玄條網(玄條ネット)とは。
八木秋子は、その生涯において、たくさんの人たちと不思議な縁で網(ネット)状にむすばれていました。
私が初めて会った1975年、清瀬の独り住まいのアパートの一室で、突然「小川未明、有島武郎」が「子どもを置いて家出した」時に関わる人物だと話し始めました。その時は正直言って「いったい目の前にいる80歳の老婆の話は本当だろうか」と思いました。
まして、家に置いてきた息子の健一郎と一緒に暮らそうかどうか迷っていたという昭和9年頃の話になった時、その後首相となる「近衛文麿」やそのブレーンだった後藤隆之助が知り合いとして出てくるのは一体どういうことかと思ったものでした。
しかし、じっさい近衛文麿は八木秋子を知っていました。八木の中日新聞の訃報を読んだ女性、「健一郎の臨終の場でたった一度だけ会った八木秋子」を忘れなかった鳴海美代恵さんの「7日間の奇跡」のような記憶を直接うかがったことで確信しました。
健一郎が母の八木秋子の消息を追って中国華北で働いていた、その工場へ、偶然視察に来た近衛首相に「母、八木秋子を尋ねてきた」と言った時、「ああ、八木さんなら満州にいる」と近衛が応えたというのです。「昭和研究会」の後藤隆之助宅にもその頃行っていました。その妻が木曽出身で「たまたま訳のある知り合い」だったからです。
八木秋子がなくなってから発行した『パシナ』をはじめるきっかけは、この鳴海さんの出現があったからであり、その「瑞々しい記憶」を残そうと思ったからでした。
また、今回「玄條網」で触れる「小倉正明」さんのことも、まことに不思議な出会いの連続というか、縁でむすばれているように思います。
「新国技館に奉納される衝立にまつわる木曾上松の小倉さんと玉乃海の戦友というつながり」が地方版の記事記事となり、その中で何と「八木秋子に満州で命を助けられた」という小倉さんの話があったのでした。実際に訪ねてみると、その1945年8月の「混乱の満州奉天で出会った一瞬」を確認することが出来、そのインタビューを「俺は<パシナ>の機関士だ」というタイトルでまとめてみました。
そのように八木秋子をめぐる世界は奇跡的な出会いと関係が結びつき、網の目状になっていました。その報告は逝去後に発行した『パシナ』やネット上でまとめた「八木秋子注釈」で少しは触れてきましたが、怠惰な私のせいでそのままになってきました。
少しだけ言い訳すると、私は新しい本の形を作りたいと思ってきました。一つの事実からいろんな方向へ伸びる触手の全体が見える形、触手の最先端が閉じるのではなく次の出発になるような形、そのような本の形態を考えていました。「玄條網(ネット)」の意味はそこにあります。
この「玄南工房」は八木秋子に関わる原点的な資料を揃えました。そこにいろいろな資料を加え、八木秋子と関わりがあった人たちのことを結びつけることで、新しい何かが生まれるのではないか、そう思って「玄條網」を立ち上げました。
ここでは「八木秋子と関わった人物がクローズアップ」されることになります。八木秋子とその人物が引き合うことで生じる磁場がどのように「玄南工房」の閾値に変化を与えるか、それを楽しみにして進めていきたいと思います。