八木秋子への注釈(第21夜〜30夜)

目次

★第21夜  家出前夜

八木秋子が子供を置いて家出をするにいたるには、「大正の風」を背にいっぱい受けた時代の背景というものがあると言わざるを得ません。

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★第22夜  家出

高工嘱託の妻  原因不明の家出 子供を寝せた儘で
1921年(大10)5月4日付東京朝日新聞夕刊

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★第23夜  「あるはなく」第1号発行と有島武郎

クロポトキンが死んだ1921年(大正10年)、八木秋子は有島武郎に家出の決意を固めるために会いにいき、家出という新たな出立をしたのです。

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★第24夜  「あるはなく」第1号発行。その反響

第1号が発行され、次に何を書くかという構想に苦闘している際、力づけられたのは通信を読んだ人たちからの手紙でした。

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★第25夜  パサージュと侠

「日記」という未完の作品を書き続けた八木秋子の時間は、いつも「通過点」。「本になろうとしている過程そのもの」だったと思います。

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★第26夜  注釈:八木秋子の周辺の人たち―川柳作家児玉はる―

晴ればれとして何か起きるのかも知れぬ
青空に電線もよし退院す

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★第27夜  わが子との再会 1977/9/20

82歳の八木秋子は力をふりしぼり、「親と子の再会」(敗戦直後のわが子健一郎との再会)を書き上げました。

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★第28夜  八木秋子関連出版物

わたしが関わった「八木秋子に関連した出版物」を掲載します。

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★第29夜  対話1977年9月23日

この会話は、第2号発行直後。興奮気味のまさに渦中での会話といったもので、八木秋子との共同作業がもっとも熱気をはらんでいた時期でした。

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★第30夜  対話1977年9月23日(2)

【八木】あれが1番こまる(笑)。アナーキズムなんてことは言葉をつめて1口で言えることじゃない。

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