女人芸術》《黒色戦線》《婦人戦線》などの誌上に、小説や詩や評論を発表し、多彩な才能を発揮した。それらの作品はいま読んでも新鮮な感銘をあたる。「日本資本主義の鳥瞰」などの評論における<非凡な洞察力>、「ウクライナ・コムミュン」「一九二一年の婦人労働祭」などの小説にみられる鮮かなディテールの描写は、江刺昭子さんのいうとおり、<このまま文芸家としての道を歩めぱ、異彩を放つ存在になったろう>ことを、うかがわせるものである。  だが、八木さんは、この後実践運動に参加し、文筆活動から遠ざかったのである。  ところが、一九七六年九月、彼女は長い沈黙から、「マルキスト永島暢子との思い出」を『高群逸枝と「婦人戦線」の人々』に発表した。若いころの華やかさを消したかわりに、生きることの苦渋をにじませたこの作品は、味わい深いもので、彼女ならでは書けぬものであった。また、四十余年、彼女がペンを捨てずに、こつこつと技術的修練をか積みかさねてきたことを、明かすべきものであった。  その、いわば精進の過程にこっそり産みおとされていたのが『夢の落葉を』の長篇にほかならない。  『夢の落葉を』は、相京範昭さんの解題(《あるはなく》第八号)によれば、一九五八年から一九六二年まで、著者六十三歳から六十七歳にかけて執筆された。足かけ五年の日月を要し、しかも、その間に合わせて三回書きなおされた、という。  したがって、著者がその日記に<なんと愛すべきわたしの子供よ>としるすように、この作品は八木秋子生涯のうちでもっとも手塩にかけたものだ、といえよう。  第一部と第二部にわかれ、全部で四十一の章から構成されている。いずれも、著者の郷里・木曽を舞台にし、そこで過ごした幼年時代の想い出を、こまやかに織りあげたものである。  第一部には、「馬市」「福島の氏神まつり」などが収められ、読者を明治末期の風物・風俗へといざなう。やや冗漫で、通俗的で、きれいごとにすぎる箇所もあるけれど、物中心の現代人が忘れている感覚をよびおこすような、詩的で、素朴で、ユーモアあふれる表現が、随所にみうけられる。  第一部より、むしろ第二部の方がおもしろく、私には読みごたえがあった。その二十五の章はそれぞれ独立しているが、それらを通して読めば、そこにドラマが繰り広げられていることに気づくであろう。<木曽路はすべて山の中である>とは、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭の一節である。その舞台とおなじように、<山にあけて山に暮れる。どこを向いても、どちらに歩いても山しかない、永遠の谷間>に住む一家が登場する。誠実と忍耐をモットーにしながら二十八年問、郡役所という小さな職場をまもりぬいた父親、勝気で反抗的で、事あるごとに、女だてらに生意気な、といって娘たちを叱りとばす母親。そんな両親のもとで七人の兄妹はめざめ、広い広い海が見たいという気持にも似た切実な希いを、将来にいだいて成長してゆく。著者の愛情と念いはここに登場するすべての人間にひとしくこめられている。が、とりわけ近代的な生きかたがしたくて、どれだけあがいたか知れない姉妹の生きかたに、著者の主眼があるのではないか。三人の姉妹のうちでも、三女三千代のそれがいちばん激しく、せつない。分別くさい人間のたくさんいる日本がいとわしくて、彼女はアメリカへ渡る。そのとき彼女の採った手段は、見も知らぬ移民男性に求婚して渡米する、というものであった。こういう向う見ずな態度は情熱的ではあるが、理論的ではないように思う。しかし、彼女の、社会への抵抗の精神は、著者の生きかたを投影するものでもあり、私にも理解できる。  また、可れんな五女スエが盗人のところに盗られた品物をとり返しに行く挿話も、なかなか愉しい。彼女の一途なすがたは感動的だ。  ほかに長女、次女、四女が登場するが、それぞれ個性的に描かれていて、今日の女性にいくつかの問題を提出している。  さて、先日、私は八木さんをたずね、この作品をかいた動機について質問してみた。「それまで硬いものを書いてきたので、今度は淡々とかいてみたかった。そしていつまでも書き継いでゆくためにああいう素材をえらび、文章も平易にした。幼年時代を回想することによって、どうこういう特別な意図はなかった。とにかく、自分の持っている資質がだせればいいと思ったのです。」  と八木さんは答える。淡々と書いたものが、ひとつには人の生きかたを追求したものになったことは、先にかくとおりである。  八木さんは、この作品を、浮浪者や引揚者を収容する母子寮につとめているとき、多忙な日課のあいまをぬって、少しずつ書きためていた。母子寮に住むいわゆる底辺の人たちとの接触を通じて彼女が得たものは、作品のなかに反映しているはずだ。著者が登場人物を上から見下すのではなく、いとおしみ、暖かさ、共感をもって描くその視点こそ、それを反映したものではないだろうか。  八木さんは、この作品執筆後もかきつづけてきた。彼女にとって書くとはなにか。  「書くことは自分にとって生きる支えであった。それがあるからこそ、生きてきたのだ」と八木さんはしみじみ回顧する。男児を夫のもとにおいて家を出たあとも、実践運動に挫折したあとも、彼女は、文字をきざむことで自己省察し、悲惨な境涯から脱け出ようとした。言い換えれば、<酷しい自立の道>を歩んできたその背後で八木さんを支えてきたものは、書く、という行為にほかならなかった。その行為をとおして「肉体的な苦痛だった」という子捨てへの苛責も、「女だけが苦労した」という実践運動でうけた屈辱も、彼女の内部ではすでに客観化されているのではないだろうか。  つまり、八木さんの作品は、生活の現場のなかで、内面から衝きあげてくる人間的な要求を、自分の言葉で表わしたものであり、そこに、印刷屋の主人がいみじくも語った八木秋子の文体が存すると、私はおもう。  彼女はおそらく、<死ぬまで不安と動揺を引きず>りながら、文章を書き続けてゆくにちがいない。 『近代の〈負〉を背負う女』『夢の落葉を』はいずれもJCA出版から刊行。その住所は、東京都千代田区神田神保町一ー四二日東ビル一階。(新座市) ◆書評 夢の落ち葉を 大宮市 橋本義春 リベルテール 1979年11月  何んとも可憐純真な文集が出版された。第一集<近代の《負》を背負う女>は論文時評小説ルポ集で今日の若者の言葉だと、どこかツッパッタ姿勢があったが−それは思想を生きる者として仕方のない面もある−ここでは清純で可愛い珠玉の文が見受けられる。都会生活者としての八木秋子は三日月に祈る山中鹿之助と同じく<われに七難八苦を与え給え>と言う楽天性と悲壮味が混在しているが、前書きにあるような忙しい寮母生活を生きる合い間に書いた、どこに発表する宛のない文集では、木曾福島に残してきた<八木あき>に心ゆくばかり語らせている。  つまり都会文明の氾濫のただ中で、なしくずしにすり減らされて行く生命をいとおしむ時、また精気を求めて再生を願う時、彼女の言うプリミティブなものとは木曾福島の<樹からふきあがる緑>であり、<寒気のするようなふかい青>い淵であり、キソノナカノリさんであって、そうした故郷の万象を呼びだし語りかけ、また語らせることで自己の心の平衡を保とうとしたのだ。例文一つ。  「警官が提灯をかかげ声を洞らしてそばをとびまわっている。群衆はスリルを追って東に、西に押しあい、もまれながら進み退いたりする。ヒヤリとする最高の瞬間は、横からぐるりとまわしてタテにまくりたおすとき。町幅いっぱいのおみこしの横木は、タテにぐうらと突っ立つ、どちらへ倒されるか、人々はぱっと後ずさる。店の軒があぶない。あぶない、ソースケ・コースケ。二階から見おろしているその鼻先きに、横木のあたまがぬっと近よる、呼吸をつめる、その瞬間、あッというまにどッしいんと倒れた。無事。…たちまちとびついて、宗助・幸助とはじまる。ダンヂリが危ない。」(福島の氏神まつり)P44。この叙述の中にまつりの熱気が活写されている。  文章構成は凝音の多用と名詞切れによって実際の祭りの進行をスナップショットのようにパッチリカメラに納める−つまり文章で定着させている。そこがなかなかの文章家であるゆえんで、心憎い書きぶり。六〇才代で書いたみずみずしさに恐れ入る。  アナーキズム文学は終った、アナーキストの文学があってよい…と語ったアナーキスト詩人がいる。これまでそうした提言はあったが実作にめぐりあう機会がなかった。  八木さんのこの文集はさような規定さえどんなに無意味であるかを示すだろう。思想性とは自分で獲得するものであって、それはさりげなく、ひっそりと、心を鎮めて視る人にだけ提示されるものであるらしい。八木さんはそう教えて呉れる。